ドイツの統一① 流れとポイントを解説【ドイツ統一をわかりやすく】

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 ドイツ統一

こんな人におすすめ

ドイツの統一について学んでいるんですが

難しくてよくわかりません。

誰かわかりやすく教えてください。

とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方

 

対象語句

ドイツ統一の背景 ~ドイツ統一はなぜ必要か?~

1817年 ブルシェンシャフトの乱の鎮圧

→メッテルニヒのカールスバート決議

 

1834年 ドイツ関税同盟(ドイツの経済的統一)

 

1848年 フランクフルト国民議会

→オーストリアは統一ドイツから除外 なぜ?

→ドイツ統一は挫折 なぜ?

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

ドイツ統一

この章でいう「ドイツ統一」の定義

ドイツ語スピーカーが政権を持つ国々を、ひとくくりにドイツと呼びます

 

ドイツ語スピーカーが政権を持つ国とは、

オーストリア・プロイセン・バイエルンなどに代表される、

ドイツ人の小国たち(領邦)のことを指します

 

最終結果として、

オーストリアは統一ドイツから除外され

プロイセンを中心として、ドイツ統一が完成

1871年ドイツ帝国が成立しました

 

ドイツ統一の背景 ~ドイツ統一の必要性~

まずはポイントから

ドイツ統一 背景

19世紀初め ナポレオンに手痛い敗北を喫した

ドイツ人が団結しなければ、近代国家との戦争に勝てないことが判明

→ベルリン大学総長フィヒテは連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を実施

→聴衆にドイツ統一の必要性を説いた

 

詳しく説明します

ナポレオン戦争のときにさかのぼります。

ナポレオンは徴兵された国民軍を率いて、ヨーロッパ諸国を攻撃しました

ドイツ諸侯が連合した神聖ローマ帝国軍はアウステルリッツの戦いに大敗

神聖ローマ帝国は解体され、

ドイツ諸侯はナポレオンを盟主とするライン同盟に組み入れられました

 

最後まで抵抗をつづけたプロイセンも、イエナの戦いに大敗

こうした外敵からの脅威が、ドイツ人の意識を変えました

「ドイツ人が団結しなければ、ナポレオンのような猛者には勝てない」

ドイツ国民はドイツの統一を望むようになりました。

 

ブルシェンシャフトの乱の鎮圧

ブルシェンシャフトの乱 ポイント

イエナ大学の学生団体ブルシェンシャフトが政治集会を実施し、授業を妨害

→「自由と統一」をスローガンに、ドイツの統一を訴えた

→他の大学でも同様の運動が多発し、授業が成立しなくなる(笑)

 

★結果

オーストリア外相メッテルニヒの主催で、ドイツ連邦全体の会議を実施

カールスバート決議を下し、ドイツ全土の大学の学生運動の鎮圧を命じた

 

ブルシェンシャフトの乱が始まったイエナ大学は

プロイセン軍がナポレオンに大敗した、あのイエナにあります

学生たちはナポレオンに負けた屈辱がありますから、

ドイツの統一運動に必死だったのです。

この学生運動は鎮圧されてしまい、ドイツの統一は成りませんでした。

 

ここから先、ドイツは少しずつ段階的に統一されていくのです。

 

1834年 ドイツ関税同盟の成立

まずはポイントから

ドイツ関税同盟 ポイント

★目的

ドイツ経済を発展させるため、ドイツの経済的統一を図った

ドイツ産業革命の障壁を取り払うことで、

プロイセン領ラインラントを中心に、産業革命を実現することが目的

 

★ポイント

経済学者リストの提唱で結成された、ドイツの経済共同体

②イギリスなどの安価な外国製品に関税をかけ、

ドイツの工業製品の保護保護貿易)を約束

③他の領邦を通過したときに発生する域内関税(通行料)を廃止

④中心となったのはプロイセンで、オーストリアは不参加だった

 

ドイツ産業革命の障壁って

具体的に何ですか?

大まかに2つあります

安価な外国製品の流入によって、ドイツ製品が売れなくなること

②ドイツ経済の発展を邪魔していた域内関税(通行料)です

詳しく説明します。

 

経済学者リストの考え 「保護貿易」主義

ドイツの経済学者リストは、

「ドイツ経済の発展には保護貿易が必要だ」と述べました

 

保護貿易とは?

安価な外国製品に関税をかけて、外国製品の流入をブロック。

自国内の製品を保護する貿易のことです。

関税をかけてブロックするターゲットはイギリス製品でした。

 

なぜイギリス製品が怖かったのですか?

イギリスは産業革命を実現していて、モノの製造効率がいいです

だから安く製品をつくることができます。

 

一方でドイツの工業力は低く、イギリスほど安い製品はつくれません。

 

仮にドイツにイギリスの安価な製品が輸入されて

同じ店でイギリス製品とドイツ製品が並んでいたら、どっちを買いますか?

 

みんな安い方(イギリス製品)を買いますね

そうなると、ドイツの工場の経営者はどう思いますか?

どうせイギリス製品ばっかり売れるから

俺は儲からないな

工場をたたむか

 

ってなりますね

そういうことです。

イギリス製品との競争に負けて儲からないから、

工場を経営するメリットがないのです。

 

まずドイツで産業革命を実現するためには、

経営者たちに「ドイツで工場を始めたいな」と思ってもらわないといけません

 

そんな経営者たちに利益をもたらすためには、

外国から入ってくる安価な製品が邪魔でした

だから外国製品に高額な関税をかけて、

ドイツ市場に入ってくるのを防ぐ必要があったのです

 

リストが提唱した保護貿易主義とは、こういうことです。

 

域内関税の廃止

域内関税とは?

他の領邦(ドイツ人の小国)を通る際に発生する通行料のこと

ドイツには大小合わせて数百の領邦があり、

ひとつひとつの領邦に通行料を払わなければならなかった。

 

え、製品を運ぶときの交通費がやばくなりますよね?

そういうことです(笑)

材料や製品を運搬する際に、

他の領邦の土地を通過する必要があるときもあります

いちいちその国々にお金を払ってたら

コストもすごいし、なんせめんどくさい

 

こうした理由で、ドイツ経済を不便にしていたものを廃止したのです。

 

【質問】なぜプロイセンが中心となったのですか?

プロイセンは、上の項目で述べた「域内関税」に悩まされていたからです。

 

まず前提ですが、プロイセンはウィーン議定書で「ラインラント」を得ました

ラインラントは鉱山資源が豊富なので、プロイセン工業の中心になりました

 

しかし、ラインラントはプロイセン本土から離れた飛び地

ラインラントからプロイセン本土に荷物を運ぶためには、

他の領邦を通過するので、通行料を払う必要があります

プロイセンからすると正直言ってめんどくさい

 

こうした不便を解消するため、プロイセンはまず

北ドイツの領邦とプロイセン関税同盟を結び

加盟国をドイツ全土に拡大し、ドイツ関税同盟が成立しました

 

オーストリアにはメンツがありますから、

プロイセン主導の関税同盟には不参加となりました

 

 

1848年 フランクフルト国民議会

1848年 フランクフルト国民議会 ポイント

★背景

フランス二月革命に刺激を受け、ドイツの自由化とドイツ統一への機運が高まった

→ドイツの自由主義者はフランクフルトで集会を開き、今後のドイツの在り方を協議した

 

★経緯

オーストリアを中心としてドイツ統一を図る大ドイツ主義派と

プロイセンを中心としてドイツ統一を図る小ドイツ主義派が対立

 

★結果

小ドイツ主義が採用され、プロイセン王にドイツ帝冠を準備

→しかしプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は戴冠を拒否した

 

いろいろと突っ込みどころ満載ですね!

詳しくお願いします

 

大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立

フランクフルト国民議会にはドイツ全土から政治学者や法学者たちがあつまり

ドイツ統一について議論しました。

学者たちがとくに対立したのが、どの国をドイツの中心とするか?

という問題です

 

白羽の矢が立ったのは2国

ドイツ連邦の盟主でもあるオーストリア

経済発展がめざましく、ドイツ第二位のプロイセン

 

「オーストリアが安パイだろ!」という大ドイツ主義者と

「オーストリアは危険だ!プロイセンの方がいい!」という小ドイツ主義者に分かれました

 

多数決の結果、プロイセン王が統一ドイツの皇帝にふさわしいとの結論に至りました

つまり小ドイツ主義の勝利です

 

フランクフルトに集まった学者たちは、すぐにドイツ皇帝の冠を用意します

そしてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世を戴冠式に招待しました

 

しかし、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はこう言いました

「豚の帝冠などいらぬわ!」

なんとプロイセン王自ら、ドイツ皇帝としての戴冠を拒否してしまうのでした

 

ややこしすぎワロタ

 

2つ質問があります

 

【質問】オーストリアが除外され、プロイセンが支持されたのはなぜ?

オーストリアが除外され、

プロイセンが人気だったのはなぜですか?

オーストリアが多民族国家だからです

そして、1848年のオーストリアは支配下の民族の独立運動に悩まされていたからです

 

オーストリア関連の独立運動をまとめるとこうなります

オーストリアからの独立運動

1820年 カルボナリの乱を鎮圧(@イタリア)

→異民族からの支配に反発したイタリア人が秘密結社カルボナリを結成

→ナポリのブルボン家打倒と、北イタリアからのオーストリア軍追放を図った

 

1848年 ハンガリーの独立運動を鎮圧

→ハンガリーの自由主義者コシュートが一方的に独立を宣言

→コシュートは「ハンガリー共和国」の樹立を宣言したが、オーストリアが粉砕

 

1848年 ベーメン(チェック人)の独立運動

→ベーメン(現チェコ)の自由主義者パラツキーが民族運動を指導

→オーストリアに対等な関係を求めて交渉

→青年がオーストリア軍に危害を加えたことを口実に、パラツキー派を粉砕した

 

1849年 カルロ=アルベルトの蜂起を鎮圧(@イタリア)

→イタリアの小国 サルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトが蜂起

→北イタリアからのオーストリア軍追放をめざして戦うも、オーストリアは鎮圧

 

 

各地で独立運動が多発していますね

 

オーストリア大変ですね…

 

 

オーストリアをドイツに含めてしまうと、

オーストリアが支配する民族もくっついてきます

その民族が反乱を起こすたびに、みんなで処理しないといけません

これって大変じゃないですか?

 

ということで、オーストリアをドイツのメンバーとするのはリスクがあるとみなされたのでした。

 

【質問】プロイセン王が戴冠を拒否したのはなぜ?

プロイセン王にとってはドイツ統一のチャンスだったはずです

なぜドイツ皇帝としての戴冠を拒否したのですか?

ここがいちばん謎ですよね。わかります。

プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の心の声はこうです

「私がドイツの皇帝であるということを、すべてのドイツ人に認めさせなければいけない」

フランクフルト国民議会では、誰からドイツ皇帝として認められたんでしたっけ?

 

ドイツ全土から集まった、自由主義派の学者ですね

そうですね。

ドイツ人の階級を大まかに区分すると…

①各領邦の王族

②貴族

③市民階級

となります。

今回は、このうち一番下の市民階級の代表格から、

「プロイセン王はドイツ皇帝にふさわしい!」

と褒められたのですが、

 

これではドイツ皇帝を名乗るのには不十分です

他のドイツ諸国の王族や貴族にも、

プロイセンの威光を認めさせなければいけない

 

ということですね!

ざっとそんなところです。

下々の民からの冠を受け取っても、他の領邦の君主たちが認めなければ

彼らが反抗してプロイセンについてこなくなります。

それでは本当の意味でのドイツ統一は成功しないと考えたのです。

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