こんな人におすすめ
第一次世界大戦について学んでいますが、
原因や全体の流れについて
わかりやすく
詳しく教えてほしいです
この記事では
1914年にはじまる第1次世界大戦の
背景・流れ・結果などをわかりやすく解説します
第1次世界大戦とは?(大まかに)
第1次世界大戦の登場勢力
→各国の関係性も解説
開戦から終戦までの流れ
著名な戦闘
第1次世界大戦とは?(大まかに)
第1次世界大戦は
三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)を中心とする勢力と
三国協商(イギリス・ロシア・フランス)を中心とする勢力が争い、
更にそれらの交戦勢力の同盟国が参戦し、
世界大戦に発展した戦争です
1914年 オーストリア支配下の
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都 サライェヴォで
オーストリア皇太子夫妻が
セルビア人の青年プリンツィプに暗殺された事件を発端に
第1次世界大戦が始まりました
オーストリアはセルビアに宣戦布告し、
セルビアはロシアに保護を求め、
ロシアが参戦
オーストリアとロシア・セルビアの戦争がはじまります
そこからオーストリアの同盟国(ドイツ・イタリア)と
ロシアの同盟国(イギリス・フランス)が芋づる式で参戦し、
ついに世界大戦に発展してしまったのです。
第一次世界大戦では各地に塹壕が形成され、
塹壕戦によって戦線は膠着状態になり、
戦争は長期化しました
戦争は4年間続きましたが、
1917年のアメリカ参戦によって、
三国同盟が不利に立たされます
そして三国同盟の敗色濃厚の中、
三国同盟の中で最強の国
ドイツで事件が起こります
キール軍港の水兵反乱を発端にドイツ革命が起こり、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位
帝国政府が崩壊し、
ドイツは戦闘継続困難になりました
ドイツで立ち上がった新政府は
三国協商側に和平交渉を求めました
三国同盟側の国々は次々に降伏し、
戦争は終結に向かいました
最終的にパリで講和会議が開かれ
ヴェルサイユ条約が結ばれ、
第1次世界大戦は終結しました
第1次世界大戦の登場勢力と各国の関係性
三国同盟側
三国同盟は1882年に結成された
ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟です
主力となったのはドイツでした
ドイツ
ドイツは皇帝ヴィルヘルム2世によって
工業力と軍の強化が進められていました
しかしドイツ帝国は
皇帝ヴィルヘルム2世の外交の失敗により、
あたり一面敵だらけになってしまいます
どうしていろんな国から嫌われたのですか?
植民地獲得を手荒に行ったからです
ドイツ帝国は
1871年にドイツを統一して建国された「新参者」でした
古参の覇権国家
イギリス・フランス・ロシアなどと比べて
植民地が少なかったのです
植民地獲得に遅れたドイツは、
英仏露などの国々に植民地の再分配を求めたり、
植民地獲得を積極的に行なったため、
英仏露と植民地の奪い合いになってしまったのです
その例が2つあります
イギリスとの対立 3C政策 VS 3B政策
まずはポイントから
3C政策
→イギリスが企画した、植民地のヒト・モノ・カネの流れを円滑にする政策
→ケープ(南アフリカ)・カイロ(エジプト)・カルカッタ(インド)を
→鉄道と海路で結ぼうとした
3B政策
→ドイツが企画した、植民地のヒト・モノ・カネの流れを円滑にする政策
→ベルリン・ビザンティウム(オスマン帝国)・バグダード(イラク)を
→鉄道で結ぼうとした
イギリスは植民地間の交通を活性化し、
貿易の利便性向上を図りました
そのためにイギリスの主要な植民地
ケープ・カイロ・カルカッタを鉄道と海路で結ぶという、
世界を股にかけた政策を展開していました
世界をつなぐ交通網が整えば、
他国との戦争や植民地獲得戦争のときに、
兵士・武器・食料の輸送ルートを確保できるので
国際社会を強い立場で立ち回ることができます。
世界中を掌握しつつあるイギリスを見て、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は焦りました
ヴィルヘルム2世は対抗策として
3B政策を打ち出します
目的はイギリスと同様です。
ベルリン・ビザンティウム・バグダードを結ぶ鉄道を建設し、
世界各地にドイツ軍を展開することを目指したのです
しかしこの3B政策
イギリスから見ると厄介です
イギリスのエジプト・カイロを結ぶ路線と
鉄道のルートが近接しているのです
こんなにも近くにドイツの鉄道があり、
ドイツ軍が絶え間なく送られてくるとなると、
イギリスは警戒します
しかもバグダード鉄道で運ばれたドイツ軍が
ペルシャ湾を抜ければ
イギリス植民地 インドに攻め入ることができるのです
イギリスは考えます
「これはドイツからの挑戦状だ」と
これに対してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は
「ドイツは植民地が少ない。少しぐらい分けてくれてもいいじゃないか。」
という感覚でのぞみます
イギリスとドイツの対立は深まるばかりでした
ロシアとの対立① 3B政策 VS 南下政策
ドイツの3B政策はロシアにとっても脅威です
ドイツが築こうとしている鉄道は
バルカン半島やオスマン帝国領を通過し、
ペルシャ湾に至ります
これらの地域にいつでも
ドイツ軍や武器・食料を輸送できるようになるのです
そんなバルカン半島やオスマン帝国領は
ロシアの南下政策のターゲットでした
ロシアは寒い国
不凍港を獲得するために、
温暖な地域に南下し、
地中海・ペルシャ湾・インド洋などに
進出しようと考えています
そんなロシアの前に
鉄道で輸送されたドイツ軍が立ちはだかることになれば、
ロシアの南下政策を妨害されてしまいます。
こうしてロシアはドイツを警戒することになったのです。
ロシアとの対立② パン=ゲルマン主義 VS パン=スラヴ主義
まずはポイントから
ドイツが掲げたドイツ権益の拡大政策
バルカン半島にゲルマン系民族の
親ドイツ派政権を打ち立てようとした
ロシアが掲げたロシア権益の拡大政策
バルカン半島にスラヴ系民族の
親ロシア派政権を打ち立てようとした
ドイツとロシアが
バルカン半島を取り合ったのはなぜ?
両サイドの立場にたって話します
まずはドイツから
ドイツは3B政策を展開していました
3B政策では、
ベルリンとビザンティウムを結ぶ鉄道がバルカン半島を通過します
そのため、ドイツはベルリン・ビザンティウム間にある
バルカン半島の権益を求めました
そこでバルカン半島に親ドイツ派政権をたてようとしたのです
次にロシアです
ロシアは、バルカン半島に南下すれば
地中海に進出可能な港を確保することができます
そのため、バルカン半島に親ロシア派政権をたてようとしたのです
バルカン半島は様々な民族が混在する地域です
ドイツ人と同じ血を引くゲルマン系民族もいるし
ロシア人と同じ血を引くスラヴ系民族もいます
バルカン半島の小国たちに、
「ゲルマン(ドイツ)・スラヴ(ロシア)のどちら側につく?」
と迫り、ドイツとロシアの陣取り合戦となったのです
バルカン半島はドイツとロシアの争点となり
いつ爆発してもおかしくない状況でした
そしてバルカン半島は
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたのです
フランスとの対立① 北アフリカでの植民地抗争
ドイツは北アフリカのモロッコをめぐって、
フランスと対立していました
そしてフランスとの間に、
2度のモロッコ事件が起こっています
まずはポイントから
★内容
フランスのモロッコ進出にドイツが反発
→タンジール港にドイツ軍を派遣し、モロッコに駐屯するフランスを威嚇
→ドイツ・フランス両国は戦争の危機に陥った
★結果
国際会議 アルへシラス会議が開かれる
→参加国はフランス擁護にまわり、ドイツは引き下がるしかなかった
★内容
アルへシラス会議の内容を不服とし、ドイツが再び反発
→アガディール港にドイツ軍を派遣し、モロッコに駐屯するフランス軍を威嚇した
★結果
フランスとドイツは交渉によって解決
フランス領コンゴの一部をドイツに割譲する代わりに、
フランスのモロッコ権益を認めさせた
どうしてモロッコが争点になったんですか?
モロッコは地中海の玄関口です
この地をおさえておけば、
地中海に出入りする船から
海峡の通行料をとることができます
経済的利権がある魅力的な地だったのです
どうして国際社会は
フランスの肩を持ったのですか?
単純にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が嫌われている
ってのもありますが、論理的な回答もあります
植民地獲得には
「先占権」(早い者勝ち)という原則があったからです
このルールは、
ドイツにビスマルクがいたころ
1884年のベルリン会議で決定されました
アフリカの植民地獲得競争によって
国際紛争が起こりかねないと考えたビスマルクは
「とりあえずルールを決めましょう」
「早い者勝ちで、文句なしでいきましょう」
と言い、植民地獲得のルールを決めたのでした
今回の場合は
先にモロッコに入ったのはフランスです
だから「モロッコはフランスのもの」という道理が通ったのです
ドイツはモロッコを得られず、
フランスおよび国際社会に不満をつのらせていきました
フランスとの対立② 1870年 普仏戦争の恨み
第一次世界大戦から
40年以上前にさかのぼります
フランスは1870年に
プロイセン(ドイツ帝国の前身)と戦争しました
1871年 フランスはプロイセン(ドイツ帝国の前身)に敗れ、
首都パリを占領された挙句、
莫大な賠償金を支払い、
領土(アルザス・ロレーヌ)を奪われました
「このときの屈辱を忘れまい」として
フランスは政府から市民にいたるまで、
「ドイツに復讐してやる」
という気持ちを抱いていたのでした
オーストリア=ハンガリー帝国
ロシアとの対立
オーストリアは主に、
バルカン半島の権益をめぐってロシアと対立していました
19世紀の近代化の波の中、
オーストリアは近代化が遅れ、
他の列強と比べてスロースタートとなりました
そのため植民地は少なく、
遠方の地に軍を輸送して、
遠方の植民地を獲得する余力もありません
そこでオーストリアは、
近場のバルカン半島の権益獲得をめざしました
オーストリアはドイツと同様、
パン=ゲルマン主義を標榜しました
そしてバルカン半島にゲルマン系民族による政権を打ち立て、
ドイツ・オーストリアの指導のもとに置こうとしました
こうしてオーストリアは
バルカン半島の権益獲得をめざしていたのです
これにロシアが対抗します
ロシアは地中海への南下をめざしており、
南下政策のターゲットとして、
バルカン半島を狙っていました
ロシアはパン=スラヴ主義を唱え、
バルカン半島にスラヴ系民族の政権を打ち立て、
ロシアの指導のもとに置こうとしました
こうしてバルカン半島の利権をめぐって、
オーストリアとロシアが対立する構図ができたのです
イタリア
フランスとの対立
イタリアはこの戦争で
少々ややこしい動きをしますが
イタリアが三国同盟に加盟している理由を説明しておきます
イタリアはフランス本土と、
フランスの北アフリカ植民地によって、
挟み撃ちにされている国です
そんなフランスからの安全を保障するため、
ドイツやオーストリアと手を結びました
オーストリアとのわだかまり 「未回収のイタリア」
イタリアは必ずしも、
同盟国と仲がいいわけではありません。
フランスから身を守るためのビジネスパートナーぐらいの付き合いです
特にイタリアはオーストリアと険悪な関係で、
「未回収のイタリア」問題で対立していました
イタリア人居住区であるにも関わらず、
オーストリア領となっている北イタリアの地
「南チロル・トリエステ」などの地方を指す
1860年代、
イタリア王国は北イタリアのオーストリア支配地の
一部奪還に成功しましたが、
南チロル・トリエステは取り戻すことができていませんでした。
イタリアは領土問題をめぐってオーストリアとの対立を抱えながらも、
フランスに対抗するために渋々付き合っている関係です
つまりイタリアは敵方に寝返ってしまう可能性があったのです。
その他① オスマン帝国
オスマン帝国はロシアと対立しているため、
ドイツ側に加勢しました
ロシアは19世紀以来、
オスマン帝国領への南下政策を繰り返しています
オスマン帝国はロシアの介入を退けるため、
ドイツとの同盟関係を構築し、
第一次世界大戦に参戦しました
その他② ブルガリア
ブルガリアはバルカン半島の小国です
ブルガリアはセルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ルーマニアなどと
領土問題をめぐって対立し、バルカン半島内で孤立した国です
敵方のセルビア・モンテネグロらは
ロシアからの支援を受けていたため
ブルガリアは対抗勢力のドイツからの支援を受けました
そのため、ブルガリアはドイツ側で参戦します
三国協商側
三国協商は
露仏同盟(1891年) / 英仏協商(1904年) / 英露協商(1907年)
の3つの同盟の総称です
加盟国はイギリス・ロシア・フランス
同盟の目的は
「ドイツの脅威に対抗すること」でした
先述しましたが、
イギリス・ロシア・フランスは
それぞれドイツとの対立関係を抱えており、
ドイツを3方向から包囲するために、
対独軍事同盟を築いたのです
イギリス
イギリスはドイツと
海軍覇権・植民地利権の2点で対立していました
当時の海軍力はイギリスが最強でした
そこにドイツが対抗します
「イギリス製軍艦に追いつけ、追い越せ」と言って
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が海軍軍拡を始めたのでした
実際にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は
1898年から数回にわたって艦隊法を制定
海軍軍拡のための予算を拡充しています
そして、イギリス軍艦よりも主砲の射程が長い軍艦を建造しようとしたのでした
ドイツのチャレンジに対して、
イギリスは警戒していました
さらにイギリスとドイツは両国とも
国際社会を有利に立ち回るために、
世界政策を展開し、対立しました
イギリスは3C政策を
ドイツは3B政策を展開し、
両者の利害が対立し、険悪な関係が続きました
※3B政策と3C政策の対立について
詳しくは前章のコチラを参照
イギリスはドイツを警戒したため、
同じくドイツと対立している
フランス・ロシアと提携しました
そして英仏協商・英露協商を結んだのです
ロシア
前章で解説しましたが、
ロシアはドイツ・オーストリアと対立していました
そんなドイツに対抗するため、
ロシアはフランス・イギリスと提携し
露仏同盟・英露協商を締結しました
※ドイツとの対立理由はコチラ
※オーストリアとの対立理由はコチラで述べました
フランス
前章で解説しましたが、
フランスはドイツと対立していました
ドイツに対抗するため、
フランスはロシアやイギリスと提携し、
露仏同盟・英仏協商を締結しました
※ドイツとの対立理由はコチラ
その他① 日本
日本は1902年以来、
イギリスとの同盟関係(日英同盟)を継続しています
日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し、
ドイツに宣戦布告しました
日本軍はヨーロッパの戦線で活躍したのではなく、
ドイツ植民地の軍を相手にしました
ドイツが領有する「南洋諸島」や
中国のドイツ権益 山東省でドイツ軍と争います
その他② セルビア
オーストリアとの対立
セルビアはバルカン半島の小国です
セルビアはオーストリアと対立しています
セルビア人人口の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナが
オーストリアの支配下にあったからです
セルビアはセルビア人居住区を
オーストリアの支配から解放することをめざしました
これを「大セルビア主義」と言います
そしてセルビアはロシアに接近し、
オーストリアに対抗しようとしたのです
ブルガリアとの対立
セルビアはブルガリアと領土問題で対立していました
セルビアはロシアからの支援を求め、
ロシアのパン=スラヴ主義の指導下にありました
対してブルガリアはドイツ・オーストリアからの支援を求め、
パン=ゲルマン主義の指導下にありました
セルビアのおかれた状況はよくありません
セルビアはオーストリア領とブルガリアに国土を囲まれているからです
セルビアはオーストリアに必死で対抗し、
ロシアとの関係を一層深めていきました
第1次世界大戦 開戦から終戦まで
この章では
第一次世界大戦の開戦から停戦までの流れを述べます
サライェヴォ事件
まずはポイントから
オーストリア領ボスニアの州都サライェヴォで
セルビア人の青年プリンツィプがオーストリア皇太子夫妻を暗殺した事件
★影響
これを理由にオーストリアがセルビアに宣戦布告
→セルビアはロシアに支援をもとめ、ロシアが参戦した
セルビア人の青年が
オーストリアを恨んでいたのはなぜですか?
先ほども述べましたが、
セルビア人人口の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナが
オーストリアの支配下にあったからです
セルビアはセルビア人居住区を
オーストリアの支配から解放することをめざしました
憎きオーストリアを倒すため、
オーストリア皇太子夫妻が
ボスニアに外遊しにくる日を狙って、
プリンツィプらは暗殺計画を実行したのです。
オーストリア政府は
「この暗殺劇の裏で、セルビア政府が手を引いている」
と述べてセルビアに最後通牒をつきつけました
セルビア政府はオーストリアの圧力に動じず、
オーストリアとの戦闘を開始しました
ロシア・フランスの参戦
セルビアはオーストリアとの戦闘の際、
ロシアに支援を求めました
ロシアはセルビア側で参戦し、
オーストリアに宣戦布告しました
そしてロシアの同盟国として
フランスも参戦しました
フランスの目的は
オーストリアの同盟国ドイツの撃破
1870年の普仏戦争の恨みを晴らそうとしたのです
ドイツの参戦
続いてオーストリアの同盟国として、
ドイツが参戦しました
ドイツは戦争開始早々、
ロシア・フランスの両方に作戦を展開しました
ドイツ軍の計画では、
フランスを6週間で攻略し、
ロシアに総攻撃を仕掛ける予定でした
シュリーフェンプランと言います
フランスを最短時間で攻略する必要があるので、
フランス首都に迫るべく、
ドイツ軍は中立国ベルギーを通過し、
フランスに攻め入りました
イギリスの参戦
「フランス攻略のため、ドイツ軍がベルギーを通過した」
これはイギリスにとって危険な状況でした
なぜならベルギーはイギリスの対岸にあたり、
ベルギーとイギリス領は目と鼻の先です
ドイツ軍が部隊を分けて、
イギリスに攻め入る可能性もあります
これは危険です
イギリス政府は
ドイツ軍のベルギー通過を理由に、
第1次世界大戦への参戦を決定し、
ドイツ軍との戦闘を開始しました
日本の参戦 ドイツ植民地での攻防
日本は日英同盟を理由に、
イギリスがいる三国協商側で参戦
ドイツに宣戦布告しました
日本の目的はドイツ植民地を奪うこと
ドイツがアジアに展開していた植民地 南洋諸島や
中国山東省の青島に駐屯するドイツ軍と交戦しました
イタリアの寝返り ロンドン秘密条約
第1次世界大戦の開戦以降、
イタリアは兵を出し渋っていました
戦況を見て、勝ちそうな方につこうと考えたのです
そんなイタリアに、
敵方のイギリスから声がかかります
イタリアの首脳陣はイギリス首都ロンドンに呼ばれ、
1915年 ロンドン秘密条約を締結しました
イタリアは三国同盟を離脱し、協商側で参戦する
報酬として、
三国協商が勝利したのち、
未回収のイタリアをオーストリアから奪い、
未回収のイタリア(南チロル・トリエステ)をイタリア領とする
「イタリア北部の地をオーストリアから解放できる」
イタリアにとって願ってもみない提案でした
イタリアはイギリスから提示された条件をのみ、
三国同盟を離脱します
そしてドイツ・オーストリアとの戦闘を始めました
ロシアの離脱 ロシア革命とブレスト=リトフスク条約
1917年 ロシア国内で革命が発生しました
首謀者は社会主義者レーニン
背景は戦争の長期化です
ロシア国内では厭戦ムードが広がっていました
それでも戦争の継続を主張する政府に対し、
レーニンらがロシア国民を率いて革命を起こしたのでした。
レーニンは言います
「戦争を続けて得をするのは、軍需工場を経営している資本家だ」
「そして無謀な突撃命令をする、軍司令部も敵だ」
といって国内の労働者・戦争を嫌がっていた兵士を巻き込み、
革命を決行したのです
レーニンは新政権の公約として、
「即時講和」を掲げました
これが国民の心を打ち、レーニンらは政権の獲得に成功します
レーニンらは公約通り、
敵方のドイツ軍といちはやく停戦交渉をして、
1918年 ブレスト=リトフスク条約を締結
ロシアはドイツと単独講和しました
(つまりロシアは戦線離脱)
アメリカの参戦
戦争開始当初の立場
アメリカの立場は少々ややこしいです
アメリカはモンロー主義を標榜し、
ヨーロッパでの紛争には中立の立場をとっています
ただし、当時のアメリカは経済的利権を求めて、
第一次世界大戦に関与していました
アメリカはイギリス・フランスに対して軍事費を融資したり、
武器や食料の輸出を行っていました
そんなアメリカをドイツが怒らせてしまいます
無制限潜水艦作戦とルシタニア号事件
ドイツはイギリス・フランスの補給網を絶つため、
無制限潜水艦作戦を実施しました
大西洋に潜水艦を配備して、
三国協商の輸送船を見境なく沈める作戦です
しかし1915年、ドイツ軍の潜水艦が
誤って一般客が乗っている客船(ルシタニア号)を襲撃してしまいます
その襲撃でアメリカ人の乗客100名以上が死亡しました
これをルシタニア号事件(1915年)と言います
アメリカでは
「ドイツを倒せ」という声が沸き上がり、
アメリカ議会でもドイツへの懲罰を検討しました
結果としてアメリカは
ルシタニア号事件を口実にドイツに宣戦布告
1917年に第一次世界大戦に参戦しました
これまで無傷のアメリカ兵
対するは戦争4年目に突入してボロボロのドイツ軍
もはやドイツに勝ち目はありませんでした
アメリカの参戦 本当の理由は?
アメリカが参戦した理由はほかにもあります
アメリカは第一次世界大戦の長期化を望まず、
はやく終わらせたかったのです
アメリカが第一次世界大戦を終わらせたかった理由は?
戦争の長期化によって、
イギリスやフランスが財政破綻してしまうからです
アメリカはイギリスやフランスに
軍事費を融資していました
しかし、もし戦争が長引いて
イギリスとフランスの財政が破綻してしまうと
貸したお金は返ってこなくなります
一刻もはやく戦争を終わらせて、
イギリスやフランスの経済に余力があるうちに、
貸したお金を回収する必要があったのです
そこで早期決着をつけるため、
アメリカは第一次世界大戦に参戦
ドイツ軍とたたかったのです
ただし、アメリカは民主国家です
戦争に参加するためには、
国民を納得させなければなりません
ルシタニア事件はちょうど
アメリカの国民感情を煽り、
アメリカ軍をヨーロッパに出兵するきっかけとなりました
ドイツ革命の発生
第一次世界大戦が5年目に差し掛かったころ
1918年 ドイツは戦争継続が困難になりました
ドイツ革命が起こり、
皇帝が退位したのです
キール軍港の水兵反乱
1918年 ドイツ軍の水兵が反乱を起こしました
「敗色濃厚なのに、無謀な突撃命令ばかりするのはなぜだ」
「家族に会いたい。戦争を早く終わらせろ!」
こうしたムードが兵士たちにただよっていたのです
兵士たちは上官の命令を拒否し、
戦争をボイコットしました
兵士たちは軍法会議にかけられ、
敵前逃亡の罪で死刑を言い渡されます
兵士たちは「このまま死ぬぐらいなら…」
と腹をくくり
ドイツ軍司令部に対して大反乱を決行したのでした
キール軍港で始まったこの水兵反乱は、
ドイツ国内の様々な地域に飛び火しました
そしてドイツ各地で反戦暴動が起こったのです
反戦運動の主役となったのは
戦場に駆り出され続けた兵士たちと
軍需工場で働き続けた工場労働者でした
各地で反戦派の兵士や
反戦派の労働者がつどい、
レーテ(労兵評議会)が結成されました
皇帝ヴィルヘルム2世の退位と新政府の樹立
各地で蜂起した反戦派は
レーテ(労兵評議会)を結成し、
反戦と政府の打倒をめざして戦い続けました
皇帝ヴィルヘルム2世は思います
「このままでは私の命が危うい」
そしてヴィルヘルム2世は国外逃亡を決意するのでした
そしてヴィルヘルム2世は
「全財産をもって逃げるぞ」と言って、
重い荷物を抱えてオランダに亡命してしまったのです
情けない…
こうして1918年 ドイツ帝国政府は崩壊
皇帝不在によってドイツ帝国は滅び、
ドイツには新政府が立ち上がりました
新政府の樹立を宣言したのは、
ドイツ社会民主党のシャデイマン
そして、エーベルトを首相とする臨時政府が発足し、
三国協商との停戦交渉に入りました
ここまでがドイツ革命です
休戦協定の締結
停戦交渉は
コンピエーニュの森に停車された列車内で行われました
ドイツに強烈な恨みを持つフランス首脳陣は、
ドイツに厳しい条件を押し付けます
ですがドイツはこれを受け入れるしかなく、
ついて停戦協定が成立
1918年 11月11日
第一次世界大戦は終結しました
第一次世界大戦 著名な戦い
第一次世界大戦の戦線は
ドイツからみて西側(フランス側)の西部戦線
ドイツからみて東側(ロシア側)の東部戦線にわかれていました
ドイツはロシア・フランスに挟まれていたため、
両方面に軍を分けて展開する必要があったのです
結果として、
西部戦線(VSフランス)は引き分けて膠着状態に
東部戦線(VSロシア)はドイツ軍が大勝
という形になりました
著名な戦いを紹介します
西部戦線(ドイツ VS フランス)
マルヌの戦い
1914年 フランス軍とドイツ軍はマルヌで激突します
マルヌの戦いです
ドイツはフランスを6週間で攻略するつもりで
フランスに大攻勢をかけました
しかしフランス軍は予想外の粘り強さを見せます
軍用車だけでなく、
パリ市の自動車を徴発し、
兵士や物資の輸送手段として動員したのです
前線には多数のフランス兵が押し寄せ、
ドイツ軍の侵攻を食い止めます
そこにイギリスの援軍がかけつけ、
ドイツ軍は後退しました
結果はドイツ軍の敗北に終わり、
ドイツのフランス攻略計画は失敗に終わったのでした
ヴェルダンの戦い
戦争は膠着状態のまま、3年目に突入しました
1916年 ドイツ軍がフランスに大攻勢をかけ、
ヴェルダンの戦いが始まりました
ヴェルダンにはフランス軍の鉄壁の要塞があり、
要塞戦で名をはせたペタン将軍が防衛にあたっていました
ドイツはファルケンハイン将軍が作戦の指揮をとり、
ヴィルヘルム皇太子が指揮する軍も作戦に参加しました
兵数は両軍とも互角
でも、鉄壁の要塞に守られ
本土から補給を絶え間なく行うことができるフランス軍の方が有利でした
そこでドイツのファルケンハイン将軍は、
要塞の攻略よりも敵戦力を削ることを優先し、
「出血作戦」を提案しました
敵の要塞から兵をおびき出し、各個撃破
敵兵士の数を順調に減らしていき、
ヴェルダン要塞の戦力をダウンさせる作戦でした
作戦が順調に進んでいたころ、
ドイツ軍の中から不穏な声が聞こえます
「突撃ぃぃぃぃぃ」
声の主はヴィルヘルム皇太子でした(笑)
彼は皇太子という立場を利用して、
ファルケンハイン将軍の作戦に従わず、
突撃命令を出してしまったのです
これにより作戦は崩れ、
ドイツ軍に大きな被害が出ました
あまりの被害に、
ファルケンハイン将軍は撤退命令を出しますが、
ヴィルヘルム皇太子は聞きませんでした
作戦継続を発表し、ドイツは無駄な犠牲をはらったのでした
最終的に
「イギリス軍がソンムに攻め入った」
という知らせが入り、
ドイツ軍はヴェルダンの兵士をソンムへと移行
ヴェルダンの戦いは
ドイツ軍が退くかたちで終わりました
ソンムの戦い
ソンムの戦いは
ヴェルダンの戦いと並行して行われた戦いです
ドイツ軍とフランス・イギリス連合軍が戦いました
この戦いではイギリス軍が初めて戦車を実践投入しました
新兵器 戦車の登場はドイツ軍に衝撃を与え、
ある一定の戦果を発揮しました
しかし実践投入された戦車は少なかったため、
絶大な効果は発揮することはできなかった模様です
この戦いは引き分けに終わります
両軍とも50万人に及ぶ死者が出た挙句、
英仏連合軍が前線を少しだけ前に進めただけにとどまりました
死者の数に対して
戦果が見合っていない戦いでした
兵士たちは何のために死んでいったのか…
悔やまれる限りです
東部戦線(ドイツ VS ロシア)
タンネンベルクの戦い
タンネンベルクの戦いは
1914年に起こったドイツ軍とロシア軍の激戦です
ドイツ軍の司令官は
ヒンデンブルクとルーデンドルフの2名
特にヒンデンブルクは大戦後の新政府の大統領となる人物として有名です
この戦いではドイツ軍が大勝をおさめ、
ヒンデンブルクは英雄として迎えられました
ロシア軍の作戦は暗号化されておらず、
ドイツ軍に筒抜けでした
さらにタンネンベルクはプロイセン東部の土地で
ロシア軍は前線の兵士に補給を送るために
ロシア領→ポーランド領→戦場という順で
鉄道を走らせていました
しかしロシア領とポーランド領では
鉄道のレールの幅が異なっていたため、
ポーランド領に差し掛かった瞬間、
ポーランドの列車に荷物を積みかえて、
戦場に送る必要がありました
ロシア軍は補給がグダグダだったのです
その隙をつく形でドイツ軍がロシアと戦闘し、
ドイツ軍がロシア軍を包囲することに成功します
そしてドイツ軍は
兵力が3倍ほどあるロシア軍を破り、
ドイツ軍が大勝をおさめました。
使われた新兵器
第一次世界大戦は
強力な近代兵器が実戦投入された戦争でした
戦車・装甲車・飛行船・飛行機・火炎放射器・毒ガス兵器などですね
特に火炎放射器や毒ガス兵器は、塹壕の攻略に便利でした
当時は敵の機関銃や砲弾を防ぐために、
両軍とも塹壕を掘って身を守っていました。
塹壕を攻略するにはもちろん時間がかかります
しかし、火炎放射器や毒ガスを用いると
効率的に塹壕を攻略することができます
火炎放射器を使うと、
塹壕内にいる敵を焼き尽くしたり、
酸欠状態に追い込むことができます。
毒ガスを使うと、
毒ガスは空気よりも比重が重いので、
下に落ちていきます。
これを塹壕で使用すると、
塹壕の中にガスが降りていくわけなんです。
毒ガスは兵士が苦しむので、
国際条約で使用禁止になりましたけどね
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