戦間期のドイツ史② ヒトラーって何した人? 流れとポイントを解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

てっちりをフォローする
  1. こんな人におすすめ
  2. おすすめの書籍
    1. 世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した
    2. 世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線
    3. 我が闘争
    4. いろんな本を読んで学習したいなら?
  3. ヒトラーってどんな人?(業績を簡潔に)
  4. ヒトラーはどうやって政権を掌握したのか?
    1. 前提知識 ヒトラー登場以前のドイツ政府
    2. ヒトラーのヴァイマル政府・共産党・ユダヤ人批判
    3. 1933ヒトラーのナチス 政権を掌握
    4. 1933年 国会議事堂放火事件と共産党の解散
    5. 1933年 全権委任法の制定
    6. 1933年 社会民主党の解散命令
    7. 1934年 ヒンデンブルクの死 ヒトラー「総統」に
  5. ヒトラーのドイツ復興プラン
    1. 国民車計画とアウトバーン
    2. 軍需産業の復興
    3. ドイツ民族の生存権の拡大
  6. ヴェルサイユ条約の打破
    1. 1933年 国際連盟の離脱
    2. 1935年 ザール編入
    3. 1935年 再軍備宣言
    4. 1935年 英仏伊 ストレーザ戦線を形成
    5. 1935年 仏ソ相互援助条約 チェコ・ソ連相互援助条約
    6. 1935年 ソ連 反ファシズム人民統一戦線を形成
    7. 1935年 英独海軍協定
      1. イギリスがドイツに甘かった理由
    8. 1936年 ラインラント進駐
    9. 1936年7月 スペイン内戦への介入
    10. 1936年10月 ベルリン=ローマ枢軸の形成
      1. 【補足】イタリア孤立の原因 エチオピア侵攻
    11. 1936年11月 日独防共協定(日独伊)
  7. 第二次世界大戦へ向かうヒトラー
    1. 1938年2月 オーストリア併合
    2. 1938年3月 ズデーテン問題
    3. 1938年9月 ミュンヘン会談
    4. 1939年3月 チェコスロヴァキア解体
    5. 1939年4月 英独海軍協定の破棄
    6. 1939年 独ソ不可侵条約
    7. 1939年9月 ドイツのポーランド侵攻(第二次世界大戦 開戦へ)

こんな人におすすめ

近現代史、とくに戦間期の歴史について学んでいます。

戦間期のドイツ(ヴァイマル政府・ヒトラーの時代)に

起こったできごとを学習しているのですが、

 

理解するのが難しいところが多くて苦戦しています。

誰かわかりやすく解説してください。

とお悩みの方

 

この記事では次のステップで戦間期のドイツ史

ヒトラーの登場から第二次世界大戦の開戦までを解説していきます。

 

この記事の内容・流れ

・ヒトラーってどんな人?(大まかに)

・ヒトラーはどうやって政権を掌握したのか?

・ヒトラーのドイツ復興プランとは?

・ヴェルサイユ条約の打破(1935年~)

・第二次世界大戦 開戦へ(1939年)

・学ぶのにオススメの書籍

 

おすすめの書籍

戦間期のドイツ

第二次世界大戦期のドイツについて学ぶための

オススメ書籍を紹介します。

 

世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した

世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した

 

これはまさにバイブルです。

ヒトラー登場までのドイツ政界の動きが、

事細かに描かれています。

自分自身も授業のネタとして活用させてもらったぐらいです。

 

ちなみに著者の神野さんは有名な予備校講師の方です

 

 

世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線

世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線

 

こちらもまさにバイブルです。

第二次世界大戦の重要な戦線と流れが

事細かに描かれています。

自分自身も授業のネタとして活用させてもらったぐらいです。

 

我が闘争

ヒトラーの自伝です。

ヒトラーの主観がかなり強調されているので、

中立的な歴史書ではありませんが、

 

ヒトラーが当時の社会に何を見て、

何を感じて、

何をすべきだと思ったのかが

如実に書かれています。

 

【上巻】 Kindle版(電子書籍)

【下巻】 Kindle版(電子書籍)

 

【下巻】 文庫版

 

いろんな本を読んで学習したいなら?

とはいえ、

本を読むにもお金がかかります。

自分も読む本の数が半端じゃなかったので、

書籍購入費には苦労していました…

 

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本1冊よりも安い月額料金で、

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ヒトラーってどんな人?(業績を簡潔に)

ヒトラーはオーストリア生まれですが、

ドイツの政治家となった人物です。

 

第一次世界大戦終結後、

敗戦国ドイツで生活していたヒトラーは、

ドイツが亡国同然の状態になっているのを見ました。

 

ヴェルサイユ条約によって課せられた莫大な賠償金

過酷な講和条約を認めてしまった上に、

無策な政策ばかりで混乱続きの無能な政府

世界恐慌によって300万人以上が失業状態となったドイツ

 

こうした悲惨な状況を目の当たりにして、

ヒトラーはヴェルサイユ条約そのものと

無策な政府(ヴァイマル政府)を批判

ヒトラーの声はドイツ国民から共感を受け、

彼はドイツの政界で成りあがりました。

 

彼はナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)を結成し、

持前の演説でドイツ国民を引き付け、

1933年に政権を掌握

 

ドイツを苦しめていた

ヴェルサイユ条約の条項を次々に破棄していき、

諸外国を驚かせました。

 

もちろんですが、

ヴェルサイユ条約の条項を無視することは国際法違反です。

ヒトラーはドイツの代表でありながら、

国際法を無視し続けたため、

諸外国はドイツを敵視することになりました。

 

そしてヒトラーがヴェルサイユ条約に定められた

ポーランド回廊をポーランドに割譲する」

という条項を破ってポーランドへと侵攻

 

さすがにこれは見過ごせまいと、

イギリス・フランスがドイツに宣戦布告

そして第二次世界大戦が幕を開けることになりました。

 

最終的にはドイツは敗戦し、

ヒトラーはベルリンの地下室で自殺

こうしてヒトラーの人生は幕を閉じました。

 

ヒトラーはどうやって政権を掌握したのか?

前提知識 ヒトラー登場以前のドイツ政府

ヒトラーが政権を掌握する前のドイツ政府は、

ヴァイマル政府と呼ばれていました。

 

かの有名な社会権を保証した憲法

ヴァイマル(ワイマール)憲法をつくったことで有名です。

その名にちなんで、

ドイツはヴァイマル共和国と呼ばれていました。

 

ヴァイマル政府は第一次世界大戦でのドイツの敗戦を認め、

過酷な講和条約 ヴェルサイユ条約に調印しました。

 

主要な鉱山や工業地帯を戦勝国に割譲

植民地はすべて手放し、

多額の賠償金を支払い、

徴兵制を廃止させられ、

近代兵器の保有を禁止される

 

などなど

様々な条項を認めさせられました

ドイツはもはや亡国ですね…

軍を解体されたから

抵抗すらできないと…

さらにヴァイマル政府は、

1929年に起こった世界恐慌に対して無策で、

ドイツには失業者があふれかえっている状況でした。

 

ヒトラーは各地で演説し、

そんなヴァイマル政府を徹底的に批判し、

ドイツ国民から共感を得たのです。

 

ドイツ社会は絶望的な状況だったので、

超新星のようにあらわれたヒトラーに

ドイツ国民は期待してしまったのでしょう。

 

ヒトラーのヴァイマル政府・共産党・ユダヤ人批判

ヒトラーはナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)の代表として、

各地で遊説しました。

 

ドイツ経済が崩壊した原因は何か?

1つめは諸外国から課せられた賠償金

賠償金を支払っている限り、

ドイツの富は外国に流れていく一方だ

 

2つめは主要な工業地帯や鉱山が、

外国の手にあることだ。

ヴェルサイユ条約によって、

ザール炭田は国際管理され、

工業地帯アルザス=ロレーヌはフランスの手に落ち、

ドイツの工業は衰退していった。

 

ドイツ産業革命の始まりの地

ラインラントは非武装地帯とされ、

ドイツはこの歴史ある大切な土地を守ることすらできない。

 

 

こうなってしまったのは誰のせいか?

 

1つめはヴェルサイユ条約を認めて調印した

社会民主党ひきいるヴァイマル政府

 

2つめは第一次世界大戦中に、

裏切り者がいたことだ

ソヴィエト(ロシア)のスパイとして潜伏して、

戦争継続の妨害工作をしていた共産党

 

そして敵国にカネと情報を横流しにしていた、

ドイツ国内のユダヤ人

 

 

こうしてヒトラーは、

ドイツが苦しい状況にある責任を、

賠償金を求める諸外国

社会民主党(ヴァイマル政府の第一党)

ドイツ共産党員や後ろ盾のソ連

ユダヤ人などに責任転嫁していったのでした。

 

当時のドイツは失業者が多く、

プライドはズタズタ

打ちひしがれていた状況だったので、

ドイツ国民は大いに共感し、

ヒトラーの演説に盛り上がりました。

敵をつくると、

みんな団結するんですね

人間の集団心理ってものでしょうか。

そうですね。

 

ヒトラーは正しいことを言っているわけではありませんが、

人間の心理をよく理解したうえで、

演説をするのが上手だったのだと思います。

 

ドイツ国民は思いました

「この男ならもしかして…」

そしてヒトラーは熱烈な支持を受けて、

政界で頭角を現していきました

 

1933ヒトラーのナチス 政権を掌握

1933年 ヒトラーが率いる

ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握

ここからヒトラーの暴走が始まります。

 

ヒトラーにとっての邪魔者は、

ヒンデンブルク大統領・共産党・社会民主党です

理由はのちの章で詳しく話します。

 

1933年 国会議事堂放火事件と共産党の解散

共産党は当時、

ナチスに並ぶほどの支持率を誇っていました。

こちらは脅威です。

共産党の人気があったのはなぜですか?

世界恐慌とソ連の影響ですね。

 

 

世界恐慌によって、

資本主義国の経済は壊滅していきました。

 

しかしソ連は世界恐慌の影響を受けなかったのです。

(理由を話すと長くなるので今回は割愛しますが)

 

ドイツの人々は不況にあえいでいたので、

「ソ連式の共産主義国家を見習えばいいんじゃないか?」

という世論が強まっていたそうです。

ヒトラーにとっては最大の敵ですね。

 

ヒトラーは力技を使って、

共産党を解散させました。

それが国会議事堂放火事件です。

 

「国会議事堂が放火された」

「警察の調べの結果、これは共産党員のしわざらしい」

 

という虚構をでっちあげて、

共産党に解散命令を出したのでした。

力技もいいところですね

 

共産党員は議員資格をはく奪され、

共産党員が国会で持っていた議席は、

そこに座っていた議員ごと抹消されました。

 

1933年 全権委任法の制定

ヒトラーは共産党を解散させたことによって、

国会の議席のほとんどを掌握しました。

 

そしてナチスの独裁を完成させるため、

ついに全権委任法を国会で可決しました

 

全権委任法 ポイント

ナチスは民族にとっての困難を除去するためなら、

ヴァイマル憲法で定められた手続き(国会の審議)を経ずに、

法律をつくることができる

 

ヴァイマル憲法を無視した政治が可能に…

これでヴァイマル憲法は無効化された

ということですね。

そういうことです。

こうしてヴァイマル共和国は

実質滅びた形になったのです。

 

この記事では一応、

ヒトラーの独裁が完成するまで書きますね。

 

1933年 社会民主党の解散命令

全権委任法の審議は、

一応ヴァイマル憲法にのっとって行われました。

しかしナチスが国会の議席の大半を占めていたので、

圧倒的多数の賛成で可決しました。

 

全権委任法の国会審議において、

反対票を出していたのが社会民主党でした。

 

ヒトラーはこれを熟知しており、

全権委任法で独裁権を得てから、

社会民主党の解体に動きだしました。

 

ナチスの政策に反対した社会民主党員を

国家反逆罪のような名目で捕らえ、

議員資格をはく奪していったのでした。

 

こうして社会民主党は解散状態に追い込まれ、

活動を停止しました。

 

1934年 ヒンデンブルクの死 ヒトラー「総統」に

ヒンデンブルク大統領は元軍人で、

第一次世界大戦中にロシア帝国軍を

タンネンベルクの戦いで破った英雄

 

首相のヒトラーよりも根強い人気があるので、

下手をうつと寝首をかかれます。

 

しかしヒトラーに朗報が

「ヒンデンブルク閣下が亡くなりました」

ヒトラーは笑いが止まらなかったでしょう。

 

ヒトラーは大統領職を事実上廃止し、

首相と大統領の両方の権限を併せ持つ

総統(フューラー)」という役職を設けました

 

そして自身が「総統(フューラー)」に就任したのでした。

 

こうしてヒトラーの独裁が完成しました。

 

世界一平和で民主的な憲法と言われた

ヴァイマル憲法は効力を失い、

ドイツはヒトラーによる独裁国家へと変貌していったのです。

 

 

ヒトラーのドイツ復興プラン

ヒトラーの政策スローガンは

すべての人々に仕事とパンを」でした。

世界恐慌による不況で、

仕事がない人が多かったんですね。

 

国内産業を復興させ、

失業者を限りなくゼロに近づける

そしてちゃんと給与をもらえて、

飯を食えるようにする

 

これがヒトラーの公約でした。

 

実際にヒトラーは、

約300万人いた失業者を、

約30万人まで減らすことに成功しています

すさまじいですね…

 

ではヒトラーが行った

具体的なプランを順に記します

 

国民車計画とアウトバーン

ヒトラーはまず、

国営事業に着手しました。

 

それが「国民車計画」です

ドイツ語にして「フォルクスワーゲン計画」といったら、

なじみ深いでしょうか?

ドイツの自動車メーカーの名前ですね!

そうです。

ヒトラーは「すべての国民が手軽に買える車をつくろう」と言って、

国営の自動車会社を創立したのです。

 

これが現在のフォルクスワーゲンの母体です。

 

車があっても道路網がなければ意味がありません。

ヒトラーはアウトバーンという高速道路の建設にも、

税金を投下しました。

 

従業員は失業者から雇い入れ、

材料も政府のお金

従業員の給料も政府のお金を使って行いました。

こうして失業者に仕事を与えたのです。

 

なかなか壮大ですね!

でもそれってけっこう

お金の無駄遣いじゃないですか?

お金はまわりまわって政府に帰ってきます

 

どういうことですか?

 

まず国営の車メーカーと道路づくりのために、

失業者を雇用します。

 

失業者は国から給料をもらって働くわけです。

失業者はそのお金で、

パンや服など生活必需品を買えます

お金がたまったら車を買えます

 

たとえば誰かがパンや服などを買ったら、

パン屋や服屋が儲かりますよね?

 

自動車が売れると、

自動車会社やその部品をつくる工場が儲かりますね?

たしかにそうですね。

 

そのパン屋や服屋、

自動車会社の業績が上がれば、

従業員の給料も上がります

そして給料をもらった人たちは、

またモノを買います

 

こうしてお金の循環が生まれるのです。

 

最終的に政府は、

儲かった人たちから所得税をとるなり、

人がモノを買うたびに消費税をとるなりすると、

税収が潤います。

 

 

こうして最終的に、

国民車計画や道路建設に使ったお金は、

政府のもとに帰ってくるのです。

なるほど!

お金の循環が生まれる最初のきっかけを

政府がつくってやると、

最後に政府のところにかえってくるわけですか!

 

軍需産業の復興

ヒトラーは自動車産業や道路工事ではなく、

軍需産業にも資金を投下しました。

 

軍で使う航空機・戦艦・潜水艦・戦車・武器などは、

いろんな部品の集合体です。

 

戦艦1隻つくるのに、

無数のネジとバルブと鉄板と大砲を用います。

 

例えば戦艦が1隻売れれば、

造船会社だけでなく、

その部品をつくっている会社、

製鉄会社など様々な会社が潤うことになります。

 

もちろん会社が忙しくなれば、

企業も多くの従業員を雇いますから、

失業者問題が解決されていきます。

 

 

景気がよくなれば、

社員(労働者)の給料も上がりますから、

労働者たちの満足度も上がって一石二鳥です。

 

なるほど!

すべてはつながっていくわけですね!

 

でもよく考えてみてください。

「あること」に気がつきませんか?

 

え、

ん??

 

ドイツはヴェルサイユ条約で、

航空機・戦車・潜水艦・戦艦などの

近代兵器の製造を禁止されているのです。

つまり…

軍需産業を奨励するのは、

ヴェルサイユ条約違反ということですか!

そうなんです。

 

先にも述べましたが、

ヒトラーはヴェルサイユ条約を

ことごとくすべて破り捨てていくのです。

 

ドイツ民族の生存権の拡大

ヒトラーは

ドイツ民族の生存権の拡大のため」と称して

他国への軍事侵攻を積極的に行うことになります。

 

「これもドイツの生き残りのためだ」

といって正当化してね

なぜ軍事侵攻を行う必要があるのですか?

ドイツはヴェルサイユ条約で、

すべての植民地権益を没収されたからです。

 

植民地は工業製品の原材料を得ることや、

ドイツ製品の輸出先として機能していました

 

ドイツの工場でつくったものを、

国内向けに売るだけでは利益に限りがあります

 

だからアジアやアフリカの植民地の住民に、

ドイツ製品を売っていたのです。

(正式には「無理やり売りつけていた」)

 

「でもその植民地がなくなった」

「ドイツの産業を再興しても、売る相手がいない」

「じゃあ新たに手に入れるしかない」

というのがヒトラーの考えです。

 

のちほど解説しますが、

工業製品の輸出先を獲得していくため、

ヒトラーは東欧の様々な地域を侵攻していきます。

 

こうした軍事侵攻をすることは、

ヴェルサイユ条約違反どころか、

1928年の不戦条約にも国際連盟規約にも違反します。

 

こうした国際法違反を積み重ねてまで、

「ドイツ民族の生き残り」にこだわったわけです。

なるほど

 

ヴェルサイユ条約の打破

ヒトラーはこう考えていました。

「ドイツ民族の生き残りのために、ヴェルサイユ条約を破棄する必要がある」

 

ヒトラーは国際社会に対決姿勢を示し、

ドイツの復興のための障害として

ヴェルサイユ条約の条項を破り捨てていくのでした

 

1933年 国際連盟の離脱

ヴェルサイユ条約に定められた賠償金の支払いを拒否し、

ヒトラーは国際社会からの批判を浴びました。

 

そんな国際社会に対決姿勢を示す形で、

ヒトラーはドイツの国際連盟脱退を決定

 

1933年10月にドイツは正式に国際連盟を脱退しました。

 

1935年 ザール編入

ヒトラーは国際連盟の管理下におかれていた

ザール地方をドイツに編入しました。

 

一応ザールについて振り返っておきます。

 

ザールとは?

ザールは第一次世界大戦前の旧ドイツ領

石炭の生産地として有名で、ザール炭田があった。

 

しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、

ヴェルサイユ条約によって、

ザール地方は国際連盟の管理下に…

 

ヴェルサイユ条約の発効から15年後に、

ザールをフランス領とするかドイツ領とするか、

住民投票で決定する予定だった

 

 

住民投票の結果は?

ザールの人々はドイツを選びました。

 

フランスは、

ザールの人々にフランス語教育をほどこし、

住民投票で多数決をとって、

この地をフランス領にするつもりでした。

 

しかしヒトラーの手腕を見たザールの人々は、

第一次世界大戦前と同様、

ドイツ領であることを望んだようです。

 

一応ですが、

ザール編入は合法的におこなわれました。

 

しかしここからは、

国際法違反を乱発します。

 

1935年 再軍備宣言

ヒトラーは再軍備を宣言

 

ヴェルサイユ条約の内容

徴兵制の禁止」

戦車・軍艦・潜水艦・航空機の保有禁止」

などといった条項を破棄しました。

 

そして失業者対策のために、

軍需産業を奨励しました。

 

1年後には軍備が整い、

軍をラインラントに進駐し、

さらにスペイン内戦に介入し、

新兵器の実践テストを行っています

なんとむごたらしい…

これについてはのちの章で説明します。

 

1935年 英仏伊 ストレーザ戦線を形成

ドイツに隣接する国々は、

ドイツの再軍備宣言を警戒しました。

 

ちょうどドイツと隣り合う

イギリス・フランス・イタリアは会合を開き、

ドイツへの警戒網を形成しました。

これを「ストレーザ戦線」といいます

事実上の対ドイツ軍事同盟のようなものです。

のちにドイツと手を組むことになるイタリアも、

初期はドイツを警戒していたことをおさえておきましょう。

 

※補足

ただしイタリアはエチオピア侵攻をとがめられ、

英仏と決別してしまうことになるため、

この関係は長続きしませんでした。

 

1935年 仏ソ相互援助条約 チェコ・ソ連相互援助条約

ソ連もまた、

ドイツの再軍備を警戒していました。

 

そこでソ連はフランスに接近し、

ドイツを挟み撃ちにするための同盟構築を持ちかけたのです。

そうして結ばれたのが、

仏ソ相互援助条約でした

 

さらにソ連はチェコとも協力関係を構築し、

チェコ・ソ連相互援助条約を結んでいます。

 

※補足

ちなみにフランスは1924年にすでに

チェコと相互援助条約を結んでいます

 

仮にドイツと戦争になった場合、

両国はお互いに助け合うということになりました。

 

こうして、

フランス・チェコ・ソ連の3方向から、

ドイツは囲まれることになったのです

 

ソ連はやたらとドイツを警戒していますね

 

ソ連とドイツは仲が悪いのですか?

 

これはヒトラーの私情ですが、

ヒトラーはソ連の共産主義を敵視しています

もちろんソ連という国自体も敵視しています。

 

ヒトラーは過去にドイツ共産党を解散させているぐらいですから、

大の共産党嫌いです。

 

世界各国の共産党の総本山と呼べるべきものが、

ソ連のモスクワで開かれているコミンテルンです

 

ヒトラーはコミンテルンを主催しているソ連を敵視しており、

ソ連とドイツは犬猿の仲でした。

 

1935年 ソ連 反ファシズム人民統一戦線を形成

ソ連はドイツを危険視し、

モスクワでコミンテルン第7回大会を開催

世界各国の共産党員を招集しました。

 

そして「反ファシズム人民統一戦線」の形成を呼びかけました

ファシズム国家の意味については長くなるので、

この記事では述べませんが、

具体的にいうと当時のドイツ・イタリア・日本を指します。

 

ドイツ・イタリア・日本などの内部崩壊を狙うため、

コミンテルンの指示で

共産党員にスパイ活動や政権運営の妨害工作を命令しました。

争いが現実味を帯びてきましたね

 

1935年 英独海軍協定

フランス・ソ連・チェコなどがドイツに警戒態勢をとる中、

なんとイギリスはドイツへの宥和姿勢を見せました。

 

そしてイギリスはドイツと「英独海軍協定」をむすびました

英独海軍協定とは?

ドイツの軍艦・潜水艦の保有数を定めた協定

ドイツが海軍を強化する際、

イギリスの軍艦保有数の35%まで、

イギリスの潜水艦保有数の45%までの数を

保有することを認められた

 

つまりイギリスは、

「制限した数以下なら、ドイツは軍艦と潜水艦を持ってもいいですよ」

と言ったわけです。

 

さてこの条約、何かがおかしくないですか?

今回はわかりますよ!

 

そもそもドイツは、

ヴェルサイユ条約で

軍艦と潜水艦の保有は禁止されていますよね

そうなんです。

イギリスはヴェルサイユ条約の調印国でありながら、

ドイツのヴェルサイユ条約違反(軍艦・潜水艦の保有)を黙認したんです。

 

こうしたイギリスのドイツへの甘い態度を、

宥和政策」といいます

 

イギリスがドイツに甘かった理由

イギリスはドイツに甘い…

 

まさかビビってしまったんですか?

それとも何か意図があるんですか?

イギリスは少し悪だくみをしています。

 

イギリスの目的は、

ソ連とドイツを戦争させることなんです。

そして敵国ソ連とドイツが共倒れになってほしい

そう考えていました。

 

ヒトラー率いるドイツは、

イギリスにとって明らかな敵ですが、

イギリスにとってソ連も敵でした。

 

なんだかんだ言って、

ソ連は社会主義革命が起こってできた国だし、

世界恐慌の影響を受けず、

国際社会の中で台頭しています。

 

そして指導者は「鉄の男」スターリン

反対派を大虐殺するような危険な独裁者です

ソ連の台頭は非常に危険でした

 

イギリスの目的はこうです。

「まずはドイツに、ソ連に対抗できる程度の軍事力を持ってもらう」

「その後、2人の独裁者(ヒトラーとスターリン)を戦わせる」

「戦争で弱った両者をイギリスが葬る」

なんて腹黒いのでしょうか

ちなみに先にも述べましたが、

1935年6月現在、

ソ連はチェコとフランスと同盟関係を構築し、

ドイツを警戒しています。

 

ドイツは負けじと軍事力を強化しています。

そしてゆくゆくは

ソ連・フランス・チェコVSドイツの戦争が起こるでしょう

 

イギリスはこのように予期していたのです。

 

そうなればヨーロッパの国々は戦争で弱っていき、

イギリスは武器でも売って金もうけをしながら、

高みの見物をできるってわけです

 

とはいえ、ドイツ軍が弱ければ張り合いがありません。

ソ連は倒れてくれませんからね。

ドイツ軍がソ連軍と拮抗するレベルに、

強くなってもらう必要がありました。

 

だからイギリスはドイツの再軍備を黙認したのです。

 

イギリスの目論見は当たるのでしょうか…

最後に裏切られますよ、イギリスは…

 

 

1936年 ラインラント進駐

「イギリスはドイツに甘い。しめしめ…」

 

ヒトラーはそこから綱渡りをしていきました。

「これでもイギリスは怒らないんじゃないか?」

と考えながらね。

 

ヒトラーはヴェルサイユ条約の条項をひとつ破りました。

ラインラントの非武装」です

 

ラインラントとは?

鉱山資源に恵まれた地

ドイツ産業革命の始まりの地でもある

ラインラントは隣国との国境地帯でもあるため、

隣国に侵攻するためにはここを通る

 

第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約

非武装化(軍を置かないこと)を定められていた

 

 

具体的に言うと、

ドイツからフランス・ベルギー・オランダなどに侵攻できないように、

ラインラントは非武装と定められていたのでした

 

そんなラインラントに、

ヒトラーは容赦なく軍を展開しました。

これを「ラインラント進駐」といいます

 

再軍備宣言後、

新設した軍を置きたかったんでしょうね。

 

1936年7月 スペイン内戦への介入

スペイン内戦とは?

1931年のスペイン革命後に起こった

アサーニャ人民戦線内閣

フランコ将軍ひきいるファシズム勢力との政権争い

 

争いは水面下で繰り広げられ、

1936年に大規模な武力闘争に発展した(スペイン内戦

 

ヒトラーは再軍備によって軍需産業を再興

新たにつくった兵器の実験場として、

スペインを選びました

 

スペインではちょうど、

ソ連との関係性が深いアサーニャ人民戦線内閣と、

それに対抗する軍部のフランコ将軍が争っていました。

 

ドイツはイタリアとともにフランコ将軍を支援し、

親ソ政権アサーニャ内閣を倒そうと考えました

 

ついでに新兵器の実験もできるから、

一石二鳥だと考えたのです

ひどいですね…

 

ヒトラーはスペインの都市への空爆を命じ、

スペインの歴史ある街並みは破壊されていきました。

 

詳細はスペイン内戦の記事に書いたので、こちらをご覧ください

 

1936年10月 ベルリン=ローマ枢軸の形成

ベルリン=ローマ枢軸とは?

ドイツとイタリアが形成した提携関係のこと

国際社会で孤立していた両国が、

正式な同盟関係を結んだ

 

ドイツが孤立しているのはよくわかりますが、

 

イタリアはなぜ、

国際社会の中で孤立していたのですか?

エチオピア問題です。

イタリアはエチオピアに侵攻し、

エチオピアを攻略するために、

毒ガスやダムダム弾などの禁止兵器を次々に使ったのです。

 

※ダムダム弾とは?

特殊な銃弾。

命中した相手の体内で炸裂し、

内臓をえぐって壮絶な苦しみを与えることから、

国際法で使用を禁止されていた。

 

エチオピアを不当に侵攻することはもちろん、

禁止兵器の使用までしてしまったイタリアは、

国際連盟からのバッシングを受けて孤立していたのです。

 

それで同じ孤立している者同士、

ドイツのヒトラーと手を結んだのですか

そういうことです。

 

エチオピア侵攻については、

以下で補足しておきます。

 

【補足】イタリア孤立の原因 エチオピア侵攻

イタリアは植民地が少ない国でした。

 

ムッソリーニは植民地を得て、

植民地の住民にイタリア製品を売りつけ

世界恐慌によって沈んでしまったイタリア経済を

復興させようと考えていました

 

そこで目をつけたのがエチオピア帝国でした

エチオピアは皇帝ハイレ=セラシエの指導のもと、

独立を保っていた国でした。

 

イタリアがエチオピアに軍事侵攻をしかけるのですが、

エチオピア兵の抵抗がすさまじく、

イタリア軍はなかなか前に進めません

 

イタリアのエチオピア侵攻は国際連盟の規約違反

しかも不戦条約にも違反しています。

これは見過ごせません。

 

はやくエチオピアを落とさないと、

国際連盟はイタリアへの経済制裁をはじめ

イタリアへの石油の輸出をストップしてしまうでしょう

 

そうなるとイタリア軍は戦車も航空機も動かせなくなり、

ジリ貧になってしまう…

 

ムッソリーニはエチオピアを最短で攻略しなければなりません。

国際連盟の経済制裁が発動する前にね。

そこでイタリアは禁止兵器の使用に踏み切りました。

首都に毒ガスをまき散らし、

敵兵士にダムダム弾を撃ち込み、

むごたらしく体を内部破壊していく

 

※ダムダム弾とは?

特殊な銃弾。

命中した相手の体内で炸裂し、

内臓をえぐって壮絶な苦しみを与えることから、

国際法で使用を禁止されていた。

 

そのグロテスクな描写を見せて、

エチオピア兵の戦意を削いでいったのでした。

 

最終的にエチオピア首都アディスアベバを陥落させ、

エチオピアはイタリアの手に落ちました。

 

1936年11月 日独防共協定(日独伊)

ドイツはソ連と犬猿の仲

そしてドイツの台頭をソ連は恐れている

そしてソ連は反ファシズム人民統一戦線を築いた

両国はスペイン内戦を舞台に激突した

 

というところまでは述べましたね。

 

そしてドイツがアクションを起こします。

ドイツは同じくソ連のターゲットになっている、

日本・イタリアに声をかけました

 

そして共産主義国家(ソ連)の工作を妨害するため、

防共協定」を締結しました。

 

実態はほとんど、

ソ連に対抗するための軍事同盟のようなものです。

 

初めは日本とドイツの間で日独防共協定が結ばれましたが、

その後イタリアも参加し、日独伊防共協定になりました

 

第二次世界大戦へ向かうヒトラー

1938年2月 オーストリア併合

1938年 ヒトラーは隣国オーストリアを併合しました。

 

オーストリアはドイツと同じく、

ドイツ人(ゲルマン系)の国です

実はヒトラーも生まれはオーストリアです

 

つまりヒトラーは祖国を併合したというわけです。

ちなみにオーストリア併合は合法的に行われました

「ドイツと合併するか?」という議題で

オーストリア住民に住民投票を行い、

賛成多数でドイツへの併合が決定したのです。

 

隣国ドイツのめざましい経済復興を見て、

オーストリアの人々もヒトラーに期待したのでしょうね。

 

これはヴェルサイユ条約違反ではないのですか?

ばりばり違反です(笑)

第一次世界大戦後、

戦勝国とオーストリアの間で結ばれた

サン=ジェルマン条約にはこう書かれています

ドイツとオーストリアの合併禁止

 

ドイツとオーストリアの2大国が合併し、

戦勝国にとっての脅威にならないように仕向けたのでした

 

ま、これも破られて

オーストリアはドイツに併合されたわけですよ。

 

1938年3月 ズデーテン問題

ズデーテンとは?

チェコスロヴァキア領

鉱山資源が豊富で軍需産業が発展していた地

兵器工廠では未使用の高性能戦車が約2000台格納されていた

 

ヒトラーはドイツの軍備をさらに拡大するため、

ズデーテンを狙いました。

この地を無傷で手に入れれば、

ズデーテンの兵器工場や

そこに格納されている戦車を

すべてドイツの手中におさめることができます。

 

ヒトラーはチェコスロヴァキアにこう言いました。

ズデーテンはドイツ系住民が多い。よってドイツ領だ。

チェコスロヴァキアはもちろん反論しました。

 

こうしてドイツとチェコスロヴァキアの間で、

領土紛争が起こっていたのでした。

 

1938年9月 ミュンヘン会談

ミュンヘン会談とは?

ズデーテンの帰属をめぐって

ドイツとチェコスロヴァキアが対立

 

イギリス・フランス・イタリアが仲裁し、

ドイツのミュンヘン英・仏・独・伊が会合した

結果としてミュンヘン協定が結ばれた

 

参加者は以下のとおり

英:ネヴィル=チェンバレン

仏:ダラディエ

独:ヒトラー

伊:ムッソリーニ

 

協定の結果はどうなったのですか?

ミュンヘン協定

ズデーテンはドイツ領とする

ただし、これはドイツへの最大の譲歩であるため、

ドイツによる領土要求はこれを最後とする

 

詳しく説明します。

 

先ほども申し上げたとおり、

チェコスロヴァキア領ズデーテンは兵器産業が盛んで、

ここには未使用の戦車2000台が格納されています。

 

ヒトラーの目的は、

ズデーテンの工場と戦車を無傷で手に入れることです

 

ズデーテン問題が深刻化する中、

イギリスとフランスが仲裁に入りました。

ヒトラーはこれに応じ、

同盟国イタリアを同伴して会議にのぞみました。

 

驚くことになんと、

チェコスロヴァキアの代表は参加できず

ズデーテンの帰属問題が勝手に決められてしまったのです。

ひどいですね…

さて、結果はひどいものでした。

ドイツの要求をみとめ、ズデーテンはドイツ領とする

 

え、おかしいじゃないですか!

これはイギリスが行った、

ドイツへの宥和政策です。

 

前章でも述べましたが、

イギリスの目的はドイツとソ連を戦争させること

そしてドイツとソ連を共倒れにすることなんです。

 

チェコはソ連と相互援助条約を結んでいます

チェコスロヴァキアはズデーテン問題に不満を持ち、

同盟国ソ連を頼るでしょう。

 

そしてチェコ・ソ連陣営VSドイツの戦争が起こることを期待したのです。

どこまでもひどいやり方ですね…

ただし条件をつけました

ドイツはこれ以上の領土要求をしないこと

これをヒトラーに約束させたのです。

もちろん、ヒトラーは守るつもりはありませんがね。

 

ミュンヘン会談によって、

ズデーテンはドイツ領となり、

一応は話し合いで全面戦争を避けられました。

 

イギリスの首相ネヴィル=チェンバレン

ノーベル平和賞を受賞し、

調子に乗っていたようです。

 

これが地獄の始まりだとも知らずに

 

1939年3月 チェコスロヴァキア解体

ヒトラーはすぐさまイギリスとの約束を破りました。

ズデーテンの要求のみならず、

チェコスロヴァキア全土を併合しようとしたのです。

 

そしてドイツは1939年

強引にチェコをドイツに併合し、

スロヴァキアを保護国としました。

 

イギリスはドイツを非難しましたが、

「まことに遺憾です」

と言うのみで具体的なアクションは起こしませんでした。

 

このままチェコの同盟国 ソ連が登場し、

ドイツとつぶし合ってくれれば…

 

なんて淡い期待を持ちながらね。

イギリスの国民はどう思っていたのですか?

国民はドイツの台頭を危険視しながらも、

余計な戦争に巻き込まれたくありませんでした。

 

第一次世界大戦の地獄を知っていますからね。

もう戦争なんてこりごりだ

そんなムードが漂っていたので、

ネヴィル=チェンバレン

妥協ばかりの平和外交を支持していました。

 

1939年4月 英独海軍協定の破棄

ドイツはズデーテン獲得後、

軍需産業の発展を加速させました。

 

そしてイギリスとの間で結ばれていた、

ドイツの軍艦・潜水艦の保有数を制限する条約

英独海軍協定を一方的に破り捨てたのです。

 

これでドイツを縛るものはありません。

ヒトラーはさらなる軍拡をしていったのです。

 

またしてもイギリスは

非難するのみで止めませんでした。

「はやくソ連と戦争してくれ」

ネヴィル=チェンバレン首相の本音が漏れます。

 

しかしこのあと、

全世界が驚愕するできごとが…

 

 

1939年 独ソ不可侵条約

独ソ不可侵条約

ドイツとソ連の相互不可侵を定めた条約

 

条約内の秘密協定として

独ソで隣国ポーランドの分割規定が定められた

ポーランド西部をドイツ

ポーランド東部をソ連が侵略し、

相互に領有権を認め合うことを約束した。

 

この条約はやばすぎますね…

 

どうしてソ連はドイツに歩み寄ったのですか?

対岸の日本との戦いに備えたからです。

独ソ不可侵条約締結の3カ月前、

日本とソ連&モンゴル(ソ連側)の間で

ノモンハン事件が発生しています

 

満州を領有していた日本と、

満州と領土が隣接するソ連の間で起こった領土紛争です。

 

この事件を機に、

ソ連は日本に対する臨戦態勢を整えていました。

 

ドイツは日本の対岸にあるため、

ソ連は日本・ドイツという敵に挟まれている状況です

ソ連は日本とドイツの両方と同時に戦う余裕はありません。

 

ソ連の指導者スターリンは

危機管理能力に優れている人物です。

 

背後のドイツからの攻撃を避けたかったのでしょう。

なるほど

ドイツにとってもソ連からの不可侵はメリットがあります。

ドイツはヴェルサイユ条約に次々に違反し、

イギリス・フランスと不仲です。

 

ドイツから見て西側の英仏と戦う際、

東からソ連が攻めてくるとしんどいです。

 

だからソ連からの攻撃を未然に防ぐため、

独ソ不可侵条約を結んだのです。

 

つまり…

「ドイツとソ連を戦争させる」

というイギリスの目論見は

裏切られたということですね!

まさしくそういうことです。

イギリスは腹黒い目的を掲げた結果、

ドイツを甘やかして強大化させてしまい、

その後に得たいと思っていた果実は

何も得られなかったのです。

 

1939年9月 ドイツのポーランド侵攻(第二次世界大戦 開戦へ)

ヒトラーはさらに、

ヴェルサイユ条約の条項を破っていきます

 

ポーランド回廊をポーランドに割譲する」

ヴェルサイユ条約によってポーランドに割譲した、

ポーランド回廊を取り戻すため、

ポーランドに一方的に侵攻しました

 

独ソ不可侵条約があるので、

ドイツが東に進んでも、

ドイツを止める国がいません。

 

「これは潮時だ…」

イギリスとフランスはドイツを止めるため、

ドイツに宣戦布告しました。

 

こうして第二次世界大戦がはじまることになります。

 

 

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