こんな人におすすめ
シベリア出兵について学んでいますが、
出兵の意図や経緯がよくわかりません。
だれか詳しく教えてください
この記事では
1918年から続いたシベリア出兵(対ソ干渉戦争)の
背景・参加国の思惑・最終結果などをわかりやすく解説します
シベリア出兵(対ソ干渉戦争)とは?(大まかに)
出兵の背景 / 参加国の目的・意図は?
ソヴィエト政府の抵抗
→皇帝一家の惨殺 / コミンテルンの創設 / 戦時共産主義の実施
最終的には皆、ソヴィエトを承認 なぜ?
読者の皆さんへのメッセージ
こんにちは。
元々高校の教員をしていました。てっちりです。
このサイトでは、
世界史を学ぶうえでの
「わからない。」「なぜ?」に
お答えできるよう、情報を掲載しています。
特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので
生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)
そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と
ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた
私の苦悩を無駄にしたくなかったので、
今回は記事としてしたためました!
シベリア出兵とは?(大まかに)
シベリア出兵(対ソ干渉戦争)は
1918年 イギリス・フランス・日本・アメリカが行った
ロシア革命への干渉戦争です
ロシア革命によって政権をとった
ソヴィエト政権の崩壊を狙い、
各国が出兵しました
結果としてシベリア出兵では
大きな効果を上げることができず
イギリス・フランス・アメリカは早期撤退し、
日本が1922年に撤退したことで幕を閉じました
その後は各国が「ソ連承認」を行い、
ロシア帝国の滅亡を受け入れ、
ソヴィエト政府を公認するようになりました
ここから先は詳しく解説します
出兵の背景 / 参加国の目的・意図は?
シベリア出兵は
「ロシア革命への干渉戦争」だと述べました
「ロシアで何があったの?」
「なんでわざわざ出兵したの?」
と気になる人に向けて、
詳しく書きました
【背景①】ロシア革命の飛び火を危険視
1917年 ロシア革命が発生
社会主義者レーニンはロシア皇帝一家を捕らえ、
ロシア皇帝を退位させました
こうしてロシア帝国は滅び、
レーニン率いるボリシェヴィキ(ロシア共産党)が政権を持つ
ソヴィエト政府が成立しました
レーニンが掲げる共産主義(マルクス主義)は
当時の列強国の政府から危険視されていた思想です
レーニンが革命を成功させたことに刺激を受け、
「自国のマルクス主義者も革命を起こしてしまうのではないか?」
という心配が生まれたため、
イギリス・フランス・アメリカ・日本はロシア革命に干渉しました
マルクス主義 なぜ危険?
そもそもマルクス主義が
危険視されたのはなぜ?
これまでの社会の在り方や、
現在の政府を暴力で転覆しようとする思想だったからです
★目的
平等な社会の実現
★手段
①地主や産業資本家(社長)から「暴力を用いて」
生産手段(工場・機械・土地・財産など)を奪う
②生産手段(工場・機械・土地・財産など)を国有化する
③工場でつくったものを売る
④得た利益を平等に分け合う
マルクス主義は、
多くの財産を抱え込む、
地主や産業資本家(社長)を敵視した思想です
「地主が地代をつり上げているから、地主が豊かで農民が貧しい状況なんだ」
「産業資本家(社長)が給与を出し渋り、会社の利益を独占しているから、
社長は金持ちで労働者(社員)は貧しいんだ」
という前提で生まれた思想です
そこでマルクスは言いました
「地主や産業資本家を暴力で倒せ」
「暴力で身ぐるみをはがせ」
「奴らが持つ財産を平等に分け合え」
「利益はみなで平等に分け合おう」とね
地主や産業資本家など、
財産を持っている側からすると、
ただのテロリストみたいな思想です(笑)
地主や産業資本家が
マルクス主義を嫌がるのはわかりました
でも、英・仏・米・日などの政府が
マルクス主義を嫌うのはなぜ?
当時の世界各国の政治家は、
地主や産業資本家の家系の出身者が多かったからです
地主や産業資本家の家系は
資金に恵まれているので、
選挙活動を大胆にできるし、
宣伝力も抜群です。
政治家としての教養を積むためにも
学費が必要ですが、
金持ちの家系であれば問題なく出費できます
そういった背景から、
政界には地主や産業資本家の家系の政治家が多くいたのです
じゃあロシア革命の刺激を受けて、
日本国内のマルクス主義者が暴れ始めたら、
日本の政治家たちの財産はどうなりますか?
マルクス主義者たちから
力ずくで没収されてしまいますね
そのシナリオを恐れて、
周辺諸国の政治家たちは、
ロシア革命が自国に飛び火することを防ごうとしたのです
だからロシア革命を全力で失敗させようとします。
【背景②】ソヴィエト政府 外債を踏み倒す
レーニンの立ち上げたソヴィエト政府は、
他にもやらかしています
ロシア帝国時代の外債(外国への借金)を
踏み倒したのです
特に怒ったのがフランスです
フランスは1891年に露仏同盟を締結
ロシアの同盟国として、
ロシアの工業化のための資金を融資していたのです
しかし、フランスが融資していたロシア政府は
ロシア革命によって崩壊し、
新たにソヴィエト政府が立ち上がりました
そしてソヴィエト政府は言いました
「お金を借りた覚えはない」
そりゃキレますわ(笑)
シベリア出兵には
「踏み倒した借金を払いなさい!さもなくば!」
という脅しの意味も込められているのです
以上をふまえた、シベリア出兵の最終目的
シベリア出兵の目的を
段階的に説明するとこうなります
①ソヴィエト政権の打倒
②エカテリンブルクに捕らわれたロシア皇帝一家の救出
③ロシア皇帝を復位させ、ロシア帝国を復活させる
④ロシア帝国に貸したお金をちゃんと払わせる(笑)
こんな感じですね(笑)
日本にとっては少々別の目的もあります、
日本は朝鮮や遼東半島を足がかりに、
アジアにおける領土拡大を狙っていました
日本はロシア革命の混乱に乗じて、
満州やシベリアの地をロシアから奪うことも
視野に入れていたのです
だから日本だけ、
長期にわたってシベリアに滞在したのです
日本のこの動きは諸外国に批判され、
結局日本は鉄平するんですけどね。
シベリア出兵の経緯
ソヴィエト政府 ロシア皇帝一家を惨殺
シベリア出兵をしている国々は、
ソヴィエト政府の打倒とロシア帝国の復活を狙っています。
「ロシア帝国を復活させられるのはマズい」
と考えたソヴィエト政府は、
エカテリンブルクに収監している皇帝一家のもとへ行き、
皇帝一家の殺害を命令しました
元ロシア皇帝ニコライ2世
その妻、息子、幼い娘たちは無残にも殺されてしまいました
捕らわれていた部屋には大きな傷が残っており、
事態の凄惨さを物語っています
こうしてロシア帝国の復活の可能性はなくなりました
ソヴィエト政府 モスクワへ遷都
レーニンはサンクトぺテルブルクから
モスクワに首都を移しました
目的は首都を海から遠ざけることです
旧都サンクトペテルブルクは、
海沿いの都市でした
海沿いとなると、
イギリスやフランスの海軍が
海から簡単に侵入できてしまいます
そこで軍の輸送が難しい内陸の地に、
首都をうつすことにしたのです。
選ばれたのは第二の都モスクワでした
モスクワなら、
海側からのアクセスが難しいので
政権をできるだけ長く生き残らせるためにはうってつけの場所でした
コミンテルンの創立
レーニンはソヴィエト政府を守るため、
世界各国の共産主義者をモスクワに集結させました
こうして開かれた、
共産主義者の国際会議が
第3インターナショナルです
別名をコミンテルンといいます
コミンテルンとは
Communist International(共産主義者の国際集会)の略です
このタイミングで
世界中の共産主義者を集めたのはなぜ?
世界中の共産主義者に革命を起こさせ、
イギリス・フランス・アメリカ・日本を内部崩壊させるためです
確かに、
英仏米日の革命家たちが革命を起こせば、
シベリア出兵どころじゃなくなってしまいますね!
レーニンはコミンテルンを開くことで、
革命のノウハウを共有しました
そして
「行ってこい。各国の政府を倒せ。」
といって送り出したのでした。
そんなすぐに効果は表れませんでしたけどね。
ソヴィエト政府 戦時共産主義を実施(失敗)
レーニンはシベリア防衛のため、
ソヴィエト赤軍兵士を派遣しました
兵士たちに十分な食料を届けるため、
農村から「穀物強制徴発」を行い、
戦場の兵士たちに優先的に届けました
そして兵士たちに食料を届けたあと、
残った分を国民に均等に分け与えました
これを戦時共産主義といいます
しかしこれは失敗に終わります
農民たちの意欲が下がったからです
いくらがんばって穀物を育てても、
ほとんどが兵士のために政府から没収されてしまいます
これでは農民たちのやる気を維持できませんでした
結果として農業生産力がガタ落ちしてしまい、
飢餓を招いてしまいました
戦時共産主義は失敗に終わったのです
シベリアからの撤退
シベリア出兵は大きな成果を生まず、
極寒の環境が兵士の健康をむしばむばかりでした
イギリス・フランス・アメリカは早期に撤退しました
日本軍はシベリアへの領土拡大を目的に、
最後までシベリアに残りましたが、
日本の領土拡大野心を批判され、
1922年に撤退しました
ソヴィエト承認へ
結局みんなソヴィエトを承認 なぜ?
1922年 ドイツがソ連を承認
1924年 イギリス・フランスがソ連を承認
1925年 日本がソ連を承認
1933年 アメリカがソ連を承認
という形で、
1922年以降にソ連政府を承認する動きが進みました
承認とは、
ロシア帝国の滅亡を正式に認め、
ソヴィエト政府をロシアの正式な政府だと認めることです
ソ連を承認する動きが
次々に進みましたね
なぜですか?
詳しく説明しますね。
ソ連承認のカギは「ネップ(新経済政策)」
ソ連承認が行われた理由は、
ソ連が儲けのタネだったからです
当時のソ連(ソヴィエト政府)は、
1921年3月 ネップ(新経済政策)を始めました
ネップによってソ連経済は潤い、
ソ連には資金をたくわえた富裕層が現れました
それらの人々に、
商品を輸出することができれば儲けものです
各国がソ連を承認したのは、
ソ連への輸出を図り、貿易の利益を得ようとしたからでした
ネップを詳しく説明します
★目的
戦時共産主義で壊滅した経済を復興させること
★手段
余剰生産物の自由販売を認めることで、
農民・労働者の意欲向上を図った
★影響
事業に成功し、
富裕な農民(クラーク)や富裕な実業家(ネップマン)が現れるように
→富裕層への輸出利益を期待し、各国はソ連を承認した
ネップは戦時共産主義による
失敗を埋め合わせるために行われました
戦時共産主義を実施していたころ(1918~21)は、
シベリアを防衛する兵士たちに物資を届けるため、
穀物強制徴発が行われていました
いくらモノをつくっても、
政府や軍に没収されてしまうため、
農民や労働者の働く意欲が低下していたのです。
その反省を経てネップでは
「たくさん作って余った分は、誰かに売ってもいいよ」
「自由に金儲けしていいよ」
と言って放任したのでした
「がんばればがんばるほど儲かる!」
といって、農民や労働者の意欲は上がったのです
こうしてビジネスに成功した人の中に、
資金をためこんだ富裕層が現れました
いわゆるセレブですね
セレブって外国の高級バッグとか財布とか香水とか
いろいろ持ってるでしょ?
そういったソ連のセレブ向けに、
モノを輸出したら儲かるんじゃないか?
という考えが生まれ、
世界各国がソ連を輸出市場として見始めたのです
その流れで、ソ連承認が進んでいきました
ソ連と国交を持っておかないと、
貿易すらできませんからね。
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