第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線 流れとポイントをわかりやすく解説

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
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  1. こんな人におすすめ
  2. おすすめの書籍
    1. 世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した
    2. 世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線
    3. 我が闘争
    4. いろんな本を読んで学習したいなら?
  3. 第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線 大まかな流れ
  4. 登場勢力(連合国 VS 枢軸国)
    1. 連合国
    2. 枢軸国
  5. 開戦~バトルオブブリテン(1939~40年)
    1. 1939年 ドイツのポーランド侵攻
    2. 1939年 ソ連がポーランド東部・バルト三国併合
    3. 1939年 ソ連のフィンランド侵攻(冬戦争)
    4. 1939.12月 ソ連の国際連盟除名
    5. 【質問】開戦初期に連合国が様子見をしていたのはなぜか?
    6. 1940.4月 ドイツの北欧侵攻
    7. 1940.5月 ドイツがオランダ・ベルギーを占領
    8. 【補足】ドイツ軍の「電撃戦」
    9. 1940.5月 イギリス チャーチル内閣が発足
    10. 1940.5月 ダンケルクの戦い
    11. 1940.5月 イタリア参戦
    12. 1940.6月 パリ陥落(フランスが降伏)
    13. 1940.7月 バトルオブブリテン(ドイツVSイギリス)
    14. アメリカによる武器援助
  6. バルカン侵攻~独ソ戦(1940~43年)
    1. 1941年 ルーマニア・ブルガリアの懐柔
    2. ユーゴスラヴィアの抵抗
    3. ギリシア攻略
    4. 1941.4月 日ソ中立条約の締結
    5. 1941.6月 独ソ戦の開戦
    6. 1941.7月 英ソ相互援助条約
    7. 1942.8月 スターリングラードの戦い
  7. 連合国の反撃~終戦(1943~45年)
    1. 1943.6月 ソ連 コミンテルンを解散
    2. 1943.9月 イタリア 無条件降伏
    3. 1943.11月 テヘラン会談
    4. 1944.6月 ノルマンディー上陸作戦とパリ解放
    5. 1945.2月 ヤルタ会談
    6. 1945.5月 ドイツ軍 無条件降伏

こんな人におすすめ

第二次世界大戦期のヨーロッパについて学んでいます。

 

大戦中にはさまざまな戦いがあったと思いますが、

丸暗記になるばかりで頭に入ってきません。

どんな流れで戦いが進んだのか、

わかりやすく教えてほしいです

とお悩みの方

 

この記事では次のステップで戦間期のドイツ史

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線について、

流れ・ポイントがわかるように解説していきます。

大戦中のエピソードもまじえてお話できればと思います。

 

この記事の内容・流れ

・第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線 大まかな流れ

・登場勢力(連合国 VS 枢軸国

・開戦~バトルオブブリテン(1939~40年)

バルカン侵攻~独ソ戦(1940~43年)

・連合国の反撃~終戦(1943~45年)

・学ぶためのオススメ書籍

 

おすすめの書籍

戦間期のドイツ

第二次世界大戦期のドイツについて学ぶための

オススメ書籍を紹介します。

 

世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した

世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した

 

これはまさにバイブルです。

ヒトラー登場までのドイツ政界の動きが、

事細かに描かれています。

自分自身も授業のネタとして活用させてもらったぐらいです。

 

ちなみに著者の神野さんは有名な予備校講師の方です

 

 

世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線

世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線

 

こちらもまさにバイブルです。

第二次世界大戦の重要な戦線と流れが

事細かに描かれています。

自分自身も授業のネタとして活用させてもらったぐらいです。

 

我が闘争

ヒトラーの自伝です。

ヒトラーの主観がかなり強調されているので、

中立的な歴史書ではありませんが、

 

ヒトラーが当時の社会に何を見て、

何を感じて、

何をすべきだと思ったのかが

如実に書かれています。

 

【上巻】 Kindle版(電子書籍)

【下巻】 Kindle版(電子書籍)

 

【下巻】 文庫版

 

いろんな本を読んで学習したいなら?

とはいえ、

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自分も読む本の数が半端じゃなかったので、

書籍購入費には苦労していました…

 

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第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線 大まかな流れ

第二次世界大戦ヨーロッパ戦線は

1939年のドイツのポーランド侵攻に始まり、

1945年のドイツ降伏によって終わります。

 

戦局をかなり大まかに記すと、

以下のとおりになります。

 

この記事の内容・流れ

1939年 開戦

→その後は膠着状態に

 

1940.6月 パリ陥落(フランス降伏)

→ドイツ軍が北海~ドーバー海峡沿岸を制覇

→ドイツはイギリスを海上封鎖できるように

 

1940.7月 バトルオブブリテン(ドイツ軍がロンドンを空爆)

ドイツ軍の燃料不足により失速し、イギリス攻略が挫折

 

1940.9 ドイツ軍のバルカン攻勢

油田確保のためにルーマニアをめざす

 

1941.6 独ソ戦の開始

→ドイツが独ソ不可侵条約を破って侵攻

→ソ連の石油資源の獲得をめざした

→ドイツ軍はスターリングラードの戦いで大敗し、戦局は逆転

 

1943年 連合国が反撃開始

→連合国は3つの戦線をつくり、ドイツ領に進撃

→ソ連から(第一戦線)・北フランスから(第二戦線

・北アフリカからの3方面からドイツ軍を攻撃

 

1943.9 イタリア降伏

1945.5 ドイツ降伏

 

以下でさらに詳しく説明していきます。

 

登場勢力(連合国 VS 枢軸国)

まずは第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の交戦勢力を示します。

 

ただし主要な戦力以外は説明を割愛するので、

「参戦してるのに記事には書いてない」

ということはもちろんあります。

 

あらかじめご了承ください。

 

連合国

アメリカ・イギリス・フランスを中心とする勢力

 

ソ連はしばらく関与していなかったものの、

独ソ戦が始まって以降、

ソ連はイギリスと結び、連合国側で参戦しました。

 

枢軸国

ドイツ・イタリア・日本を中心とする勢力

※日本はアジア戦線での参戦なので、今回は登場しません

 

世界恐慌後の不況を打破するため、

自国の植民地権益の拡大を狙い、

連合国から批判を受けて孤立していました。

 

孤立した三国はやがて同盟関係を結び、

日独伊三国同盟が結ばれました。

 

開戦~バトルオブブリテン(1939~40年)

1939年 ドイツのポーランド侵攻

第二次世界大戦は、

ドイツがポーランドに侵攻したことから始まりました。

 

ドイツの指導者ヒトラーは

ヴェルサイユ体制の打破」を掲げていました。

 

第一次世界大戦後に

敗戦国ドイツを苦しめたヴェルサイユ条約を破り、

ドイツを再び偉大な国にしようと考えていました。

 

それとポーランドにはどんな関係が?

ヴェルサイユ条約には、

「ドイツはポーランド回廊をポーランドに割譲する」

という条項がありました。

ポーランド回廊はドイツの旧領で、

この地がポーランドに割譲されていたのです。

 

ヒトラーはこのポーランド回廊を

取り戻しにいったわけなんです。

 

結果としてドイツは

あっという間にポーランド西部を占領してしまいました

 

「ドイツの行動はさすがに目に余る」

ヒトラーの台頭以来、

ずっと目をつむってきたイギリスとフランスがついに動きます。

 

そしてイギリスとフランスはドイツに宣戦布告

ここから地獄の第二次世界大戦が幕を開けます。

 

しかし開戦から1年間は、

ドイツVS英仏の間で目立った戦いはおこりませんでした

この理由についてはあとで解説します。

 

 

1939年 ソ連がポーランド東部・バルト三国併合

ドイツが東へと軍を進める中、

ソ連が水面下で動き始めます。

 

このときのソ連はまだ、

連合国側についていませんので注意してください。

 

ソ連はバルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)へ侵攻

そのままポーランド東部を侵略しました。

 

急にソ連が動いたのはなぜですか?

独ソ不可侵条約の条文の中に、

秘密協定があったのですが、

ソ連は秘密協定の取り決めを実行したのです。

 

独ソ不可侵条約の秘密協定

ドイツ・ソ連両国は

ドイツによるポーランド西部の領有

ソ連によるバルト三国・ポーランド東部の領有を

互いに承認する

 

ポーランドやバルト三国は

自国が侵攻されることを知っていたのですか?

もちろん知っているはずがありません。

 

こうして口裏合わせを済ませた2つの大国が、

ポーランドとバルト三国を蹂躙していったのです。

 

いくらなんでもひどすぎます…

1939年 ソ連のフィンランド侵攻(冬戦争)

ソ連は同時進行でフィンランドを攻撃しました。

 

ソ連の防衛上、フィンランドは重要でした。

 

フィンランドを占領して、

南側の対岸のバルト三国とあわせて防衛線を敷けば、

ソ連の旧都ペトログラードへの

敵軍の侵入を防ぐことができます。

 

 

そのためにソ連はフィンランドを攻略しようとしたのです。

フィンランドはこれに抵抗しました

この戦いを別名「冬戦争」と呼びます

 

ソ連軍はフィンランド軍を圧倒して、

多くの領土を得ましたが、

フィンランドは負けじと抵抗を続けました。

 

フィンランド軍で著しい活躍を見せたのが、

シモ=ヘイヘでした。

 

シモ=ヘイヘはフィンランド軍の伝説のスナイパーです。

通常では、スナイパーはスコープを使って敵を射貫きます

しかしシモ=ヘイヘは狙撃の天才で、

スコープなしでの狙撃に長けていたのです

確かにすごいですが、

スコープを使わないメリットは何ですか?

 

スコープの反射光に気付かれないのです。

スナイパーは狙撃音・銃から出る煙・スコープの反射光

この3つが原因で敵から見つかりやすいのです。

 

ですがシモ=ヘイヘはスコープを使わないので、

スコープの反射光を見られて

敵に気付かれることがなかったのですよ。

 

シモ=ヘイヘは開戦後、

またたく間に頭角をあらわし、

500人以上のソ連兵を狙撃したと言われます。

たった1人で500人も…

 

1939.12月 ソ連の国際連盟除名

「ソ連のフィンランド侵攻は不当である」

 

1939年12月 ソ連は国際社会から非難を受け、

国際連盟から除名されてしまいました。

 

これはソ連にとって想定内でした。

ソ連は国際社会で孤立しつつも、

国土防衛にとって重要な領土を得ることができたので、

そちらをとったのでしょう。

 

【質問】開戦初期に連合国が様子見をしていたのはなぜか?

ドイツとソ連が好き勝手やっているのに、

英仏はなかなか動かない

なぜですか?

たしかに第二次世界大戦開戦期は、

連合国側がドイツを傍観していました。

そのため、目立った戦闘が起こらなかったのです。

 

もちろん理由があります。

連合国の中心 イギリスとフランスはこう考えていました

「ドイツ軍はいま東(ソ連の方)に進んでいる。」

「一方でソ連は西(ドイツの方)に進んでいる」

「このまま独ソ不可侵条約を破って、ソ連と戦争しないかな…」

 

 

ドイツとソ連のつぶし合いの可能性を

狙っていたのですね!

そういうことです。

 

しかしドイツとソ連は、

イギリスとフランスが知らないところで口裏合わせをしています。

 

ドイツとソ連が戦争をするはずがなかったのですよ

 

1940.4月 ドイツの北欧侵攻

ドイツは同時進行でデンマーク・ノルウェーを侵攻しました。

ドイツ軍の強さは驚異的で、

あっと言う間にデンマーク・ノルウェーを降伏させてしまいました。

1940.5月 ドイツがオランダ・ベルギーを占領

ドイツ軍は東欧・北欧への侵攻を済ませたあと、

西側に進路を変更していきました。

 

そして隣国オランダ・ベルギーを

1カ月足らずで攻略してしまったのです。

 

ドイツ軍の進撃は国際社会を震撼させました

【補足】ドイツ軍の「電撃戦」

ドイツ軍の進撃がすさまじいですね。

第一次世界大戦のときは

戦線が膠着状態になったのに、

今回はなぜこんなにも

トントン拍子で進んでいくのですか?

ドイツ軍の作戦「電撃戦」の影響です

電撃戦とは、

航空機・戦車・歩兵をフル活用して、

敵の戦意を喪失させる戦術です。

段階をふんで説明します

 

①航空機による爆撃で、敵陣に切り込みを入れる

 

②爆撃で入れた切り込みに戦車を投入

 

③孤立した敵兵を戦車と歩兵で包囲して掃討

 

このプロセスを何度も繰り返し、

敵を掃討することで、

最終的に敵は恐怖のあまりに戦意を喪失してしまうのです。

 

これが電撃戦の恐ろしさです。

 

でもまあ最終的には、

敵国も電撃戦を真似するようになったので、

大戦の中期以降はドイツ軍も

敵から電撃戦をくらってしまうことになりますけどね。

 

 

1940.5月 イギリス チャーチル内閣が発足

対ドイツ宥和外交は失敗であった

「ドイツを甘やかしたからこうなった」

 

イギリス首相ネヴィル=チェンバレンが行っていた、

ドイツへの宥和政策を批判する声が響きます。

声の主は保守党の議員ウィンストン=チャーチルでした

 

ドイツとソ連を戦わせるために、

ドイツの国際法違反に目をつむってきたものの、

両国は一向に戦わないどころか、

独ソ不可侵条約を結んでしまい、

ドイツとソ連がぶつかる可能性はなくなりました。

 

強大化したドイツを止めるためには、

イギリスとフランスが直接手を下すしかないのです。

 

こうしたムードの中、

ネヴィル=チェンバレン首相は辞任し、

対独強硬派のチャーチルが首相に就任しました。

 

そしてイギリスはドイツへの徹底抗戦をしかけます。

 

1940.5月 ダンケルクの戦い

イギリスはフランス北西部に大軍を上陸させ、

フランス軍と連合して、

ドイツ軍を迎え撃とうとしました。

 

フランス北西部には

「マジノ線」と呼ばれるフランス軍の要塞群があり、

その南には「アルデンヌの森」という深い森林地帯が広がっています。

 

「ドイツ軍がやすやすと突破することはできないだろう」

 

 

 

 

という淡い希望はすぐに打ち砕かれました。

 

イギリス・フランス軍が

フランス北西部で合流したのも束の間、

イギリス・フランス連合軍はドイツ軍に包囲されてしまったのです。

まさかドイツ軍は、

マジノ線を突破してしまったのですか?

 

そんな簡単に攻略できる要塞ではありません。

ドイツ軍は別ルートでフランスに侵入したのです。

アルデンヌの森を抜けてね。

 

「大勢の軍がこの森を通るのは不可能だろう」

と予測されていたアルデンヌの森でしたが、

ドイツ軍はアルデンヌの森を超えてフランス領に侵入

 

そして水面下でイギリス・フランス連合軍に接近し、

両国の軍を包囲していたのです。

イギリスとフランスは絶体絶命ですね…

 

イギリスは考えました

「ドイツ軍に勝つのはあきらめよう」

「被害を最小限に食い止めよう」

 

フランス北西部の港町 ダンケルク

ここを脱出ポイントとして、

イギリス本土まで兵士を逃がそうと考えたのです。

 

イギリス・フランス軍は、

ダンケルク近辺の民間漁船を導入し、

脱出経路と脱出手段を確保

ダンケルクから次々に兵士を逃がしていきます。

 

しかし武器が重く、

武器を船に乗せると乗れる人員のキャパが減ってしまいます。

だから武器を海岸に捨てて、

人命を救うことを優先させたのです。

 

こうして英仏軍はドーヴァー海峡を渡り、

ダンケルクからの脱出に成功しました。

 

これがダンケルクの戦い(ダンケルク包囲戦)です

 

イギリス・フランス軍は武器を失いましたが、

多くの兵士が生き残り、

ドイツへのリベンジを誓いました。

 

対するドイツ軍は、

ほぼ無傷のまま敵を撤退に追い込み、

さらに英仏軍がおいていった武器を入手しました。

ドイツによる侵攻は加速するばかりです。

 

1940.5月 イタリア参戦

イタリアのムッソリーニは考えていました。

「少し様子を見て、勝ち馬に乗ろう」

 

大戦初期の段階で、勝ち馬はどちらか明らかでした

ムッソリーニはドイツ側で参戦し、

軍をヨーロッパ大陸・北アフリカ・バルカン半島に派遣しました

 

ムッソリーニの目的は「ローマ帝国の再興

かつてヨーロッパ・北アフリカ・バルカン半島・パレスチナまでの

広い地域にまたがった帝国

ローマ帝国の旧領を復活させるぞ!

と意気込んで国民を鼓舞しました。

 

1940.6月 パリ陥落(フランスが降伏)

ダンケルクの戦い以降、

ドイツ軍の進撃は止まりません。

 

フランス政府でも、

徹底抗戦派と講和派が対立するばかりで、

建設的な議論が進みませんでした。

 

その隙を縫うようにドイツ軍は電撃戦を展開

フランス領を爆速で侵攻し、

ついにパリを陥落させてしまったのです

 

パリ陥落後、フランス政府は降伏

そしてフランス国民は2つにわかれてしまいました。

 

①イギリスに逃亡し、ドイツ軍への徹底抗戦を続けた人々

②ドイツへの降伏を認め、フランス本土にとどまった人々

 

「ドイツを倒す。諦めない」

と考えていたのが、軍人ド=ゴールでした

ド=ゴールはイギリスに亡命し、

ロンドンに「自由フランス政府」を創立

ラジオでドイツ軍への徹底抗戦を呼びかけました。

 

一方でフランス本土は悲惨なことになりました。

フランス北部はドイツの占領下に置かれ、

フランス南部には「ヴィシー政府」という

ドイツの傀儡政権がつくられました

 

 

そしてヴィシー政府の主席はなんと、

第一次世界大戦で活躍したペタン将軍でした

 

彼はもうすでに老いており、80代なかばでした

もはやドイツ軍に抵抗する気力もなく、

ドイツに降ってしまったのでした。

あまりにもあっけない…

 

1940.7月 バトルオブブリテン(ドイツVSイギリス)

さて、ここまでのドイツの軌跡を振り返りましょう

 

ドイツはポーランド・デンマーク・ノルウェー

オランダ・ベルギー・フランスを落としました。

 

スペインは中立を表明しましたが、

スペインの政権はヒトラー支持派の政権です。

 

これを地図上で見てみましょう

 

ヨーロッパ大陸の北岸は、

ドイツ勢力で埋め尽くされています。

 

そしてイギリスは海上で孤立してしまったのです。

ヒトラーの狙いはこれでした。

 

このままイギリスを海上に閉じ込め、

物資の輸送を妨害すれば、

イギリスはじわじわと弱って滅びていくのです。

 

ヒトラーはさっそくイギリスに攻撃をしかけます。

空軍を向かわせ、主要都市に空爆したのです。

もちろん首都ロンドンも空爆の対象です。

 

ロンドンの市民は空爆を逃れるため、

地下鉄で避難生活を送りました。

 

イギリスがドイツの手に落ちるのも時間の問題です。

 

しかしイギリス国民はあきらめなかった。

 

イギリスのチャーチル首相は国民を鼓舞し、

民間人を空爆するドイツへの怒りを掻き立てました。

 

イギリス国民はそれに応え、

決心がついたようです。

「ドイツを倒す」

イギリス国民の心がひとつにまとまりました。

 

イギリスはドイツからの空爆を耐え抜きました

そんなイギリスに2つの朗報が届きます。

 

①ドイツ軍 燃料不足により撤退

②アメリカからの支援物資が届いた

これは朗報ですね!

歯車が動き始めます。

 

アメリカによる武器援助

アメリカの第二次世界大戦へのかかわり方について、

年表式にまとめます。

 

1935年 中立法の制定

ヨーロッパの武器輸出を禁止した

 

1939年 ヨーロッパへの武器輸出を解禁

 

1941年 武器貸与法の制定

→イギリスに武器をほぼ無償で供与

アメリカは少しずつ、

ヨーロッパでの戦争に対し

協力的になっていますね

そうですね。

アメリカはモンロー主義を貫き、

ヨーロッパの戦争には不干渉の立場をとる国です。

 

しかしアメリカは過去に第一次世界大戦には介入したのです。

結果として戦争には勝利しましたが、

多くのアメリカ兵が亡くなったことで、

参戦を決めたウィルソン大統領は支持率が低下

次の大統領選に敗れたのです。

 

こうした反省もあり、

基本的にアメリカはヨーロッパの戦線には関与しないようにしました。

 

だから1935年、

ヒトラーの台頭によってヨーロッパが荒れ始めた中、

中立法を制定して武器の輸出を禁じたのです

 

1939年に武器の輸出を解禁してるのはなぜですか?

これは景気対策です。

武器を輸出することで、

軍需産業に潤いをもたらして

不況から脱却しようとしました。

 

1941年にはイギリスに無償で武器を供与しました。

イギリスが敗戦してしまっては、

ヨーロッパがドイツによって統一されてしまいます

ヨーロッパを統一する強力な軍事国家が誕生する

これはアメリカにとっては脅威でした。

 

だからイギリスを応援して、

ドイツを妨害しようと考えたのです。

 

バルカン侵攻~独ソ戦(1940~43年)

ドイツは燃料となる石油が不足していたため、

イギリスへの侵攻を断念しました。

 

ドイツは合成石油を燃料としていたため、

燃料にはさすがに限りがあったのです。

 

そこでドイツはバルカン半島の産油国

ルーマニアを手中におさめ、

 

そのまま最短ルートでソ連に攻め入り、

カスピ海沿岸のバクー油田を奪う

 

これがヒトラーが描いた計画です。

ま、とある男に邪魔されてしまうのですが(笑)

気になりますね(笑)

1941年 ルーマニア・ブルガリアの懐柔

ヒトラーは産油国ルーマニアを枢軸国側に加盟させ、

石油資源を得ることに成功

 

そのままブルガリアも枢軸国側に加盟し、

バルカン半島北東部はドイツが獲得しました。

 

あとはユーゴスラヴィアを落とせば、

バルカン半島のほとんどをドイツ勢力で固めることができます。

 

そうすればソ連に侵攻する際に

背後からの攻撃を恐れずに済むようになります。

 

ユーゴスラヴィアの抵抗

ヒトラーはルーマニア・ブルガリア同様に、

ユーゴスラヴィアにも枢軸国側に降るように要請します。

 

しかしユーゴスラヴィア王国はこれを拒否したため、

ドイツはユーゴスラヴィアに攻勢を仕掛けました。

 

ユーゴスラヴィアの抵抗むなしく、

ドイツの手に落ちてしまいました。

 

しかしユーゴスラヴィアはあきらめなかった。

軍人ティトーを中心に、

武装した市民がドイツに対して抵抗を続けたのです。

これをパルチザン闘争といいます。

 

大戦後期にこの努力が実り、

ユーゴスラヴィアは他国の手を借りずに

自力でドイツ軍を振り払うことに成功することになります。

ユーゴスラヴィアの自力解放

 

ギリシア攻略

ドイツのバルカン攻勢と同時進行で、

イタリアが南からバルカン半島を突き上げていました。

 

イタリア軍はギリシアを攻撃していたのです。

ギリシアはかつて古代文明が栄えた地

ヨーロッパ史の始まりのような土地です。

ムッソリーニはそのギリシアを手中におさめたかったのでしょう。

 

しかし結果はイタリア軍の惨敗でした(笑)

ギリシア側にイギリスの援軍がかけつけ、

イタリアは大苦戦を強いられたのでした。

そしてイタリア軍はドイツに救援を求めました

 

ドイツ軍の到着後、

最終的にギリシアの制圧に成功しましたが、

イタリアの救援要請に耳を貸し、

ドイツ軍をバルカン半島最南端のギリシアに送ったことは

あまり得策ではありませんでした。

 

これによってソ連領への侵攻計画が

2カ月ほど遅れてしまったのです。

 

右往左往しましたが、

最終的にはドイツ軍が

バルカン半島全域を手中におさめることに成功しました

 

1941.4月 日ソ中立条約の締結

1941年 日本の外相 松岡洋右がソ連のスターリンを訪問

日ソ中立条約が結ばれました。

 

その名のとおり、

日本とソ連が相互不可侵を約束した条約です。

両国にとってのメリットは何ですか?

どちらも背後からの攻撃を防ぐためです。

 

日本にとって最大の敵はアメリカでした。

 

しかし日本がアメリカと戦って、

戦力を東側に集中させてしまうと、

西側・北側が手薄になります。

日本の北西にはソ連があります。

つまりアメリカと戦争中に、

背後のソ連からの侵攻を受けるのが怖かったのです。

 

一方でソ連は、

バルカン半島まで迫ってきているドイツを警戒していました

でも待ってください

ドイツとの間には独ソ不可侵条約が…

たしかにドイツとの間には独ソ不可侵条約があります。

ドイツとソ連はお互いに侵攻しないはずです。

 

しかし相手はヒトラー 条約をすぐに破る男です。

100%信用できるわけではありません。

(実際にヒトラーはソ連の侵攻を企てていました)

 

ドイツ軍は非常に強いです。

ドイツがもし攻めてくれば、

ソ連にとって大きな脅威となります。

 

ドイツとの戦いの際に、

背後から日本が攻めてくると、

ひとたまりもありません。

だから背後の日本との間に不可侵条約を結んだのです。

 

日本とソ連は

もともと仲が悪かったんですか?

はい。国境紛争をしばしば…

1939年のノモンハン事件がその一例ですね。

 

日本は満州から勢力圏を広げようとしていて、

モンゴル人民共和国(ソ連側の国)や

ソ連領シベリアへの侵攻を企てていました。

 

日本軍とソ連軍は満州とモンゴルの国境(満蒙国境)の

ノモンハンで激突し、

ソ連軍が日本を圧倒しました

これをノモンハン事件といいます。

 

このときから、

ソ連は日本からの侵攻を警戒していたのです。

 

さて話を戻します。

日ソ中立条約が成立し、

日本とソ連の相互不可侵が約束されました

 

この2カ月後、

ソ連の指導者スターリンに知らせが届きます。

 

「スターリン同志、ドイツ軍がソ連領に侵攻しました!」

 

1941.6月 独ソ戦の開戦

ついにドイツ軍がソ連領を侵攻し始めました

 

目標はソ連首都モスクワの攻略

そしてカスピ海沿岸のバクー油田の攻略です。

 

ソ連が持つ石油資源を手に入れれば、

あとはそのままイギリスを落として、

ドイツによるヨーロッパ統一が完成します。

 

やはりドイツはソ連を侵攻しました。

ソ連の指導者スターリンの読みは当たったのです。

 

1941.7月 英ソ相互援助条約

ドイツの侵攻は非常事態でした。

ソ連はすぐさま、

ドイツの背後の国 イギリスと連携しました。

これを英ソ相互援助条約といいます

 

イギリスとソ連は長らく警戒しあってきましたが、

この非常事態を受けてついに歩み寄りました

 

敵の敵は味方」と言わんばかりに

共通の敵であるドイツを倒すために、

英ソ両国は軍事同盟関係を結んだのです。

 

イギリスとソ連が手を結ぶことで、

ドイツ領を挟み込むことができます。

戦争はさらに加速します。

 

1942.8月 スターリングラードの戦い

ドイツ軍がソ連に侵攻したのも束の間、

冬がやってきたことによって戦局は硬直しました

 

イタリアがもう少し強くて、

ドイツのバルカン半島制圧がもう少し早ければ、

ドイツによるソ連への侵攻開始時期も早くなり、

1941年の間に決着がついていたかもしれません。

 

しかし結果としてソ連領への侵攻開始は遅れ、

ソ連は1941年を耐え抜きました。

ソ連は運がよかったのです。

 

冬の間にソ連はドイツへの迎撃準備を進めます。

 

そして次の年に入り、

ドイツが再びソ連に大攻勢をしかけました。

 

こうして起こったのがスターリングラードの戦いです

スターリングラードとは、

どんな土地なんですか?

スターリングラードは、

ソ連のバクー油田と

首都モスクワなどの主要都市をつなぐ中継地です

 

この地をおさえれば、

ソ連が油田地帯から運んでくる石油を入手できるし、

首都への石油の供給を止めることができるのです。

石油の出る水道の蛇口みたいな感じですね。

 

バクー油田は遠い場所にあるので、

そこまで軍を進めてしまうと多大な年月が必要です。

だからバクー油田より手前のスターリングラードを最低限おさえれば、

ソ連の首を絞めることができる

ドイツ軍の優秀な司令官たちは考えたのです。

 

しかしこの戦いでは、

ヒトラーの「戦術に対する無知」が原因で、

ドイツ軍が大敗してしまいます。

いったい何が…

ヒトラーはソ連領に侵攻したドイツ軍を、

均等に3分割してしまったのです。

 

第1の部隊をソ連首都モスクワへ

第2の部隊をバクー油田に

第3の部隊をスターリングラードに送ったのです。

 

軍部は反対しました。

「総統、お言葉ですが申し上げます。」

「軍を集中させて、最短時間で突破する方が上策です。」

 

軍が示した妥協点はこうです

スターリングラードを制圧して、

ソ連軍への石油の供給を止める

 

ソ連の首を絞めてからモスクワを攻略する

 

バクー油田は遠いのでいちいち軍を送らず、

ソ連の降伏後に勝手にドイツの手に落ちるのを待てばよい。

 

でもヒトラーはこの進言を無視しました。

「軍を3分割してモスクワ・スターリングラード・バクー油田を同時に攻略する」

 

ヒトラーの方が権力は上ですから、

ヒトラーの案が通ってしまったのです。

これが地獄の入り口になります。

 

戦いが始まるやいなや、

各地でドイツ軍が苦戦を強いられます。

 

軍の人数が3等分された結果

それぞれの戦地で「攻撃力不足」が原因で、

ドイツ軍の侵攻スピードは遅くなってしまったのです。

 

しかも補給も大変です。

それぞれの部隊にバラバラに補給物資を送らなくてはいけません

 

そしてヒトラーは言いました

「スターリングラードの軍が苦戦している」

「バクー油田に向かった軍の一部をスターリングラードに回せ!」

 

へ?

そうなるなら最初から

スターリングラードだけを攻めればいいのに…

間違いないです(笑)

 

 

軍は命令通りに動きましたが、

バクー油田に送った軍が減ってしまうので、

次はバクー油田の軍が苦戦してしまいます。

 

そこでヒトラーはこう言いました

「バクー油田に援軍を送れ!」

兵士は振り回されていますね

 

 

そうこうしているうちに、

目立った戦果を得られないままに時が進んでいきます。

 

そしてソ連軍の切り札が発動するのです。

「冬将軍」です

 

1942年の冬は歴史的な大寒波が到来

ソ連領はあたり一面雪と氷の大地になりました。

 

あまりの寒さで燃料が凍ってしまい、

ドイツ軍の戦車やトラックが動かなくなりました。

 

ドイツ軍は極寒の地での戦闘に慣れていませんから、

凍死する者も続出

ドイツ軍の士気はみるみるうちに下がりました。

 

一方でソ連側は、

元々寒冷地で訓練を受けているので、

戦車の燃料は凍りにくいものに合成されており、

兵士たちも寒さに慣れています。

 

戦車と兵士がバリバリに動ける状態で、

ドイツ軍を迎え撃ったのです。

 

そしてドイツ軍は冬のうちに各地の戦線で惨敗

多くの戦死者と凍死者を出しました

 

ドイツ軍の司令官たちは言いました。

「総統、兵士の人命が大切です」

「できるだけ多くの人員を残し、今後の戦いに備えましょう!」

 

 

しかしヒトラーは言いました。

「負けた兵士も将軍も役立たずだ」

「そこで死ぬまで戦え」

 

上層部のこの命令により、

多くのドイツ兵が戦場に取り残され、

散っていったのでした。

 

ドイツ軍がスターリングラードで大敗

そして多くの将兵を失った

しかも目当ての石油を得られなかった

 

これは取り返しのつかない失態です。

ここからは連合国が巻き返し、

ドイツ軍が追われる立場になります

形勢逆転ですね

 

連合国の反撃~終戦(1943~45年)

ドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北

そして戦局がくつがえりました。

 

1943年 ついに連合国側の反撃が始まります

1943.6月 ソ連 コミンテルンを解散

ソ連はドイツへの反撃に転じます

 

しかしドイツは強敵

ドイツを倒すためにはイギリス・アメリカとの協力が不可欠です

ソ連はイギリス・アメリカとの関係を深めるため、

米英との関係を改善するうえでの障害となる

コミンテルン」を解散しました。

 

復習がてらに解説します

コミンテルンとは?

ソ連が結成した、

世界各国の共産党員が集まる大集会。

世界各地の政府を革命で倒し、

世界各国の共産主義化をめざした。

 

イギリス・アメリカなどの資本主義諸国は、

共産主義の広まりを警戒してソ連を敵とみなしていた

 

ソ連はイギリスやアメリカから警戒されています。

その原因がコミンテルンの存在でした。

 

それを解散することによって、

ソ連はイギリス。アメリカからの信頼を得ようと考えたのです。

 

1943.9月 イタリア 無条件降伏

連合国の最初のターゲットになったのがイタリアでした

 

イタリア攻略までの軌跡を簡潔に記します。

 

1943.1月 カサブランカ会談

イギリスのチャーチル首相と、

アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領が会談し、

イタリアのシチリア島への上陸作戦を提案しました

 

1943.5月 北アフリカの制圧

イタリア上陸のための中継地として、

連合国は北アフリカを占領しました

 

北アフリカにはフランス植民地とイタリア植民地がありました。

イタリアは敵国ですし、

フランスはドイツに降伏してしまったので、

北アフリカのフランス植民地は、

実質ドイツの手に落ちていたのです。

 

連合国軍はこの地を制することで、

イタリア侵攻の足掛かりとしたのでした。

 

 

1943.7月 連合国軍がシチリアに上陸

 

1943.9月 イタリアでクーデタ発生

連戦連敗によって支持率が低下していたムッソリーニが失脚し、

軍部のバドリオが政権をにぎりました。

 

1943.9月 イタリアの無条件降伏

バドリオ政権はすぐさま無条件降伏を決定し、

そのまま連合国側に寝返りました

そしてなんとドイツ軍に宣戦布告したのです

 

すごい手のひら返しですね(笑)

 

ドイツ人が日本人と話すときに、

こんなジョークを放つようです。

「今度はイタリア抜きでやろうぜ」

 

「足手まといがいないから勝てるだろう」

という皮肉が込められています(笑)

 

1943.11月 テヘラン会談

イタリアの次はドイツだ

連合国がドイツの制圧に動き始めます。

 

ドイツを攻略する作戦について話し合うため、

アメリカ・イギリス・ソ連の間で首脳会談が開かれました。

これがテヘラン会談です

 

テヘラン会談とは?

ドイツ攻略作戦について米英ソの3国が会談

アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領

イギリスのチャーチル首相

ソ連のスターリンが会合した

 

北フランスから上陸し、

ドイツ本土を攻撃する「第二戦線」の形成が約束された

 

ソ連側からの攻勢を「第一戦線

北フランスからの攻勢を「第二戦線」とし、

ドイツを東西から挟み撃ちにしてしまおうという作戦です。

これとは別に、

南フランスからの上陸作戦

通称ドラグーン作戦も提案されました。

 

1944.6月 ノルマンディー上陸作戦とパリ解放

北フランスからの上陸作戦は

テヘラン会談の翌年の6月に実施されました。

 

北フランス ノルマンディー

広大なビーチが広がる場所です。

連合国軍 上陸作戦の司令官はアメリカのアイゼンハワー

のちの大統領になる人物です。

 

ドイツ軍は気づいていました

「近々、連合国軍が上陸してくる」

 

そしてドイツ軍は

ノルマンディを強固に守っていたのですが、

この日のドイツ軍は油断していたのです。

 

なぜ油断していたのですか?

 

 

この日は早朝から雨風が激しかったのです。

だからドイツ軍もこう思っていました

「こんな嵐の中、攻めてくるバカはいないだろう」

 

しかしその油断の隙をついて、

作戦は決行されたのでした。

 

完全に意表を突かれたドイツ軍は

あっという間に多くの陣地を奪われてしまいました。

 

ただひとつだけ、

オマハビーチというところでは、

戦闘経験豊富なドイツ兵が守備を固めており、

多くのアメリカ兵が戦死したようです。

これを「血のオマハ」と呼びます。

 

結果として史上最大の上陸作戦は成功

連合軍はドイツ軍への反撃に転じることになります。

 

そして同年8月には、

パリ解放作戦を開始しました

 

パリ解放は1週間で成功し、

歴史あるフランスの首都は輝きを取り戻しました。

 

そのまま連合軍はドイツ本土へと進みます

 

1945.2月 ヤルタ会談

連合軍は勝利を確信していました

 

そこで、大戦終了後のドイツの処遇を話し合うため、

クリミア半島のヤルタで首脳会談を開きました

そこで「ヤルタ協定」を締結したのです

 

※ドイツの処遇の内容については※

※戦後史で明らかになるのでここでは割愛※

 

ヤルタ会談とヤルタ協定

ドイツの戦後処理について米英ソの3国が会談

アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領

イギリスのチャーチル首相

ソ連のスターリンが会合した。

 

メインはドイツの戦後処理についてだったが、

この協定には秘密協定が存在し、

ソ連の対日参戦が決定された

 

え、ソ連は日ソ中立条約を結んでいましたよね?

日本との条約を破るのですか?

そういうことです。

日本との戦線を担当しているのはアメリカです。

ソ連の対日参戦はアメリカからの頼みでした

 

アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領は高齢

自分の天命が近いことは覚悟していました。

だから彼は生きているうちに、

アメリカが日本に勝利するシーンを見たかったのです。

 

そしてソ連・アメリカの両サイドから

日本を挟み撃ちにしてしまおうと考えたわけです。

 

ソ連にとってもこれは領土拡大のチャンスですから、

ソ連は条件つきで引き受けたのでした。

条件とは?

準備期間を設けることです

ドイツ降伏後、3カ月の準備時間を設け

ソ連兵を休ませてほしいということでした。

 

アメリカはこれを了承しました。

 

1945.5月 ドイツ軍 無条件降伏

ドイツは連合軍に対して徹底抗戦をしかけました

しかし連合軍はラインラントを突破して

ドイツの中枢まで侵入

 

最終的にはベルリンに迫り、

敗北を悟ったヒトラーは、

地下室で愛人とともに自殺しました。

 

ヒトラーは遺言を残していました。

「陸軍の指揮権をフェルディナント=シェルナーに託す」

「そして最後の一兵となるまで戦い抜け」と

 

自分は自殺しておいてなんて無責任な…

軍の指揮権を任されたフェルディナント=シェルナーは

民間人に化けて逃走

 

ドイツ軍はゲリラ的な抵抗をつづけましたが、

ドイツ首都ベルリンは陥落

ドイツは5月7日に無条件降伏しました

 

 

 

 

 

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