こんな人におすすめ
第一次世界大戦や戦間期の歴史
について学んでいるのですが、
ヴェルサイユ条約の内容が丸暗記になってしまい
それにどんな意義があるのかわかりません
誰かわかりやすく教えてください
とお悩みの高校生・大学受験生・
世界史を学びなおしている社会人の方
パリ講和会議のポイント
ヴェルサイユ条約の内容 詳細の解説
ドイツから割譲された地域 なぜ重要?
ヴェルサイユ条約の「その後」
→ヒトラーによるヴェルサイユ体制の打破
読者の皆さんへのメッセージ
こんにちは。
元々高校の教員をしていました。てっちりです。
このサイトでは、
世界史を学ぶうえでの
「わからない。」「なぜ?」に
お答えできるよう、情報を掲載しています。
特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので
生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)
そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と
ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、
今回は記事としてしたためました!
ヴェルサイユ条約とは?
1919年に締結された、
ドイツと戦勝国側で結ばれた講和条約です
パリ講和会議で採択され、
ヴェルサイユ宮殿で調印式が行われたため、
パリ条約とは言わず、
ヴェルサイユ条約といいます
ドイツ同様、
ほかの敗戦国との間では
サン=ジェルマン条約(オーストリア)
ヌイイ条約(ブルガリア)
トリアノン条約(ハンガリー)
セーヴル条約(オスマン帝国)
この4条約が別途結ばれました
内容は敗戦国に対して厳しく、
ドイツは植民地の没収
領土の接収
莫大な賠償金を課せられるなど、
痛烈な目にあわされることになります
そして戦間期のドイツで
ヒトラーの台頭を招くきっかけとなります
ヒトラーは
「ドイツ人の生活を狂わせたのはヴェルサイユ条約だ」と批判
ドイツ人のおかれた苦境の責任を
戦勝国とヴェルサイユ条約に押し付けました
そしてドイツ人のナショナリズムが高揚し(悪い意味で)、
ヒトラー率いるドイツが暴走していくことになるのです
この記事では
ドイツをどん底に落とした
ヴェルサイユ条約の内容について述べていきます
パリ講和会議
1919年 パリで第一次世界大戦の講和会議が開かれました
まずはポイントから
1919年 パリ講和会議
★参加者
ロイド=ジョージ(イギリス)
ウィルソン(アメリカ)
クレマンソー(フランス)
西園寺公望(日本)など
※敗戦国とロシア(ソヴィエト)の首脳は参加できず
★会議の基本原則
ウィルソン(米)が主張した「14カ条の平和原則」
★結果
敗戦国への講和条件を確定
→ヴェルサイユ宮殿 鏡の間で条約の調印式を行った
会議を主導したのは戦勝国の首脳陣
ロイド=ジョージ(イギリス)
ウィルソン(アメリカ)
クレマンソー(フランス)など
日本は日英同盟を理由に、
第一次世界大戦に参戦していたため、
イギリスの同盟国として
つまり戦勝国として会議に参加しています
ちなみに敗戦国は会議に参加することができませんでした
敗戦国であるドイツはただ、
パリで話し合われた条約の内容を見せられ、
「ここにサインしてください」と言われるだけでした
もちろん断る権限はありません。
会議の基本原則 「ウィルソンの14カ条」
パリ講和会議は単なる講和条約の締結の場ではなく、
「今後の国際平和の在り方」を模索する場でした
世界を巻き込む戦争で
多数の死者を出した反省をしなければなりません
「戦争をなくすこと」が国際社会の課題となりました
そこで採用された基本原則が
ウィルソンの14カ条(14カ条の平和原則)でした
ウィルソンの14カ条のうち、
重要なものを示しておきます
【1条】秘密外交の禁止
【10~13条】民族自決
【14条】平和維持機構の構築
だいたいこの3点ですね
詳しくはウィルソンの14カ条を専門的に記した記事で解説していますので
ここでは説明を割愛しますが、
「この会議で目指されたのは国際平和である」
という共通理解を持っておいてください
【質問】パリからヴェルサイユに移動した理由は?
わざわざパリから
ヴェルサイユ宮殿に移動した理由は何ですか?
フランスのドイツへの復讐(あてつけ)です
ヴェルサイユ宮殿はフランスとドイツの因縁の地なのです
ヴェルサイユ宮殿で何があったのですか?
ドイツがプロイセン王国(ドイツ統一前の国名)だったころ、
1870年にフランスと戦争しています(普仏戦争)
この戦争ではプロイセンが勝利し、
フランスは皇帝ナポレオン3世を捕虜にされ、
パリを占領されて降伏しました
この時点でフランスからすると屈辱的です
プロイセンはフランスに勝ったことで、
ドイツ地域での覇権国家として認められました
そしてプロイセンはドイツ統一に成功し、
全ドイツを統率する国家 ドイツ帝国の建国を宣言しました(1871年)
そしてドイツ皇帝の戴冠式を
占領下のヴェルサイユ宮殿で行ったのです
自国の伝統ある宮殿で
異国(ドイツ)の皇帝の式典をする…
フランスからすると屈辱ですね…
フランスの気持ちはこうです
「あのときの復讐を、同じ場所で晴らしてやる」
こうしてヴェルサイユ宮殿で
条約の調印式が行われたのです
ヴェルサイユ条約の内容
まずはヴェルサイユ条約の
主な内容・ポイントを示し、
あとから解説を付け加えます
★ドイツへの罰則
・ドイツは合計1320億マルクの賠償金を戦勝国に支払う
・ドイツは徴兵制を廃止し、兵士数は10万人に限定される
→さらに重砲・戦車・航空機・潜水艦の保有禁止が定められた
★領土割譲関連
・ポーランドを独立国とし、ドイツはポーランドにポーランド回廊を割譲
*ただし、回廊の北端の都市ダンツィヒは自由都市とする
・ドイツはフランスにアルザス・ロレーヌを割譲する
・ザール地方を国際連盟の管理下におく
・ドイツ領ラインラントを非武装地帯とする
・ドイツはすべての植民地領有権と権益を放棄する
→旧ドイツ植民地・租借地は国際連盟が預かり、戦勝国に「委任統治」させた
→結果、ドイツ領 南洋諸島は日本の委任統治下におかれた
・青島(山東省)の旧ドイツ権益は日本が継承する
→この内容に不満を持ち、中華民国はヴェルサイユ条約の調印を拒否した
【質問】なぜこんな膨大な内容を覚えないといけないの?
条約の内容が多いし、
覚える意欲がわきません…
なぜこんなにも
膨大な内容を覚えないといけないのですか?
ヴェルサイユ条約の内容を理解することが、
1930年代のヒトラーの政治を理解する材料になるからです
ヒトラーの政策の目的は
「ヴェルサイユ体制の打破」でした
ヒトラーはヴェルサイユ条約の
厳しい内容に真っ向から反発し、
ヴェルサイユ条約の内容をすべて破っていくのでした
この姿はほめられたものではありませんが、
ヴェルサイユ条約によって
苦しい生活を送るドイツ人たちが熱狂します
「ヒトラーがヴェルサイユ条約の呪縛からドイツを救ってくれる」とね
ヒトラーのヴェルサイユ条約違反に、
国際社会は白い目を向けます
そしてヒトラーVS国際社会の戦いが始まっていくことになるのです
第二次世界大戦の背景を理解するうえで
ヴェルサイユ条約の内容を理解しておくことは
必須条件なのです
一緒にがんばりましょう
賠償金の支払い
会議を主導したウィルソン(米)は無賠償での講和を主張しましたが、
フランスが強く反対し、ドイツに莫大な賠償金が課せられました
結果として
「ドイツは合計1320億マルクの賠償金を戦勝国に支払う」
という形になりました
1320億マルクを戦勝国で分け合う形になるのですが、
被害の大きさゆえ、フランスの取り分は多かったのです
ドイツがこの賠償金の支払いを終えるのは
なんと2010年です
ええええええ!?
それほど厳しい金額だったのです
【質問】フランスがドイツへの賠償金を強く求めた理由は?
フランスが賠償金を求めるのも無理はありません
フランスはドイツを強く恨んでいますし、
戦争に費やした軍事費や
戦場となった国内都市の復興にもお金がかかります
しかもフランスは
ロシアに貸していたお金を踏み倒されてしまいます
何があったのですか?
フランスはロシアの同盟国として、
ロシアの工業化のための資金を貸し出していました
しかし1917年にロシア革命が発生
ロシア帝国が崩壊し、
ロシアではソヴィエト政府が建てられたのですが、
ソヴィエト政府はロシア帝国時代の
フランスへの借金を踏み倒したのです
フランスはその後、
シベリア出兵を実施し
ソヴィエト政府の打倒とロシア帝国の復活をめざします
「借金返せぇぇぇぇ」ってね(笑)
しかしシベリア出兵で効果は上がらず、
ソヴィエト政府によってロシア皇帝一家は惨殺され、
ロシア帝国の復活も厳しい話になりました
フランスがロシアに貸したお金は返ってこないのです…
フランスの被害は甚大ですね…
そりゃお金欲しいわな
軍備の制限
ドイツは徴兵制を廃止させられ、兵数は10万人に限定
国家防衛のために必要な最低限度の兵数にしぼられました
さらにドイツは
重砲・戦車・航空機・潜水艦などの近代兵器の保有禁止を定められ、
がんじがらめにされてしまいます。
こうしてドイツは丸裸にされてしまい、
国際社会から厳しい条件を押し付けられても、
ドイツは武力で抵抗することすらできなくなってしまいました
ポーランド回廊の割譲
新たに独立国となったポーランドに
ドイツはポーランド回廊を割譲しました
ポーランド回廊の先端にある港町
ダンツィヒ(グダニスク)はもともとドイツりょうでしたが、
第一次世界大戦後は自由都市とされました
ダンツィヒでは国際連盟の監督のもとで独自の憲法が制定され、
ドイツ領でもポーランド領でもない都市国家となりました
【質問】ポーランド回廊を失う ドイツにとって何が不便?
ポーランド回廊はドイツ本土の中間地点にあります
ポーランド回廊を失うことで、
ドイツは領土を東西に二分されてしまい、
交通の不便を強いられたのです
【質問】ダンツィヒは自由都市とする 意味は?目的は?
ポーランド回廊の中でも、
ダンツィヒだけは自由都市となったのはなぜ?
ダンツィヒはドイツ領でもなく、
ポーランド領でもない
独自の憲法を持つ都市国家として認められました
国際連盟の監督下におかれていますけどね
ダンツィヒだけを切り取ったのは、
ドイツとポーランドの争いを防ぐためです
ダンツィヒは中世から、
バルト海をのぞむ貿易港として重要な役割を果たしていました
当然、新たに独立したポーランドはダンツィヒの領有権を求めました
しかしダンツィヒはドイツ人人口の占める割合が多く、
ポーランド領としたところで、
現地のドイツ人と揉めたり、
今後のドイツとポーランドの争いの火種となる可能性がありました
経済的に重要な都市の奪い合いは、
国際紛争の火種になりやすいのです
そのためダンツィヒは
どの国にも属さない自由都市と定められたのです
【注意】ポーランドの独立について
ポーランドについてはひとつ注意点があります
「ポーランドは独立した」と述べましたが
ポーランドは旧ドイツ領ではありません
ポーランドはもともとロシア帝国の保護下にありました
1815年のウィーン議定書で
ポーランドには「ポーランド立憲王国」が建てられました
しかしポーランド国王はロシア皇帝が兼任していたのです
つまりポーランドはロシアの支配下にあったということです
しかし1917年のロシア革命でロシア皇帝が退位し、
ポーランドはロシアの支配から逃れました
そしてポーランドの独立は国際的に承認されました
アルザス・ロレーヌの割譲
アルザス・ロレーヌは鉱山資源が豊富で、
工業用地に適している土地でした
アルザス・ロレーヌの領有権は
フランスとドイツがたびたび争ってきました
19世紀のころ 元々アルザス・ロレーヌはフランス領でした
しかし1871年、プロイセン(ドイツ)が普仏戦争に勝利
フランスはプロイセン(ドイツ)にアルザス・ロレーヌを割譲しました
つまり第一次世界大戦時点では、
アルザス・ロレーヌはドイツ領でした
しかしドイツは敗戦国として、
この地をフランスに返還することになりました
ザールを国際連盟の管理下に
ザールはもともとドイツの工業地帯でした
ザールには「ザール炭田」があり、石炭が豊富でした
ザールはフランス国境の近くにあるのですが、
この地もドイツとフランス、
ひいては多くの国々の争いの火種となります
経済的に重要な土地は、みんながほしがりますからね
パリ講和会議の目的は
「争いをなくすこと」です。
「ザールは公平に、国際連盟が管理することにしよう」
という提案がなされ、
争いの火種となりやすいザールは、
国際連盟の管理下におかれました
※補足 ザールのその後
国際連盟が永久にザールを管理するわけではありません。
「1935年に住民投票を実施し、ザールがフランス・ドイツのどちらかに帰属するか決定する」
というルールが定められていました
最終的に1935年の住民投票で
ザール住民はドイツへの帰属を決定し、
ドイツのヒトラー政権はザールを編入
ヒトラー政権の追い風となりました
ラインラントを非武装地帯に
ラインラントも鉱山資源が豊富で、
ドイツの産業革命はラインラントから始まりました
この地はドイツ固有の地であったので、
さすがにドイツ領として維持されましたが、
ラインラントは他国との国境地帯でもあります
ドイツがラインラントを通過して、
ほかの国に侵略できないようにするために、
ラインラントは非武装化され、丸裸にされました
ドイツはすべての植民地権益を放棄
ドイツは植民地を放棄させられます
その後、ドイツの植民地は戦勝国の委任統治下におかれました
ドイツ領「南洋諸島」を
日本の委任統治領としたのがその例です
【質問】委任統治って?
委任統治とは、
敗戦国の植民地を国際連盟が預かり、
国際連盟が特定の国に統治をゆだねることをさします
目的は旧ドイツ権益の奪いあいを防ぐためです
ドイツは第一次世界大戦に敗戦し、
すべての植民地を失いました
「ドイツが失った領地を誰のものにする?」
といって争いが起きてしまいかねません。
そこで国際連盟がドイツの植民地を預かり、
国際連盟の指令のもと、
「この地は〇〇にお願いするね」
という形をとりました
そしてドイツの後釜の国に、
「国際連盟の依頼でこの地を統治しているんだ」
という大義名分を持たせたのです
山東省のドイツ権益を日本に継承
山東省は20世紀末に
ドイツが権益を獲得した中国の地です
ドイツは山東省内の膠州湾の港湾都市
青島に軍港を設置していました
日本は第一次世界大戦中に青島を攻略し、
山東省を占領しました
その戦果が認められ、
山東省のドイツ権益は日本が継承することとなりました
中華民国は条約の調印を拒否
中華民国はヴェルサイユ条約の調印を拒否しました
理由は山東省の帰属問題と
五・四運動を展開する中国の国民感情への配慮でした
中国政府や中国国民は主張します
「山東省は中国固有の領土。日本の領土になるのはおかしい」
ごもっともですね
しかしヴェルサイユ条約では
山東省のドイツ権益が日本に引き渡されました
理由は中国政府が「二十一か条要求」を認めてしまっていたからです
第一次世界大戦の真っ最中 1915年
日本は中国政府に二十一か条要求をつきつけました
日本は欧米諸国がヨーロッパの戦線に釘付けになっているのをいいことに、
アジアで好き放題に動きます
そしてドイツから奪った山東省の権益を、
日本のものとして認めさせるべく、
中国の袁世凱政権に要求したのです
そして「交渉決裂の場合はわかってるよね?」
と言わんばかりに最後通牒をつきつけました
袁世凱政権は政権基盤が安定せず、
日本と戦争すれば間違いなく負けます
袁世凱政権は二十一か条要求を認めてしまったのです
袁世凱はその後失脚しましたが、
中国政府が日本の要求を認めたという事実だけは残りました
日本はこの論拠を国際会議の場に持ち出し、
ヴェルサイユ条約では山東省は日本の権益となってしまうのです
中国国民はこれを察知して、
1919年5月4日 大規模なデモを行いました
これが五・四運動です
民衆たちは中国政府に対して、
「山東省を取り返してこい!」
「日本権益を認めるな!」
と要求したのです
中国政府の重役は考えます
「もしヴェルサイユ条約の内容を認めてしまえば…」
「山東省は日本のものになってしまう…」
「そしたら俺、国民から絶対に殺されるわ…」
そして中国政府は
ヴェルサイユ条約への調印を拒否したのです
ヴェルサイユ条約の「その後」
ヒトラーは1930年代のドイツ政界で台頭し、
国民から絶大な人気を得ました
彼の人気の秘密が、
「ヴェルサイユ体制の打破」という政権公約でした
「ドイツを苦しめるヴェルサイユ条約から、ドイツ人を解放する」とね
ヒトラーは賠償金の支払いを拒否
1935年 再軍備を宣言
徴兵制を再開し、重砲・戦車・航空機・潜水艦の建造を始めました
さらに同年 ザールを編入
1936年 非武装地帯ラインラントに進駐しました
「ヴェルサイユ条約で失った領土の埋め合わせをする」
と言わんばかりに、
1938年 チェコスロヴァキア領ズデーテンを併合
さらにチェコスロヴァキアを解体し、
1939年 チェコを直接支配 スロヴァキアを保護国化しました
最後の極めつけはポーランド侵攻です
ポーランドに割譲したポーランド回廊
そして自由都市とされたダンツィヒを取り戻すため、
ドイツ軍を派兵しました
もはやドイツの暴走は止められぬとして、
イギリス・フランスが応戦し、
第二次世界大戦の勃発を招くことになりました
ヴェルサイユ条約による締め付けは厳しく、
ドイツ人から恨みを買ってしまいました
その恨みのエネルギーは恐ろしく、
2度目の世界大戦を生み、
歴史は繰り返されることとなったのです
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