インドの独立運動とガンディーの夢 世界史教師がわかりやすく解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

てっちりをフォローする

こんな人におすすめ

この記事から得られること

・インドの独立運動 前提知識

・インド独立までの流れ

・ガンディーの活動概要

 

具体的にこんな人におすすめです

現代史を学んでいます

 

インドの独立運動について学習しているのですが、

学校での指導や独学では限界があるので、

インド独立までの流れや

ポイントなどについて詳しく知りたいです

とお考えの学生・社会人の方

 

記事の信ぴょう性

てっちりのプロフィール

もと高校世界史教諭

誰でも世界史を楽しく、

わかりやすく学べるように、

現在はネットで歴史系コンテンツを配信しています。

 

教室で数人に向けて授業をするよりも、

ネットの方がはるかに多くの人に情報を発信でき、

役に立つことができると思い、この道を選びました

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

てっちりとともに、学習をがんばりましょう!

 

インドの独立運動 前提知識

この記事でいう「インド」とは?

この記事でいう「インド」とは、

現在のインドの領土だけでなく、

インド・パキスタン・スリランカ・バングラデシュ・ミャンマー

5国にまたがる地域を指します

 

これらの地域は旧イギリス植民地で、

イギリス領インド帝国と呼ばれました

 

これらの地域で独立運動が起こり、

最終的にイギリスからの独立を勝ち取るまでの流れを

解説していこうと思います。

 

ヒンドゥー教徒が多数 ムスリムが少数

インドの独立運動について述べる前に、

インドの宗教に関して知っておきましょう。

 

ポイントは1つだけ。

インドではヒンドゥー教が多数派・ムスリムが少数派

ムスリム=イスラーム教徒のこと

 

インドは多くの宗教が混在していました。

古代につくられたバラモン教と、

その他の民間宗教が融合し、

ヒンドゥー教が形成されました

 

それ以降は、

ヒンドゥー教がインドのメジャーな宗教となります。

 

11世紀になると、

インド北部にイスラーム勢力が流入しました

インドで初めてのイスラーム王朝をガズナ朝といい、

インド亜大陸の北部にイスラームを広めました。

 

現在でいうバングラデシュ・パキスタンなどは、

このときにイスラームが伝わった地域です。

 

今回の記事ではあまり登場しませんが、

他にもインド生まれの仏教があります。

ちょうどスリランカミャンマーの人々が仏教を信仰していました。

 

インド独立の父 ガンディーは、

「宗教に関係なく、ひとつのインドとして独立しよう」

と願っていましたが、

その願いはかなわず。

 

ヒンドゥー教徒はインド

ムスリムはパキスタン・バングラデシュ

仏教徒はスリランカ・ビルマ

 

という別々の国として、

イギリスから独立することになっていきました。

 

国民会議派と全インド=ムスリム連盟

インドの独立運動に登場する、

2つの勢力を知っておきましょう

 

国民会議派全インド=ムスリム連盟です

国民会議派と全インド=ムスリム連盟

国民会議派

1885年 インドのヒンドゥー教徒国民会議派を設立

1886年 反英主義者バネルジー全インド国民協議会が合流

反英闘争を繰り広げるようになった

本拠地はボンベイに構える

 

全インド=ムスリム連盟

1906年 インド域内のムスリムが結成した組織

→イギリスから優遇され、イギリスに従順だった

 

ヒンドゥー教徒が

イギリスに抵抗したのは納得できます

 

でもムスリムがイギリスに従順だったのはなぜ?

これはイギリスがよく使った「分割統治」という手法です

次の章で詳しく解説します。

 

イギリスの「分割統治」

イギリスはインドを円滑に統治するため、

分割統治」を行いました

 

分割統治ってなんですか?

分割統治とは?

国内を多数派と少数派に分け、

一方には高圧的に接し、

一方は優遇する手法のこと。

 

イギリスの場合は

インドの多数派 ヒンドゥー教徒を強く取り締まり

少数派のムスリムは優遇しました。

 

どんな効果が得られるんですか?

ヒンドゥー教徒はイギリスに敵意をむき出しにする一方、

ムスリムはイギリスに従順に従うようになりました。

 

イギリスにとって一番怖いのは、

インド人全員が団結することです

 

インドは人口が多いので、

全員が力を合わせて抵抗すれば、

イギリスを困らせることができます。

 

ですがイギリスは絶妙なバランス感覚で、

インド人全員の団結を防ぎました。

 

ヒンドゥー教徒を敵に回すのは仕方なしとして、

イギリスはムスリムを優遇したことによって、

ムスリムを味方に引き込みました

 

ヒンドゥー教徒は、

優遇されているムスリムのことを嫌います。

「あいつらはイギリスの犬か」

っていう感情を抱いてね。

 

これによって、

インド人全員が団結して、

イギリスに反抗するというシナリオを防いだのです。

めちゃくちゃ腹黒いですね…

 

こればかりはイギリスのお家芸ですね。

南アフリカでも同じようなことをしていましたから。

 

イギリス統治下の南アフリカでは、

南アフリカのオランダ系白人(アフリカーナー)が優遇され、

黒人は差別されていました

 

オランダ系白人(アフリカーナー)を味方に

黒人を敵に回すことで、

アフリカーナーと黒人を分断したのです。

 

南アフリカでは、

イギリスの支配から逃れたあとも、

オランダ系白人(アフリカーナー)と黒人の分断が続きました。

そしてアフリカーナーは黒人を差別し、

アパルトヘイト(人種隔離政策)が実施されてしまうのです

 

イギリスの支配を受けていた地域では、

こうした悲劇が繰り返されています。

 

インド独立の父 ガンディの人物像

さて、インドの独立運動で重要な役割を果たす、

ガンディについて解説します

 

ガンディはヒンドゥ教徒で、

国民会議派に籍を置いていました

 

ただ、国民会議派のメンバーとは

少し違った思想を持っていました。

 

イギリスからの独立を願うのは同じですが、

「宗教に関係なく、我々はみなインド人だ」

「ヒンドゥー・ムスリム関係なく、ひとつのインドとして独立したい」

という「インド人」意識を、ガンディは持っていたのでした

 

ガンディがイギリスからの独立を願ったきっかけは、

イギリス領南アフリカでの労働経験でした

 

ガンディはロンドンへの留学経験があり、

弁護士になりました。

 

当時のイギリスは南アフリカへの

インド人の出稼ぎを奨励しており、

ガンディーもその流れにのって南アフリカに移り住みました

 

ガンディーはイギリス領南アフリカで弁護士事務所を開業し、

弁護士として活躍しました。

 

先ほども述べましたが、

南アフリカでは白人と黒人が差別されており、

列車に乗る際も、

白人と黒人の乗る車両は別々でした。

 

白人は客席に座ることができ、

黒人はイスのない貨物車両に乗ることになっていました。

 

黒人は「モノ」扱いされていた

ということですか。

ひどい…

さてガンディーも列車に乗ったのですが、

車掌はガンディーを貨物車両に案内しました。

 

イギリスはインド人をモノとして扱い、

ガンディーは差別される側として扱われたのでした。

ひどい歴史です。

イギリスからの独立は必至ですね。

ガンディーは南アフリカで仕事をしながら、

人種差別の撤廃運動に参加

 

そしてインドに帰国後、

ガンディーはインドの独立運動を行うようになりました

過去の苦い経験が、

人を突き動かすのですね。

 

インドの独立運動 前編

1905年 ベンガル分割令

ベンガル分割令とは?

1905年 イギリスのインド総督カーゾンが制定した法令

インドの独立運動の高まりを抑えるため、

ベンガル地方ヒンドゥー教徒とムスリムの居住地域を分断した

 

ベンガル分割令は、

イギリスの「分割統治」の象徴ともいえる政策です

 

現在のバングラデシュにあたるベンガルで、

ヒンドゥー教徒とムスリムの地域を分断し、

ヒンドゥーをきつく取り締まり、

ムスリムを優遇しました。

 

こうしてヒンドゥとムスリムを分断することで、

インド人全員が団結することを防ごうとしたのです。

 

【ポイント】1905年はアジアの民族運動のピーク

イギリスが1905年にベンガル分割令を出し、

インドの独立運動を抑え込もうとしました

 

この1905年という年号には、

歴史的に大きな意味があります。

 

1905年は日本が日露戦争に勝利した年です

 

「アジア人国家が欧米列強に勝利した」

この知らせはアジア全域をかけめぐり、

アジアの諸民族を勇気づけました

 

インドでも日本の勝利に刺激を受け、

「インド人が団結して、列強(イギリス)の支配に打ち勝とう」

という動きが生まれていったのです。

 

こうした背景の中、

イギリスはインド人の団結を防ぐため

1905年にベンガル分割令を出したのでした

 

1906年 スワラージ(独立)とスワデーシ(国産品愛用)

1906年 国民会議派(ヒンドゥー教徒)はカルカッタで集会を開催

当時の国民会議派の議長ティラクは、

イギリスへの独立運動を呼びかけ、

四大綱領」を発表しました

 

ティラクの四大綱領

★四大綱領とは?

→イギリスから独立を達成するための、具体的な作戦のこと

スワデーシ・スワラージ・英貨排斥・民族教育の4つを指す

 

スワデーシ(国産品愛用)

イギリス製品を買わないようにして、イギリスの収益を減らそう

→イギリス製品ではなく、インドの国産品を愛用しよう!

 

スワラージ(自治・独立)

→イギリスからの自治権を得て、将来的には完全に独立しよう

 

英貨排斥

→イギリス貨幣(ポンド)を市場から締め出そう

 

民族教育

→イギリス国立の学校ではなく、インド人がインド人のための教育を施そう

 

あまり血を流さずに、

イギリスからの独立を達成するには、

イギリス製品を買わないようにして、

イギリスの収入源を絶つことが一番効果的です。

 

そしてイギリス貨幣をインドから締め出し、

インドをイギリスの経済圏から脱出させると、

イギリス経済を麻痺させることができるのです。

 

四大綱領は、

当時の社会をよく理解したうえで示された

ごもっともな内容でした。

 

④の民族教育は少し興味深いです。

インドの子どもたちは、

イギリスが建てた学校に通っていました。

 

そこでは基本的な教育を受けることができるのですが、

イギリスへの反乱を防ぐために、

洗脳教育も行われます。

 

「白人は黒人やアジア人よりも耐久力が高い」

「爆弾や砲弾ぐらいでは死なない」

という教育(洗脳)が行われるのです。

 

こうして支配民族を委縮させて、

反乱を防ぐという手法がとられていたのです。

 

これは欧米列強が植民地の反乱を防ぐために

行われた常套手段でした。

 

イギリスの洗脳教育から子どもたちを解放し、

インド人によるインド人のための教育を実現すると、

インドの子どもたちには、

イギリスに対抗するための原動力が生まれるのです。

 

1906年 全インド=ムスリム連盟の結成

イギリスは国民会議派に対抗するため、

インドのムスリムに呼びかけ、

全インド=ムスリム連盟を築かせました

 

イギリスは国民会議派を厳しく取り締まる一方、

全インド=ムスリム連盟は意図的に優遇しました

 

こうすることで、

ヒンドゥー教徒とムスリムを分断し、

両者が同時にイギリスに歯向かうのを防ごうとしました。

 

まさしくイギリスの「分割統治」の典型でした。

 

1914年 第一次世界大戦と「戦後の自治」の約束

1914年 第一次世界大戦がはじまりました。

イギリスは三国協商の一員として参戦

植民地インドの人々にも出兵を命じました。

インドの人からすると、

イギリスのために戦う義理はないですよね。

 

間違いなくそうなります。

しかしイギリスは甘い誘いを用意して、

インド兵の出兵を実現させました。

 

戦後の自治の約束」です

「イギリスのために戦ってくれたら、終戦後に独立させてあげよう」

という甘い蜜でインドの人々を誘ったのです。

 

この誘いに乗り、

インド兵が第一次世界大戦に参戦。

インド兵は主に、オスマン帝国との戦いに駆り出されました。

 

ここでひどい話をします。

イギリスは「戦後自治の約束」を守るつもりがありませんでした。

 

第一次世界大戦後、ひと悶着起こります。

 

1916年 ジンナーのヒラーファト運動

ヒラーファト運動(カリフ権擁護運動)とは?

第一次世界大戦中、

全インド=ムスリム連盟議長 ジンナーが開始した

オスマン帝国のカリフを擁護する運動のこと

 

以下で詳しく説明します。

 

第一次世界大戦中、

イギリスに優遇されていた全インド=ムスリム連盟の内部で、

イギリスの支配について疑問がわき始めます。

 

多くのインド人ムスリム兵が戦争に駆り出され、

オスマン帝国との戦線に送られる中、

ムスリムにある疑問が生まれたのです

 

「俺たちはなぜ、同じムスリム(オスマン帝国)と戦っているんだ?」

という疑問です。

たしかに…

何のために戦っているのか

わからなくなりますね。

そうなんです。

オスマン帝国とインド人ムスリム兵を

戦わせているのはイギリスです。

 

こうしてイギリスへの懐疑心が生まれていきました。

 

そこで、

全インド=ムスリム連盟の議長 ジンナー

「この戦いは宗教をめぐる争いではない」

「我々が戦うことに意義はない」

「オスマン帝国がイギリスに敗れたとしても、

オスマン皇帝が持つカリフの権威は守ってさし上げよう

と言いました。

これをヒラーファト運動(カリフ権擁護運動)といいます

 

※補足:カリフとは?

カリフとはイスラーム教スンナ派における、

イスラーム共同体の最高指導者のことを指します

 

カリフ権はオスマン帝国の皇帝(スルタン)が握っており

オスマン帝国ではスルタン=カリフ制がとられていました。

 

つまりオスマン帝国のスルタン(皇帝)は、

オスマン帝国の政治における権限と、

イスラーム共同体の長としての権限を兼ね備えていたのです。

 

この動きをガンディーが支援します

あれ、ガンディーって

ムスリムじゃないですよね?

ガンディーはムスリムではないですが、

「宗教に関係なく、我々はみなインド人だ」

という意識を持っていました。

 

ヒンドゥー教徒とムスリムが手を取り合い、

ともにイギリスから独立する未来を描いていたので、

ガンディーはヒンドゥー教徒でありながら、

ムスリムの運動を支援したのです。

 

1919年 ローラット法の制定とアムリットサール事件

1919年 第一次世界大戦が集結しました

インドの人々は思います

 

「戦争が終われば、インドは自由な国になれるはず」

「イギリスは我々に約束したんだ」

 

しかしイギリスは約束を守りませんでした

インドが独立することはかないませんでした。

ひどい…

インドの人々は怒り、

各地で反イギリスを掲げて暴動を始めました。

 

イギリスはインドの暴動を取り締まるため、

1919年 ローラット法を制定しました

 

ローラット法とは?

インド人に対する令状なしでの逮捕

裁判なしでの投獄を認めた法律

 

約束を破ったのはイギリスなのに、

 

逆らえば有無を言わさず逮捕

ということですか…

 

もはやイギリスに正義はありませんね…

そうです。

もちろんインド人は怒りました。

 

パンジャーブ地方のアムリットサール市で集会が行われ、

1万人以上の人々が集まりました。

「我々はイギリスの支配に反対する!」

という抗議集会だったのですが、

この場所で悲劇が起こります。

 

イギリスの警察隊と、

イギリスが雇ったグルカ兵(ネパール人傭兵)が

抗議集会の参加者に発砲してしまったのです。

 

これが1919年 アムリットサール事件です

 

イギリスの警察隊は弾薬が尽きるまで撃ち続け、

1000人以上の死傷者がでました…

ひどすぎる…

こうしてインドの人々の抵抗は、

力づくでおさえられてしまったのでした。

 

 

インドの独立運動 後編

サティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動

ガンディーは思いました

「暴力ではイギリスにはかなわない」

「暴力以外の方法でイギリスに勝つべきだ」

 

ガンディーはインドの人々に、

サティヤーグラハ(真理の堅持)を説きました。

 

サティヤーグラハ(真理の堅持)を簡単に説明すると…

イギリスからどんな圧力をかけられても、

「真理」を守り続けよ

という意味です。

抽象的すぎてよくわかりませんね…

「真理」というのは、

インド人が暴力をふるってしまうと、

暴力でインド人を支配するイギリスと同類になってしまうから、

暴力に訴えないようにしよう

という信念のことを指します。

 

暴力をふるう相手に暴力で返しても、

その上から暴力が返ってくるだけです。

 

戦い(暴力)は死を生み、

死は悲しみを生みます。

 

悲しみは次の戦い(暴力)を生み、

次の死を生み、

次の悲しみを生みます

 

この連鎖が繰り返されることで、

世の中にある戦いは泥沼化し、

終わらない戦いになっていきます。

 

ガンディーは徹底した非暴力を説きました。

かといってイギリスに丸腰でいるのではなく、

イギリスへの抵抗を続け、

不服従を貫け」と説いたのです

 

でも、現実ではない気がします

暴力以外で独立を勝ち取る方法なんてあるんですか?

厳密にいうとあります。

 

イギリス製品をボイコットして、

イギリスの経済を破壊することです。

 

当時のイギリスは第一次世界大戦で疲弊し、

多数の死者を出したうえに、

莫大な軍事費を投入したため、

借金まみれになりました。

 

そんなイギリスに対して、

イギリス製品の不買運動を行い、

追い打ちをかけるのです。

 

ほかにもイギリス政府への納税を

ボイコットするなどの方法もとられました

 

そうすれば暴力に訴えず、

イギリスを困らせることができます。

 

「こうした小さな抵抗が実を結ぶ」

とガンディーは信じたのです。

 

イギリスの譲歩 憲政改革調整委員会(サイモン委員会)

ガンディーの抵抗運動によって、

イギリスは頭を抱えました。

 

イギリスはインドに譲歩し、

自由党の政治家サイモンをインドに派遣

 

インドの自治・独立問題について

調査・議論する場として

憲政改革調整委員会(通称:サイモン委員会を設けました

 

しかしサイモン委員会は、

「インド人のことを考えてやってる感」

を出すためだけのカモフラージュで、

建設的な議論は行われませんでした。

 

しかも委員会のメンバーは全員イギリス人で、

インド人の意見を聞くつもりは毛頭ありませんでした。

無意味ですやん

 

そうなんです

インドの人々はこれを見透かし、

「サイモン帰れ」運動を行ったそうです。

 

1929年 国民会議派 プールナ=スワラージ(完全独立)を公約

1929年 国民会議派ラホールで大会を開きました

当時の議長はネルー

イギリスからの独立を強く主張した人物でした

 

ネルーは「プールナ=スワラージ(完全独立)」をめざそう

と呼びかけました

 

戦後自治の約束は破られ、

2年前のサイモン委員会では、

イギリス人のみしか参加できず、

イギリスがインド人と対話する気がないのは明白でした。

 

その怒りをこめて、

「イギリスを信用するな」

「インド人の力で完全独立をめざせ」

と主張したのでした。

 

ガンディの塩の行進(第2次非暴力・不服従運動)

そのころガンディーは、

個人でイギリスへの抵抗運動を続けていました。

 

ガンディーは近隣の市民に呼びかけ、

イギリスが課している「塩税」の不払い運動を始めました

 

当時の時代背景を説明します。

インドのイギリス政庁が塩を専売しており、

インド人は塩の生産と販売を行うことができませんでした。

 

イギリス政庁が売る塩は高く、

莫大な塩税が課せられます。

こちらもイギリスの収入源だったのでした。

 

そこでガンディーは、

インドの人々に呼びかけます。

「海に向かって歩き、海水をくみ、自分で塩を生産しよう」

「そうすれば、イギリスから塩を買う必要はなくなる」

 

こうしてガンディーは多くの市民を巻き込み、

海へ向かって行進したのです

 

これを「塩の行進」(第二次非暴力・不服従運動)といいます

 

1930年 英印円卓会議

英印円卓会議とは?

イギリスがインドの民族主義者を集め、

インドの自治・独立について意見を求めた会議

1930年と1931年の2回 ロンドンで開かれた

 

★第1回 英印円卓会議

→国民会議派もガンディーも参加せず

不可触民代表のアンベードカルが、不可触民の権利を主張した

 

★第2回 英印円卓会議

→ガンディが参加するも、目立った成果なし

 

詳しく説明します

 

イギリスの本音はこうでした

「これ以上インドに抵抗されるとマズイ…」

 

というのも、

1929年 アメリカのウォール街から始まった

世界恐慌のあおりを受け、

イギリスでも長期的不況に突入

イギリスは「不景気」という問題にも

立ち向かわなければならなかったのです。

 

ちょうど同じタイミングで、

インド人によるイギリス製品の不買運動が起こっています。

このままではイギリス経済はどうしようもありません…。

 

イギリスはインドの民族主義者たちをロンドンに招集し、

インドの自治・独立に関する意見を求めました。

これが英印円卓会議です

 

会議は2回開かれました

結論から言うと2回ともグダグダでした

 

★第1回英印円卓会議

国民会議派は対話に応じず、不参加でした

ガンディーも塩の行進の最中で、不参加でした

 

イギリスはこれまで戦後の自治の約束を破っていたため、

対話するだけ無駄だと判断したのでしょう。

 

主だった成果は一つだけです。

不可触民の意見を代表した人物

アンベードカルが不可触民の議会参加を訴えたことです。

 

不可触民とは、

ヒンドゥー教のカースト制度において、

最下層の身分とされている人々でした。

 

不可触民はひどい差別を受けており、

他のカーストの人々からは

「触ったら汚れる」とさえも言われていました。

 

不可触民に関して有名なエピソードがあります。

道端で人が倒れており、

救急車がかけつけました。

そこに倒れていたのは不可触民の男性でした。

救急隊員はそれを理解し、

見捨てて病院に帰りました。

 

救急隊員は不可触民に触れたくなかったのです。

日本では考えられない…

 

こうした差別からの解放を訴え、

アンベードカルは不可触民の権利を求めて、

イギリスに直談判したのでした。

 

★第2回英印円卓会議

イギリスは

インド国内で影響力の強い、

ガンディーに参加を求めました

 

ガンディーはこれに応じ、

2度目の会議が開かれました。

しかし大した成果はなく、会議は終わってしまったのでした。

 

1935年 新インド統治法の制定

1935年、イギリスはインドに対して大幅に譲歩しました

新インド統治法が制定されたのです。

 

内容を簡潔に記します。

新インド統治法 内容

①インドの各州に自治権を認める

→州議会による自治を認め、議員は各州の住民投票によって決定

②ただし、州の財政・軍事は州議会が担当できず、イギリスが管理する

 

★弊害

州選挙では多数派を占めるヒンドゥー教徒が有利

→ムスリムの議員の当選数は少なく、多くの州でヒンドゥー優位となった

ムスリムはヒンドゥー教徒との分離独立を望むように

 

イギリスはインドに対し、

州単位での大幅な自治を認めました。

インド人が州議会の代表を選挙し、

インド人による議会が開かれる。

まさしく「自治」が実現したのです。

 

しかし財政や軍事などの重要な権限については、

イギリスが握っていたので、

完全なる自治を獲得できたわけではありませんでした。

 

他にも問題が発生しました。

インド国内ではムスリムが少数派です。

 

州議会の議員は住民投票によって決めます。

となると多数派を占めるヒンドゥー教徒の方が有利で、

州議会ではヒンドゥー教徒の議員が多く当選したのです

 

少数派のムスリムは議会で権限をふるえず、

政権はヒンドゥー教徒に乗っ取られていったのです。

 

こうしてインド内部で、

ヒンドゥー教徒とムスリムの分断が進んでいきました

 

そしてムスリムは

ヒンドゥー教徒との分離独立を主張するようになりました。

 

ガンディーが願う

「宗教に関係なく、ひとつのインドとして独立する」

という夢は遠ざかる一方でした。

 

イギリスはインド人を団結させないため、

こうなることを予測したうえで、

インドに自治を認めたんでしょうね。

 

1940年代 チャンドラボースの抵抗

1939年 第二次世界大戦がはじまりました

1941年になるとアジア戦線(太平洋戦争)が開幕

日本はABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)

との戦いに乗り出しました

 

日本軍はイギリス領ビルマまで攻め入り、

イギリス領インドへの侵攻計画を立てていました

 

その日本と協力し、

インドをイギリスの支配から解放しようとしたのが、

チャンドラボースでした。

 

しかし日本によるインド侵攻は、

無謀な作戦によって失敗(インパール作戦)

チャンドラボースの願いは届きませんでした。

 

1947年 インド独立法の制定

第二次世界大戦終結後、

イギリスはついにインドの独立を認めました

理由はあとで説明しますね。

 

当時のイギリスは

労働党のアトリー政権でした

アトリー政権はインド独立法を制定し、

インドの独立について定めました

 

インド独立法

①インドはイギリス連邦内の自治領とするが…

1950年に完全に独立することを認める

②独立後の国家については、宗教による分離独立とする

ヒンドゥー教徒はインド

ムスリムはパキスタン

仏教徒はビルマ・スリランカに分けて独立

 

という形になったのでした。

 

旧インド植民地の独立の過程についてまとめます

インドの独立

インド(ヒンドゥー教徒)

1950年に独立

初代首相には国民会議派ネルーが就任

 

★パキスタン(ムスリム)

1956年に独立

初代総督にジンナーが就任

 

★ビルマ・スリランカ(仏教徒)

→1948年に独立

 

このような形になりました。

 

このタイミングでインドが独立できたのはなぜ?

イギリスにとってインドは

「金の成る木」のはず

 

大戦後に手放したのはなぜですか?

もはやイギリスに、

海外領土を保有する金銭的余裕がなかったからです。

 

イギリスは第二次世界大戦で多額の軍事費を投入した上に

 

ドイツ軍によって首都ロンドンが空爆され

イギリス国内の銀行や工場が焼き払われました

 

働く場所がなくなってしまうので、

イギリス国内では失業者があふれました。

他にも都市の復興にお金が必要でした。

 

イギリスのアトリー政権は労働党の政権です

国家予算を労働者に投下しました。

 

アトリー政権は社会福祉を充実させ、

失業者の保護にお金が使われます。

 

アトリーが築き上げた

社会保障諸法のスローガンは

ゆりかごから墓場まで

有名な言葉です。

 

生まれて(ゆりかご)から

死ぬ(墓場)まで国が手厚く保護してくれる

福祉国家を目指したのです。

 

しかしよく考えてみてください

イギリス政府にお金はありますか?

ありませんね。

労働者の保護にあてる財源はいったい

アトリーは、

かつてイギリスが植民地統治に充てていた財源を

社会福祉にまわしました

なるほど!

こうした理由から、

イギリスは植民地を手放し、

植民地の総督などの職員を引き上げたのでした。

 

ガンディーの暗殺

ガンディーは分離独立ではなく、

「ひとつのインド」としての独立を願っていました。

 

しかしイギリスが提示した独立の条件は、

宗教によって別々の国として独立させる

分離独立」という形でした

 

ガンディーは抗議活動を続けます。

 

1948年のある日でした。

ガンディーの前に一人の青年が現れます

青年はガンディーに向けて3発の銃弾を撃ち込みました

 

青年の正体は熱烈なヒンドゥー至上主義者でした

「ほかの宗教と一緒の国で暮らすなんてゴメンだ」

という気持ちがあったのでしょう

 

ガンディーは銃弾に倒れ、この世を去りました

最後の言葉は「ああ、神よ」でした

 

 

こうしてインドの独立運動は

 

独立というグッドニュースが流れる一方で

ガンディーの死という悲劇も生まれ、

嬉しいのか悲しいのかわからないまま幕を閉じました

 

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました