この記事からわかること
1911年にはじまる辛亥革命の
背景・経緯・結果・その後の影響などをわかりやすく解説します
辛亥革命を大まかに
辛亥革命の登場勢力・登場人物
辛亥革命の経緯(第一革命から第三革命まで)
よくある質問への回答を各所に散りばめました
・孫文がハワイや東京で活動した理由は?
・湖北新軍はなぜ寝返った?
・袁世凱が民主化を阻害した理由は?
・袁世凱が帝政を復活させた理由は?
などなど、
様々な角度から疑問を解決できる記事にしています
さて本題にうつりましょう
辛亥革命とは?(大まかに)
清(満州族)の統治に不満を持った漢民族が、
孫文を中心として蜂起し、
清を滅ぼした革命のことを指します
辛亥革命は3つステップに分かれており、
それぞれ第一革命・第二革命・第三革命と称します
★第一革命
1911年の四川暴動から始まり、
清軍司令官 袁世凱と協定を結び、
袁世凱が清を離反
清の宣統帝を退位させ、
清が滅亡するところまでを指します
★第二革命
中華民国内での民主派の台頭を恐れ、
大総統 袁世凱が民主派を弾圧
→民主派がクーデタを起こそうとしたが失敗に終わる
革命は失敗に終わりましたが、
この流れを第二革命といいます
★第三革命
専制政治を強める一方、
対外的には日本からの二十一か条要求に屈してしまうなど、
弱気な態度をとった袁世凱に対して
市民の不満が爆発
袁世凱は自身の権力を維持しようと
「帝政復活」を宣言しますが、
市民の力に押されて帝政復活を撤回
袁世凱が辞任し、同年死去
これまでの流れを第三革命と言います
ここからは詳細を解説します
登場勢力/登場人物
清の皇室
清の皇帝は満州族の最有力派閥
「愛新覚羅」家から輩出されました
皇帝は宣統帝(愛新覚羅溥儀)でした
ちなみに宣統帝が即位したのは2歳のときです
2歳ですと!?
なぜ皇帝が幼いんですか?
原因は清の政治腐敗です
清ではかつて西太后が強大な権限をもっていました
幼少の皇帝を即位させ、
その皇帝を意のままに操る
「垂簾聴政」という政治をおこなっていました
皇帝も小さいころは
政治のことなんてわかりませんから
政治のほとんどを西太后に委ねたのです。
西太后は皇帝を意のままに操り、
権力を濫用していました
しかし皇帝が成人すると、
政治のことがよくわかってきます
西太后がやっていることが間違っていることも
たいてい理解できます
皇帝の成人は、
西太后にとって危険だったので
西太后は皇帝が成人するとともに暗殺していました
宣統帝の先代
光緒帝もその被害者です
光緒帝は成人とともに毒殺されてしまい、
表向きには別の死因が公表される形になりました
光緒帝の死後、
宣統帝が2歳で即位します
そして西太后から操られてしまう予定でしたが、
西太后はその後すぐに死んでしまいました
そして2歳の宣統帝が
清の最後の皇帝となります
しかし半世紀以上にわたる
清の政治腐敗に対して、
国民の目は厳しいものでした
物心がつく前に辛亥革命が起こり、
宣統帝は退位することになるのです
清軍司令官 袁世凱
袁世凱は漢民族の有力者です
清で内閣が設置されたころ、
内閣総理大臣をつとめ、
同時に西洋式新軍の司令官を務めていました
清の国内で最も権力を持った人物でした
袁世凱が絶大な権力を持っていたのはなぜ?
袁世凱は李鴻章の後継者だからです
李鴻章は北洋軍閥という私兵団を率いながら、
政治家を兼任していた超エリートでした
その李鴻章の右腕として力を振るい、
李鴻章から北洋軍閥と政治権力を受け継いだのが袁世凱です
袁世凱は清の政界で名を轟かせました
清を滅ぼそうと思ったら、
清の皇帝よりも袁世凱の方が厄介です
政治権力だけでなく、
軍事力も併せ持っていますからね。
「袁世凱をどう扱うか?」という点が、
辛亥革命を成功させるための分岐点となるのです
漢民族の代表 孫文
清(満州族)に対して反旗をひるがえし、
中国南部に漢民族国家「中華民国」を建国
辛亥革命を指導して清を滅亡へ導く
これらの歴史的偉業を成した人物が孫文です
孫文の素性については、
のちの章で詳しく説明していきます。
辛亥革命前夜
この章では革命の背景と、
辛亥革命の準備段階における孫文の動きについて解説します
【革命の背景①】漢民族と満州族の対立
まず清という国の成り立ちを説明しておきます
清は満州から南下した満州族が
中国大陸の漢民族を支配下において成立した国です
そのため、
清の支配層は満州族ですが、
清の国内に住む多くの民は漢民族なのです
国の中では少数派の満州族が
多数派の漢民族を束ねていくためには、
工夫が必要でした
満州族はアメとムチを使い分けて、
漢民族をうまく統治したのです
アメとムチの例を示します
【アメ】満漢併用制
中国の伝統的な官吏登用試験 科挙を実施し、
漢民族の官吏を満州族の官吏と同じ数だけ雇い入れる
これを「満漢併用制」といいました
支配される側の漢民族であれど、
学問を身につけて国家試験に受かれば、
支配層の仲間入りができるので、
一発逆転のチャンスがあったのです。
ただ、甘やかしてばかりでは国は統治できません。
【ムチ】辮髪の強制・文字の獄(言論統制)
漢民族は満州族のヘアスタイル
辮髪を強制されました
後頭部まで剃り上げ、
後頭部の髪を伸ばして後ろで結ぶヘアスタイルです
東京リベンジャーズのドラケン(龍宮寺堅)や、
キン肉マンに登場するラーメンマンの髪型です
実際やってみると、
ドラケンほどかっこよくありませんが(笑)
漢民族は詰め寄られます
「髪を落として辮髪にするか、逆らって首を落とすか」
「どちらかを選べ」
とね
怖すぎるでしょ
こうした満州族の高圧的な支配に対し、
文句を言えば処分の対象になります
満州族を批判する書物はすべて発禁処分となりました
これを文字の獄といいます
満州族の支配に対して、
漢民族が不満を持つのに疑問はありませんね。
そしてさらに、
漢民族の気持ちを逆なでする出来事が起こります
【革命の背景②】光緒新政への不満
日清戦争への敗戦や
義和団事件による被害を反省し、
20世紀はじめの清では
内政改革(光緒新政)が行われました
光緒新政では憲法大綱が制定され、
これまでの清の政治のありかたを一新
責任内閣制と議会開催(9年後)が約束されました
そして内閣が組織されるわけなんですが、
十数人におよぶ内閣のメンバーの顔ぶれを見ると
ほとんどが清の皇室や満州族有力者だったのでした
漢民族の人々はもちろん不満をもちました
不公平ですからね。
そして漢民族は悟ります
「政治や言論の力では、漢民族への待遇を変えることはできない」
「暴力で清を打ち倒すしかない」と
革命がおこるときはいつもこんな感じです
孫文 興中会 / 中国同盟会を結成
「清の皇室に任せておいては、中国は滅ぶ」
孫文は清の惨状を見て
「漢民族の漢民族による漢民族のための国をつくろう」
と意気込みました
「清を倒せば、嫌な辮髪とはおさらばだ」
※補足:革命前の孫文は辮髪でした
そして漢民族国家を建設するための活動を始めます
革命を成功させるため、
まずは仲間を集める必要があります
まず孫文は
1894年 ハワイで「興中会」を開きました
【質問】興中会の結成場所はハワイ なぜ?
なぜハワイなんですか?
兄がハワイで勤務しており、
兄のもとに身を寄せていたからです
あと、清の国内で革命結社を立ち上げたら
すぐに逮捕されてしまいますからね(笑)
外国で革命結社を立ち上げる方が安全です
1905年 孫文は日本の首都 東京へ行きます
そこで光復会と華興会(ほかの革命結社)の代表と会談し、
興中会・光復会・華興会の合併を決定します
そして中国同盟会が結成されました
【質問】中国同盟会の結成場所は東京 なぜ?
東京に多くの留学生が送られていたからです
清代の末期には、
日本の政治をモデルとした内政改革と、
優秀な人材を育てることを目的として、
東京への留学が奨励されました
本来は欧米に留学させたかったのですが、
お金がないので近場の日本が選ばれたのです
留学プランに手を上げたのが、
高学歴志望の勉強熱心な漢民族の子息でした
留学生たちは日本の政治を見て感激するのですが、
それと比べる形で、
清の政治がいかに腐敗しているかを知ってしまいました
そして孫文と同じく、
「清に任せておけば中国が滅ぶ…」
という危機感を持つようになり、
彼らの留学先の東京に
革命の志士が集まることになったのです。
機関誌『民報』に記された「三民主義」
中国同盟会は機関誌『民報』を発刊し、宣伝活動を開始
虐げられている漢民族に対して同盟会の方針を伝え、
仲間を集めていきました
『民報』には
中国同盟会の方針「三民主義」と「四大綱領」が明記されました
この「三民主義」と「四大綱領」が漢民族の心を打ったのです
中国を民主化するための
三つの方針を「三民主義」と言います
①民族の独立
→清(満州族)の支配から脱出し、漢民族国家を作ること
②民権の伸長
→漢民族による民主的な国家をつくること
③民生の安定
→国民の生活を安定に導く政治を行うこと
三民主義を成し遂げるために必要な、
具体的な行動目標を4つ上げたのが「四大綱領」です
①駆除韃虜:満州族を中国から追放すること
②恢復中華:漢民族の国を復興すること
③創立民国:民主的な共和政国家をつくること
④平均地権:地主に集中していた土地を回収し、農民に分配すること
この方針を掲げ、
中国同盟会の支持者が増えていきました
辛亥革命 第一革命
ついに辛亥革命が始まります
この章以降では、辛亥革命の発生から終結までを詳しく解説します
第一革命:清が滅ぶまで
第二革命:立ちはだかる袁世凱 民主化の失敗
第三革命:袁世凱の失脚 民主派の勝利
この3ステップに分けて解説していきます
この章では
第一革命に関していきます!
【辛亥革命の引き金】鉄道国有化問題
漢民族の資産家・実業家の経営する鉄道を
清国政府が国有化し、漢民族が激怒した
→これを引き金に、辛亥革命が発生する
清の政府が漢民族の財産を不当に奪ったわけですね…
そりゃ怒りますね
でも、清の政府がそんな暴挙に出たのはなぜですか?
清は諸外国から追い詰められていたからです。
清は義和団事件の賠償金未払いにより、
列強から賠償金の担保を差し出すように求められていました
担保とは、
「万一お金を払えなかった場合に、これを売って支払いにあててください」
という保険のようなものです
あろうことか、
清の政府は
「賠償金を払えなかった場合、漢民族が経営する私鉄を売ります」
という返事をしてしまい、
漢民族の経営者が持つ鉄道を勝手に国有化してしまったんです
ひどすぎる…
これで漢民族の怒りに火がつき、
各地で武装蜂起が始まります
四川暴動と武昌蜂起
漢民族の最初の暴動は四川省で起こりました
周囲の漢民族も巻き込み、
暴動の規模はみるみる膨らんでいきました
清の政府は四川暴動鎮圧のため、
湖北新軍を派遣します
湖北新軍とは、
日本軍を真似て西洋式の軍備・戦術を導入した精鋭部隊です
光緒新政のころに結成されました
しかし、湖北新軍の司令官が言います
「ときは満ちた。」
「反乱を起こした漢民族に合流し、清を倒す!」
つまり湖北新軍は清から反乱軍に寝返ったのです
湖北新軍は武昌で清軍に反旗をひるがえしました。
これを武昌蜂起といいます
【質問】湖北新軍が寝返ったのはなぜ?
湖北新軍が裏切ったのはなぜですか?
湖北新軍のメンバーは日本留学を経験しています
西洋式の軍備を学ぶためにね。
そして日本留学の際に日本の先進性を目の当たりにしました
清の腐敗した政治を見比べると一目瞭然
彼らは清を見限り、
清への離反の機会をうかがっていたと言われます。
中華民国の建国宣言 孫文「臨時大総統」に
「革命が始まった」
という知らせを聞き、
孫文は東京から中国に帰ります
孫文が帰国したころには、
反乱軍は中国南部の多くの省を平定していました
孫文は反乱軍の力をまとめるため、
制圧した各省の代表を集結させ、
会合を開きます
そして1912年1月1日
新年を迎えるとともに、
漢民族による新国家の建国を宣言しました
名を「中華民国」
首都は南京
政体は共和制(皇帝・王の座を設けない国)
市民の代表として「大総統」の役職を設け、
孫文を臨時大総統としました
なぜ「臨時」なんですか?
選挙や議会の承認を通じて選ばれた
大総統ではないからです
まだ清軍との戦争が続いているので、
いますぐ選挙を行うのは得策ではありません。
戦いを終えてから
選挙を通じて議会を開き、
議会の承認のもとで
正式な大総統職を設けるつもりでした
袁世凱との交渉 清の滅亡へ
清を滅ぼすために、
最後の戦いが待っています
「ストロングマン」こと袁世凱です
袁世凱は清軍の司令官をつとめ、
実質、皇帝よりも武力が強いです
袁世凱が率いる軍には西洋式の最新装備が導入され、
正面から戦えば、どう見ても勝ち目はありません
戦いぬいて袁世凱を倒したとしても、
かなりの血が流れるでしょう
中華民国の首脳陣は頭を抱えます
そしてひとつの案が決行されました
袁世凱に中華民国の臨時大総統職を約束して言いくるめ、
袁世凱を味方につける
→清の皇帝に退位を促す
ラスボスを味方に引き込むとは大胆ですね…
袁世凱と戦った際の被害は計り知れません
人民の血をできるだけ流さないために、
袁世凱に中華民国のトップの座を売る
苦肉の策ですが、
死者を少しでも減らすためには必要な策でした
袁世凱は少し検討しました
「選択肢は2つ」
「滅びゆく清の皇帝の下で、No.2として権力をふるう」
「勢いを増す新国家のもとで、トップになる」
そして袁世凱は
中華民国の臨時大総統となることを承認しました
そして袁世凱は清の宣統帝に退位を勧告し、
宣統帝は退位
勝ち目がないと認めた清の政治家たちは、
中華民国に降りました
こうして
1912年2月 清は滅びました
ここまでを第一革命といいます
「良将は戦わずして勝つ」
古代の兵法家 孫子の言葉です
まさしくこの言葉を体現し、
最後は血を流さずに清を滅ぼしたのでした
辛亥革命 第二革命
臨時約法の施行と議員選挙
清との戦いを終えたころ、
臨時約法が施行され、選挙が行われました
中華民国に議会ができて、
正式な憲法が採択されるまでの間に使われる
臨時の憲法のこと
→最初の議会を開く際の選挙制度や、議員定数・意思決定の方法などを定めた
この臨時約法に基づいて、
新しく開く議会の議員選挙がおこなわれました
選挙でもっとも多く得票数を稼いだのが、
宋教仁や孫文が結成した国民党でした
宋教仁の暗殺と第二革命の開始
国民党が圧勝する姿を見て、
袁世凱が焦ります
「このままでは私の権力が危うい…」
1913年 袁世凱が動きます
袁世凱は国民党の指導者 宋教仁を暗殺してしまいました
もちろん
「袁世凱は民主政治の敵だ」
といって孫文らが応戦します
こうして第二革命が始まりました
しかし袁世凱は私兵を抱えており、
権力・実力・財力どれをとっても強すぎました
孫文たちは蹴散らされ、
孫文は命からがら日本へ亡命しました
そしていつか袁世凱を倒すべく、
孫文は東京で「中華革命党」をたちあげました
【質問】袁世凱が民主化をさまたげたのはなぜ?
民主主義には大きな欠点があります
「意見がまとまらなくなり、意思決定が遅れてしまうこと」
「余計な意見対立が生まれること」
袁世凱を擁護するわけではありませんが、
当時の中華民国は悠長に民主政治をしている場合ではありません。
というのも、
革命後の混乱期は
外国からの干渉を受けやすいからです
この例はオスマン帝国の例で証明されています
1908年 オスマン帝国では青年トルコ革命が起こり、
ミドハト憲法が復活
議会が再開され、
スルタン(皇帝)の権限は制限されました
しかし、革命後の混乱の隙をつかれ
ブルガリアがオスマン帝国からの独立を宣言
そしてオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまいました
さらにオスマン帝国はイタリアから戦争をふっかけられ、
リビア(トリポリ・キレナイカ)をイタリアに奪われています
革命後の政権はもろいのです
袁世凱はオスマン帝国の二の舞になることを危惧していたともいえます
辛亥革命 第三革命
袁世凱 二十一か条要求を承認してしまう
1915年 日本が中華民国に二十一か条要求を突きつけました
今回の目玉となるのが、以下の2点です
①山東省のドイツ権益は、日本が継承する
②遼東半島南部・南満州鉄道の租借期限を99年延長する
★結果
袁世凱は日本の要求を認めてしまった
え、袁世凱さん
認めてしまったのですか?
この要求は中華民国 袁世凱政権への「最後通牒」とする
といって、
「断れば中国に攻め入るぞ」
という脅しをかけてきました
生まれたての新国家が
当時の日本のような近代国家に勝てるはずがありません
袁世凱は落ち着いて判断しました
日本がこのタイミングで
このような要求をしてきたのはなぜですか?
これは第一次世界大戦の影響です
欧米諸国はヨーロッパの戦線に釘づけで、
アジアの事情に目を向ける余裕がありません
その隙に、日本は少々強引に
アジアでの権益を拡大しようとしたのです
日本が要求した地について説明を加えておきます
まずは山東省から。
1914年 第一次世界大戦がはじまりました
日本は日英同盟を理由に参戦し、ドイツに宣戦布告しました
その際に日本は
ドイツが利権を持つ山東省と
山東省のドイツ軍港 青島を襲撃し、占領しました
山東省は中国固有の地だったのですが、
日本は「ここ、日本のものにしてくれるよね?」
と圧をかけたのです。
次に遼東半島です
遼東半島南部はもともとロシアが租借していましたが、
日露戦争に負けたロシアは、日本に権益を譲りました
ロシアの租借期限は1898年から25年間
日本はその租借期限ごとロシアから受け継いだのです。
そして日本は
「租借期限をあと99年伸ばせ」と圧力をかけたのでした
そして袁世凱はこの無茶な要求を認めてしまいます
袁世凱の帝政復活宣言と第三革命
二十一か条要求をみとめるというのは、
日本と戦わずに負けを認めたようなもの
その判断をした袁世凱に対し、
国民からの不満がつのります
政界内部の袁世凱の支持者や
軍までもが、少しずつ袁世凱を見限っていきました
袁世凱は自分の権力の弱体化を恐れ、
啖呵を切ります
「中華民国は帝政を敷く」
「私は今日から皇帝だ」
といって、帝政復活宣言をしました
この暴挙はさすがにかばいようがありません
政権内部の人々や国民が一斉に離反し、
袁世凱を打倒するための大革命が起こりました
これを第三革命といいます
味方がいない袁世凱はたちまち敗北
帝政復活を撤回し、
政界を去りました
その後、これまでの活力はどこへいったのやら
翌年に袁世凱はゆっくりと息を引き取り、
生涯を終えました
【質問】袁世凱が帝政復活宣言をしたのはなぜですか?
袁世凱が帝政復活を宣言すると、
多くの人から反発されるってわかるはず…
袁世凱が周囲の反対を押し切ってまで、
わざわざ帝政の復活を宣言したのですか?
袁世凱が帝政を復活させようと考えた理由は、
清の領土を維持するためです。
え?
実は辛亥革命が起こったころ、
清に従っていた周辺民族が独立を宣言しているのです
これは
「清の皇帝には従っていたが、中華民国には従わない」
という意思の表れでした。
清の支配民族の動きをまとめます
★外モンゴルの独立
1911年 モンゴルの独立宣言
→独立運動の末、外モンゴルが独立に成功
※内モンゴルは独立に失敗し、中華民国に編入されました
1913年 チベットが独立を宣言
→ダライ=ラマ13世がチベットの独立を宣言し、独立に成功
このように、
辛亥革命以降、清に従っていた民族が次々に独立を宣言しています
周辺民族の中国離れが進んだのはなぜ?
中華民国に従うメリットがなくなったからです
詳しく説明します
★中国に従うメリット
周辺民族の首長は
最強の中国皇帝からのお墨付きをもらい、
自国の統治を円滑にしていたのです
「俺のケツモチは中国皇帝だぜっ」
「逆らったら痛い目を見るぜっ」
と言いながら、国内を丸めることができました
しかし中国が民主国家「中華民国」になり、
強大な権限を持つ中国皇帝がいなくなってしまいました。
これでは中国皇帝からのお墨付きをもらえません
中華民国の大総統から
お墨付きをもらえばいいのでは?
中華民国のリーダー(大総統)はあくまで
「市民の代表」という立場です
「中国の皇帝からお墨付きをもらったぜ」と
「中国の市民の代表からお墨付きをもらったぜ」
というのでは、箔が違いますよね(笑)
これでは
「中国に従うことで国内の統治を円滑にする」
っていうメリットを活かせません。
もはや中国に従う意味がないのです。
こうした理由から、
周辺民族の首長は
中華民国のもとを離れていったのです
そこで袁世凱はこう考えました
「このままでは中国の領土を維持できず、中国は弱体化してしまう」
「周辺民族を統治するには、伝統的な皇帝制度が必要だ」
「皆から嫌われるが、私が皇帝になろう」と
ただ権力が欲しかっただけなのか?
中国の領域を守るためなのか?
袁世凱の真意は彼にしかわかりません。
袁世凱をかばうわけではありませんが、
袁世凱が帝政を復活させるメリットは十分にあったのです。
※あくまで「中国にとってのメリット」ですけどね
軍閥の割拠
袁世凱の死後、
袁世凱の北洋軍閥では後継者争いが発生
北洋軍閥は分裂し、
血みどろの争いが始まります
さらに地方の有力者が貧民を私兵として雇い、
新たな軍閥を形成していきました
そして軍閥同士で中国の覇権をめぐって争うようになったのです
各軍閥は勢力争いに勝利するため、
中国進出を狙っている外国勢力の力を利用しようと考えました
そして国内の軍閥と外国勢力の思惑が入り混じる、
混沌の戦いが始まっていくのです。
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