ドイツ統一 ドイツ帝国の成立【総集編】 流れとポイントをわかりやすく解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 ドイツ統一

こんな人におすすめ

ドイツの統一について学んでいるんですが

難しくてよくわかりません。

誰かわかりやすく教えてください。

とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方

 

対象語句

ドイツ統一の背景 ~ドイツ統一はなぜ必要か?~

1817年 ブルシェンシャフトの乱の鎮圧

→メッテルニヒのカールスバート決議

 

1834年 ドイツ関税同盟(ドイツの経済的統一)

 

1848年 フランクフルト国民議会

→オーストリアは統一ドイツから除外 なぜ?

→ドイツ統一は挫折 なぜ?

 

プロイセン首相ビスマルクと国王ヴィルヘルム1世

ビスマルクの鉄血演説

 

1864年 デンマーク戦争

1866年 普墺(プロイセン=オーストリア)戦争

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の結成

→ハンガリーに自治権を付与 オーストリア=ハンガリー帝国の成立

 

1870年 普仏戦争

1871年 ドイツ帝国の完成

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

ドイツ統一

この章でいう「ドイツ統一」の定義

ドイツ語スピーカーが政権を持つ国々を、ひとくくりにドイツと呼びます

 

ドイツ語スピーカーが政権を持つ国とは、

オーストリア・プロイセン・バイエルンなどに代表される、

ドイツ人の小国たち(領邦)のことを指します

 

最終結果として、

オーストリアは統一ドイツから除外され

プロイセンを中心として、ドイツ統一が完成

1871年ドイツ帝国が成立しました

 

ドイツ統一の背景 ~ドイツ統一の必要性~

まずはポイントから

ドイツ統一 背景

19世紀初め ナポレオンに手痛い敗北を喫した

ドイツ人が団結しなければ、近代国家との戦争に勝てないことが判明

→ベルリン大学総長フィヒテは連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を実施

→聴衆にドイツ統一の必要性を説いた

 

詳しく説明します

ナポレオン戦争のときにさかのぼります。

ナポレオンは徴兵された国民軍を率いて、ヨーロッパ諸国を攻撃しました

ドイツ諸侯が連合した神聖ローマ帝国軍はアウステルリッツの戦いに大敗

神聖ローマ帝国は解体され、

ドイツ諸侯はナポレオンを盟主とするライン同盟に組み入れられました

 

最後まで抵抗をつづけたプロイセンも、イエナの戦いに大敗

こうした外敵からの脅威が、ドイツ人の意識を変えました

「ドイツ人が団結しなければ、ナポレオンのような猛者には勝てない」

ドイツ国民はドイツの統一を望むようになりました。

 

ブルシェンシャフトの乱の鎮圧

ブルシェンシャフトの乱 ポイント

イエナ大学の学生団体ブルシェンシャフトが政治集会を実施し、授業を妨害

→「自由と統一」をスローガンに、ドイツの統一を訴えた

→他の大学でも同様の運動が多発し、授業が成立しなくなる(笑)

 

★結果

オーストリア外相メッテルニヒの主催で、ドイツ連邦全体の会議を実施

カールスバート決議を下し、ドイツ全土の大学の学生運動の鎮圧を命じた

 

ブルシェンシャフトの乱が始まったイエナ大学は

プロイセン軍がナポレオンに大敗した、あのイエナにあります

学生たちはナポレオンに負けた屈辱がありますから、

ドイツの統一運動に必死だったのです。

この学生運動は鎮圧されてしまい、ドイツの統一は成りませんでした。

 

ここから先、ドイツは少しずつ段階的に統一されていくのです。

 

1834年 ドイツ関税同盟の成立

まずはポイントから

ドイツ関税同盟 ポイント

★目的

ドイツ経済を発展させるため、ドイツの経済的統一を図った

ドイツ産業革命の障壁を取り払うことで、

プロイセン領ラインラントを中心に、産業革命を実現することが目的

 

★ポイント

経済学者リストの提唱で結成された、ドイツの経済共同体

②イギリスなどの安価な外国製品に関税をかけ、

ドイツの工業製品の保護保護貿易)を約束

③他の領邦を通過したときに発生する域内関税(通行料)を廃止

④中心となったのはプロイセンで、オーストリアは不参加だった

 

ドイツ産業革命の障壁って

具体的に何ですか?

大まかに2つあります

安価な外国製品の流入によって、ドイツ製品が売れなくなること

②ドイツ経済の発展を邪魔していた域内関税(通行料)です

詳しく説明します。

 

経済学者リストの考え 「保護貿易」主義

ドイツの経済学者リストは、

「ドイツ経済の発展には保護貿易が必要だ」と述べました

 

保護貿易とは?

安価な外国製品に関税をかけて、外国製品の流入をブロック。

自国内の製品を保護する貿易のことです。

関税をかけてブロックするターゲットはイギリス製品でした。

 

なぜイギリス製品が怖かったのですか?

イギリスは産業革命を実現していて、モノの製造効率がいいです

だから安く製品をつくることができます。

 

一方でドイツの工業力は低く、イギリスほど安い製品はつくれません。

 

仮にドイツにイギリスの安価な製品が輸入されて

同じ店でイギリス製品とドイツ製品が並んでいたら、どっちを買いますか?

 

みんな安い方(イギリス製品)を買いますね

そうなると、ドイツの工場の経営者はどう思いますか?

どうせイギリス製品ばっかり売れるから

俺は儲からないな

工場をたたむか

 

ってなりますね

そういうことです。

イギリス製品との競争に負けて儲からないから、

工場を経営するメリットがないのです。

 

まずドイツで産業革命を実現するためには、

経営者たちに「ドイツで工場を始めたいな」と思ってもらわないといけません

 

そんな経営者たちに利益をもたらすためには、

外国から入ってくる安価な製品が邪魔でした

だから外国製品に高額な関税をかけて、

ドイツ市場に入ってくるのを防ぐ必要があったのです

 

リストが提唱した保護貿易主義とは、こういうことです。

 

域内関税の廃止

域内関税とは?

他の領邦(ドイツ人の小国)を通る際に発生する通行料のこと

ドイツには大小合わせて数百の領邦があり、

ひとつひとつの領邦に通行料を払わなければならなかった。

 

え、製品を運ぶときの交通費がやばくなりますよね?

そういうことです(笑)

材料や製品を運搬する際に、

他の領邦の土地を通過する必要があるときもあります

いちいちその国々にお金を払ってたら

コストもすごいし、なんせめんどくさい

 

こうした理由で、ドイツ経済を不便にしていたものを廃止したのです。

 

【質問】なぜプロイセンが中心となったのですか?

プロイセンは、上の項目で述べた「域内関税」に悩まされていたからです。

 

まず前提ですが、プロイセンはウィーン議定書で「ラインラント」を得ました

ラインラントは鉱山資源が豊富なので、プロイセン工業の中心になりました

 

しかし、ラインラントはプロイセン本土から離れた飛び地

ラインラントからプロイセン本土に荷物を運ぶためには、

他の領邦を通過するので、通行料を払う必要があります

プロイセンからすると正直言ってめんどくさい

 

こうした不便を解消するため、プロイセンはまず

北ドイツの領邦とプロイセン関税同盟を結び

加盟国をドイツ全土に拡大し、ドイツ関税同盟が成立しました

 

オーストリアにはメンツがありますから、

プロイセン主導の関税同盟には不参加となりました

 

 

1848年 フランクフルト国民議会

1848年 フランクフルト国民議会 ポイント

★背景

フランス二月革命に刺激を受け、ドイツの自由化とドイツ統一への機運が高まった

→ドイツの自由主義者はフランクフルトで集会を開き、今後のドイツの在り方を協議した

 

★経緯

オーストリアを中心としてドイツ統一を図る大ドイツ主義派と

プロイセンを中心としてドイツ統一を図る小ドイツ主義派が対立

 

★結果

小ドイツ主義が採用され、プロイセン王にドイツ帝冠を準備

→しかしプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は戴冠を拒否した

 

いろいろと突っ込みどころ満載ですね!

詳しくお願いします

 

大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立

フランクフルト国民議会にはドイツ全土から政治学者や法学者たちがあつまり

ドイツ統一について議論しました。

学者たちがとくに対立したのが、どの国をドイツの中心とするか?

という問題です

 

白羽の矢が立ったのは2国

ドイツ連邦の盟主でもあるオーストリア

経済発展がめざましく、ドイツ第二位のプロイセン

 

「オーストリアが安パイだろ!」という大ドイツ主義者と

「オーストリアは危険だ!プロイセンの方がいい!」という小ドイツ主義者に分かれました

 

多数決の結果、プロイセン王が統一ドイツの皇帝にふさわしいとの結論に至りました

つまり小ドイツ主義の勝利です

 

フランクフルトに集まった学者たちは、すぐにドイツ皇帝の冠を用意します

そしてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世を戴冠式に招待しました

 

しかし、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はこう言いました

「豚の帝冠などいらぬわ!」

なんとプロイセン王自ら、ドイツ皇帝としての戴冠を拒否してしまうのでした

 

ややこしすぎワロタ

 

2つ質問があります

 

【質問】オーストリアが除外され、プロイセンが支持されたのはなぜ?

オーストリアが除外され、

プロイセンが人気だったのはなぜですか?

オーストリアが多民族国家だからです

そして、1848年のオーストリアは支配下の民族の独立運動に悩まされていたからです

 

オーストリア関連の独立運動をまとめるとこうなります

オーストリアからの独立運動

1820年 カルボナリの乱を鎮圧(@イタリア)

→異民族からの支配に反発したイタリア人が秘密結社カルボナリを結成

→ナポリのブルボン家打倒と、北イタリアからのオーストリア軍追放を図った

 

1848年 ハンガリーの独立運動を鎮圧

→ハンガリーの自由主義者コシュートが一方的に独立を宣言

→コシュートは「ハンガリー共和国」の樹立を宣言したが、オーストリアが粉砕

 

1848年 ベーメン(チェック人)の独立運動

→ベーメン(現チェコ)の自由主義者パラツキーが民族運動を指導

→オーストリアに対等な関係を求めて交渉

→青年がオーストリア軍に危害を加えたことを口実に、パラツキー派を粉砕した

 

1849年 カルロ=アルベルトの蜂起を鎮圧(@イタリア)

→イタリアの小国 サルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトが蜂起

→北イタリアからのオーストリア軍追放をめざして戦うも、オーストリアは鎮圧

 

 

各地で独立運動が多発していますね

 

オーストリア大変ですね…

 

 

オーストリアをドイツに含めてしまうと、

オーストリアが支配する民族もくっついてきます

その民族が反乱を起こすたびに、みんなで処理しないといけません

これって大変じゃないですか?

 

ということで、オーストリアをドイツのメンバーとするのはリスクがあるとみなされたのでした。

 

【質問】プロイセン王が戴冠を拒否したのはなぜ?

プロイセン王にとってはドイツ統一のチャンスだったはずです

なぜドイツ皇帝としての戴冠を拒否したのですか?

ここがいちばん謎ですよね。わかります。

プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の心の声はこうです

「私がドイツの皇帝であるということを、すべてのドイツ人に認めさせなければいけない」

フランクフルト国民議会では、誰からドイツ皇帝として認められたんでしたっけ?

 

ドイツ全土から集まった、自由主義派の学者ですね

そうですね。

ドイツ人の階級を大まかに区分すると…

①各領邦の王族

②貴族

③市民階級

となります。

今回は、このうち一番下の市民階級の代表格から、

「プロイセン王はドイツ皇帝にふさわしい!」

と褒められたのですが、

 

これではドイツ皇帝を名乗るのには不十分です

他のドイツ諸国の王族や貴族にも、

プロイセンの威光を認めさせなければいけない

 

ということですね!

ざっとそんなところです。

下々の民からの冠を受け取っても、他の領邦の君主たちが認めなければ

彼らが反抗してプロイセンについてこなくなります。

それでは本当の意味でのドイツ統一は成功しないと考えたのです。

 

プロイセン首相ビスマルクと国王ヴィルヘルム1世

1848年のフランクフルト国民議会では、

ドイツの統一は達成されませんでした。

国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世も崩御し、

国王はヴィルヘルム1世に代わります。

ドイツ統一も内政もうまくいかず、

プロイセン王国は暗いムードに包まれていました

 

そんな状況を打ち破るため、

型破りな凄腕外交官が首相の地位に成り上りました

名をオットー=フォン=ビスマルク

プロイセンの地主貴族(ユンカー)の家系の人物です

 

天才的な頭脳と、リスクをいとわない行動力の持ち主でした

ドイツ統一にはこの男の存在が不可欠だったのです

 

ビスマルクの鉄血演説

ある日の議会演説で、ビスマルクはこう言いました

鉄血演説

プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。

言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。

この問題は鉄と血によってこそ解決されるのであります。

 

遠まわしな言い方になっているので、わかりやすく解説します

ビスマルクが言いたいことはこうです

ビスマルクのドイツ統一プラン

①ドイツ統一のために、プロイセンの軍事力(鉄と血)を強化する

②ドイツの覇者 オーストリアに勝利し、

他のドイツ諸侯にプロイセンの覇権を認めさせる

外敵の脅威を煽り、ドイツ人を団結させる

こうした具体的なステップを踏みながら、

プロイセンを中心としたドイツ統一を成し遂げようとしました。

まずスタート地点に立つためには、軍事力の強化が必要なんだと

ビスマルクは述べたのでした。

 

デンマーク戦争

デンマーク戦争 ポイント

★背景

シュレスヴィヒ・ホルシュタインの2地域の領有権をめぐり、デンマークと対立

→この地にはドイツ系住民が多いことから、プロイセンは領有権を主張した

 

★経緯

プロイセンはオーストリアを巻き込み、共同出兵を実施

 

★結果

プロイセン・オーストリア軍が勝利

デンマークはプロイセンにシュレスヴィヒを、

オーストリアにホルシュタインを割譲した

 

急にデンマークと戦争したんですね。

ビスマルクの思惑が知りたいです。

デンマークと戦争した意図は3つです

 

①外敵をつくり、ドイツ人の団結を深めるため

オーストリア軍の偵察のため

③のちにオーストリアと戦争する口実を作るため

 

まず、デンマークという外敵をつくります

敵を目の前にしたとき、人間は不思議と団結します

おそらく宇宙人が地球に大侵攻してきたら、

地球上の国々は仲良くなるでしょう(笑)

 

ビスマルクはまず、

「ドイツ人が多く住んでいるんだから、ここはドイツ人の土地だよな?」

と吹っ掛け、ドイツ人からの共感を生んだのです。

 

この戦争にはわざとオーストリアを味方に誘いました。

オーストリアを味方サイドにつけていると、

オーストリア軍の指揮系統や使用武器、

作戦の特徴や癖などを間近に見ることができます。

こうして情報を摂取しておけば、

のちにオーストリアと戦争するときに便利です

オーストリアとは、ドイツの覇権をかけた戦争をしようと見越していましたからね。

 

ちなみにビスマルクは、

オーストリア軍の司令官が吸ってるタバコの銘柄まで報告させたようです(笑)

もはやストーカーの域ですね(笑)

 

 

そして3つ目の目的ですが、

のちにオーストリアと戦争するための口実をつくるためです。

こちらは次の項目 「普墺戦争」で述べます

 

普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)

普墺戦争 ポイント

★背景

プロイセンがホルシュタインの領有権を主張し、オーストリアが反発

 

★結果

ビスマルクはイタリアと同盟を結び、オーストリア軍を南北に分断

結果として、ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍が大勝した

 

当初はシュレスヴィヒをプロイセン領に

ホルシュタインをオーストリア領に

 

という約束でしたが、ビスマルクはのちのちこう言いました

「ホルシュタインってプロイセン領だよね?」

あの、約束が違うじゃないですか(笑)

はい、暴論を振りかざすことができるのがビスマルクの強みです(笑)

 

もちろんオーストリアは激怒して、ビスマルクに話します

「ホルシュタインはオーストリア領と約束したはずだ!」

 

しかし、ビスマルクはこう言います

「私がそんなことを言ったと?記憶にございませんな。」

言葉が出ませんね(笑)

もちろんオーストリアはブチギレて、

 

プロイセンに戦争を挑むのでした。

プロイセン イタリアと同盟

プロイセンはしょせん新興国で、

オーストリアのような古株に正面からぶつかっても勝てません。

勝つためには策略が必要です

 

そこでビスマルクは外交力を駆使して、イタリアに同盟話を持ちかけました

なぜイタリアなのですか?

イタリアと同盟した理由

①イタリアとプロイセンにとって、オーストリアは共通の敵だから

②イタリアと同盟を結ぶと、オーストリアを南北から挟撃できるから

→オーストリアは軍を南北に分けないといけないので、戦いにくくなる

 

 

なるほど、挟み撃ちとは頭がいいですね

 

イタリアはオーストリアとどんな関係だったんですか?

イタリアではサルデーニャ王国がイタリアの小国家を統一

1861年にイタリア王国が成立しました

 

1815年のウィーン議定書の取り決めによって、

北イタリアのヴェネツィア・ロンバルディアなどがオーストリア領となっており、

ロンバルディアはイタリアの手に取り戻すことができたのですが…

ヴェネツィア・チロル・トリエステなどはオーストリアに占拠されていました。

これらの地を取り戻すため、イタリアはオーストリアとの戦いを続けていたんです。

「ここはイタリア人が住む土地。イタリアに返せ」ってね

 

そんなときに、プロイセン首相ビスマルクからの一声がかかりました。

「南北からオーストリアを挟み、ともにオーストリアを倒そう」

「オーストリアに勝てば、イタリア人の固有の地を取り戻せるはずだ」

 

この同盟交渉をイタリアは承認

プロイセンとともに武器をとったのでした

本当はビスマルクはもっと多くの裏工作をしているのですが、

受験という範囲にとどめてこのくらいにしておきます。

 

プロイセン軍の勝利

準備は整った

オーストリア軍とプロイセン軍が激突します。

戦場はケーニヒグレーツ

プロイセン軍のすごいところは、物資の運搬がスムーズだったこと

 

プロイセンは最新の鉄道網を駆使し、

武器や食料の運搬が全軍に行き届いていたのです。

 

対するオーストリアは皇帝の考えが古く、

鉄道網が整備されていませんでした。

「汽車の音で馬がビックリしちゃうじゃん」

という理由で、鉄道をひかなかったそうです(笑)

 

オーストリアはイタリアとプロイセンと同時に交戦して

軍を南北に展開しているので、武器や食料の運搬は必須だったのですが

鉄道網が不十分なため、うまくいきません。

 

結果としてプロイセン軍が圧勝しました。

オーストリアは降伏し、プロイセンに有利な条件を認めざるを得ませんでした。

 

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立

プロイセンがオーストリアと戦争した目的は

「ドイツの覇者を倒し、ドイツの覇権を得ること」です

 

オーストリアと以下の約束をして、

プロイセンはドイツの覇権を握りました

普墺戦争後のオーストリア・プロイセン

①オーストリアは統一ドイツへの不参加を約束する

②オーストリアが盟主をつとめるドイツ連邦を解体する

→ドイツの小国(領邦)はプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦に編入する

 

バイエルンなどの南ドイツ諸国は、プロイセンの覇権を認めず

北ドイツ連邦には不参加であった

 

ドイツには無数の小国がありましたが、

オーストリアを盟主として「ドイツ連邦」という国家グループをつくっていました

 

プロイセンはドイツ連邦の盟主の座からオーストリアを引きずり下ろし

プロイセンを盟主としたのです。

 

このときに、ドイツ連邦から「北ドイツ連邦」という名にかわりました

みんなちゃんとプロイセンに従ってくれるのですか?

大半は従ってくれました。

というのも、

もともとドイツ連邦ではオーストリアが強大な権限を持ち、

オーストリアが横暴を働いていたのです。

もちろんそれに不満を持つ国々もありました。

 

そんなオーストリアをギャフンと言わせたプロイセンはヒーローです

たちまちプロイセンに支持が集まりました

 

ただし、キリスト教の宗派の違いもあって

バイエルン王国などの南ドイツの領邦は、プロイセンに従いませんでした。

プロイセンはプロテスタント中心

バイエルンやオーストリアなどはカトリックが中心でした。

バイエルンなどの南ドイツ諸国も含めたドイツ統一は、まだまだ難航します。

 

普墺戦争後のオーストリア オーストリア=ハンガリー帝国とは?

スポットライトをオーストリアに当てます

オーストリア=ハンガリー帝国とは?

普墺戦争に敗戦後のオーストリアが、国号を改称して成立した

 

★概要

①オーストリアはハンガリーに自治権を与える

②ただし、ハンガリーに完全な自由を認めるわけではなく

オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任することとする

③国名をオーストリア=ハンガリー(二重)帝国とする

 

これまではハンガリーの独立や自治を認めなかったのに

今回は大盤振る舞いですね!

普墺戦争に敗戦後、オーストリアの国力は衰退していましたから

支配下のハンガリーに対して高圧的な態度をとることができなくなったのです。

 

普墺戦争に莫大な軍事費を投入し、財政赤字に陥り

プロイセンに敗北したことから、オーストリア国王の権威はガタ落ちですからね

 

その隙にハンガリーに独立運動でも起こされると

たまったものじゃないです

 

そこでオーストリア政府はハンガリーと争うのではなく、

ハンガリー人にエサを与えておとなしくさせようと考えたのです。

結果としてオーストリアは、支配下のハンガリーに自治権を認めるという選択をしたのです

 

ただし、なめられては困ります

ハンガリーはハンガリー人の国王を抱くことはできず、

オーストリア皇帝を自動的にハンガリー国王としました。

 

普仏戦争

普仏戦争 ポイント

★背景

スペイン王位継承権問題でフランスとプロイセンが対立

フランスとの交渉の過程で、プロイセンはエムス電報事件でフランスを挑発

→激怒したフランスがプロイセンに先制攻撃をして、戦争が始まる

 

★結果

スダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、フランスは敗北

フランクフルト講和条約でフランスはプロイセンに莫大な賠償金を支払い

→加えてフランスはアルザス・ロレーヌをプロイセンに割譲した

 

 

【質問】なぜフランスと戦争をする必要があるのか?

主に理由は2つあります。

フランスと戦争する理由

フランスはドイツ統一を嫌がり、妨害工作をしてくるだろうから

大国フランスの脅威をあおれば、ドイツ人に団結を促せるから

 

フランスがドイツ統一を邪魔したがるのはなぜですか?

フランスはドイツがバラバラの方が安心だからです。

フランスからすると、隣の国がバラバラで弱い方が、国境警備が楽です

でもプロイセンがドイツを統一してしまうと、

隣に「ドイツ人オールスターズ(仮)」という巨大な勢力が現れてしまう

強大な国が隣にいると、もちろん国境警備は大変です

だからフランスはドイツの統一を未然に防ぎ、統一を邪魔しようとしました。

そんなフランスを黙らせない限りは、ドイツ統一は成功しません

フランスとの戦争は不可欠だったのです。

 

それにフランスという強大な敵が攻めてきたら、

ドイツ人は団結します。

「ナポレオンのときみたいに、今度は負けないぞ」

「我らドイツ人の力を合わせて、フランスを倒すぞ!」

ってね

 

フランスに負ければえらい目にあわされます。

フランスとの戦争にはリスクがありますが、

同時にドイツ人の心をまとめるチャンスでもあったのです。

 

スペイン王位継承問題

フランスとプロイセンの対立の火種はスペイン王位継承問題です

スペイン王位継承権問題

スペイン=ブルボン朝が革命によって打倒された

→スペイン新政府は内政安定のために立憲君主制を敷こうとし、新国王を探していた

→ビスマルクはプロイセン王家ホーエンツォレルン家の血縁者をスペイン国王に推薦

→フランスがこれに反発し、プロイセンと対立した

 

いろんな国が出てきて難しいですね

詳しくお願いします

スペインではブルボン家の女王イザベル2世の治世でした

イザベル2世は政治と外交の両方でやらかしてしまい、国民からの人気はゼロでした

そんなイザベル2世に対してスペイン国民が反乱を起こし、イザベル2世は亡命したのです

 

スペインは国王不在の状態になり、新政府が立ち上がりましたが、

新政府の中で権力争いが起こり、政権基盤は全く安定しませんでした。

そこでスペインの新政府は

中立の立場をもつ国王をトップに据え、

泥沼の争いをおさめるリーダーを擁立しようと考えたのです

 

プロイセン首相ビルマルクはこの好機を逃しませんでした。

ビスマルクはスペイン新政府の役員を金で買収し、

プロイセン王家のレオポルトをスペイン国王に推薦したのです

買収されたスペイン新政府もこれを飲みました

しかし、フランスが抗議したのです

 

プロイセン王家がスペイン王位を継ぐ

 

フランスはなぜ嫌がるのですか?

地図で位置関係を見ていきましょう

スペインが親プロイセン派の国になってしまうと、

フランスはスペイン領とプロイセン領に挟み撃ちにされてしまいます。

フランスにとって具合が悪いことになってしまうのです。

 

スペイン王位継承問題はまだまだこじれます。

 

エムス電報事件

エムス電報事件

フランスの外交官とプロイセン国王ヴィルヘルム1世の交渉において、

フランスの外交官が無礼を働いたという偽の報道を、ビスマルクらが流した

→メンツをつぶされたフランス皇帝ナポレオン3世が激怒し

フランスはプロイセンに宣戦布告した

 

詳しく説明します

プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、

「エムス」という田舎の温泉街で静養をしていました

 

そこにフランスの外交官が訪れ、ヴィルヘルム1世に交渉しました

「国王陛下、スペイン王位継承を撤回していただけませんか?」

「我が国の皇帝、ナポレオン3世がお怒りです」

 

あまりにもしつこく交渉を持ちかけられたので、

ヴィルヘルム1世はさすがに面倒だと思ってこう言いました

「わかったわかった。」

「口約束だけれども、スペイン王位継承は撤回する。だから帰りたまえ。」

 

「いい成果を得られた」と思い、フランスの外交官は帰国しました

 

ヴィルヘルム1世はこの事実を、ビスマルクら政府首脳に電報で伝えました

 

ビスマルクや軍の参謀総長モルトケは思います

「マジか、国王陛下なにやってんだよー…!」

 

しかしここでビスマルクがひらめきます

「これはチャンスではないか?」

 

ビスマルクは国王からの電報の内容を改ざんして、

報道機関に提供したのです(笑)

 

◇改ざん前

フランス大使がプロイセン国王ヴィルヘルム1世閣下の元を訪れた

「スペイン王位継承を撤回してください」と迫るフランス大使に対し

 

ヴィルヘルム1世閣下は

「わかった。スペイン王位継承を撤回する。だから帰れ。」と伝えた

 

◇改ざん後

フランス大使がプロイセン国王ヴィルヘルム1世閣下の元を訪れた

「スペイン王位継承を撤回せよ」と迫る無礼なフランス大使に対し

 

ヴィルヘルム1世閣下は「帰れ。」と伝えた

 

フランス大使が無礼を働いたことが協調されてますね(笑)

ビスマルクはこのニュースを電報で報道機関に伝え、

プロイセン国民に新聞がばらまかれました

他のドイツ領邦にも新聞を通じて伝わり、

 

ドイツ人たちの間で

「フランス大使は無礼だ!けじめをつけさせろ!」

「ヴィルヘルム閣下、素晴らしい対応です!」

という世論があふれました

 

フランスのナポレオン3世は、

「うちの外交官が言っていることと話しが違うぞ」

「悪質な情報操作でフランスをおとしめるとは許さん!」

として、プロイセンに宣戦布告したのでした

 

この戦争では、

「フランスがプロイセンに先制攻撃した」という事実を覚えておきましょう

 

フランスとプロイセンが戦うということは

両国の間にあるバイエルンなどの南ドイツ諸国も

戦争に巻き込まれていきます。

 

南ドイツ諸国はフランス軍に我が領土を通させまいとして反抗

プロイセンと結び、フランスに応戦しました。

フランスに先制攻撃させて、

フランスの脅威をあおったら

 

ドイツ人の結束が深まるというわけですね!

 

普仏戦争の戦況~スダンの戦い

国力はフランスの方が圧倒的に上でしたが、

戦争はプロイセン有利に進みました

 

プロイセン軍が有利だった理由は2つあります

電信機を軍に導入していたため、軍の動きがスムーズだった

→対するフランス軍は、伝書鳩で連絡を取り合っていたから

 

②フランスは世界中に植民地を展開しており

→軍を世界各地に分散していたから

 

フランス軍が緒戦で敗戦を重ねる中、

フランス皇帝ナポレオン3世は自ら軍を率いてプロイセン軍と対峙します

 

プロイセン軍とフランス軍はスダンでぶつかります。(スダンの戦い

 

プロイセン軍は参謀総長モルトケの指示のもと、

電信機を用いて迅速に指令を出し、

瞬く間にフランス軍を包囲しました

もはやフランス軍に勝ち目はありません。

 

フランス皇帝ナポレオン3世は部下から申し出を受けます

「皇帝陛下、軍人として誇り高く死なせてください」

「私たちがプロイセン軍に突撃し、包囲を破ってみせます」

「皇帝陛下は生きのびてください」

 

ナポレオン3世は少し考えます

「私が『戦え』と言えば、数10万の若者の命が失われる」

「私が降伏すれば、多くの命が守られる」

そしてナポレオン3世は決断します。

 

「お前たちは若い。生きろ。」

 

そしてナポレオン3世はプロイセン軍に降伏し、

プロイセンの捕虜になります

ビスマルクはこの時点で講和するつもりでしたが、

ナポレオン3世が捕虜になったあとも、

フランスはプロイセン軍への抵抗をつづけました

 

最終的にプロイセン軍はフランス首都パリを包囲し、

その時点でフランス政府はようやく降伏しました

 

フランクフルト講和条約

普仏戦争の戦後処理として、講和条約が結ばれました

結果はプロイセン軍の圧勝だったので、プロイセンが非常に有利です

フランクフルト講和条約

①フランスはプロイセンに賠償金を支払う

②フランスはプロイセンにアルザス=ロレーヌを割譲する

 

アルザス=ロレーヌとは、鉱山資源が豊富な土地です

この地と賠償金を得て、プロイセンは工業力をさらに発展させていきました。

 

ドイツ帝国の成立

1871年 ドイツ皇帝の戴冠式が行われました

国の名をドイツ帝国

初代皇帝はヴィルヘルム1世(ホーエンツォレルン家)

皇帝の戴冠式は、占領したフランスのヴェルサイユ宮殿で行われました

 

フランス人からすると屈辱でしかありません。

「歴史あるフランスの宮殿で、異国のドイツ皇帝の戴冠式をするとは…」

プライドを踏みにじられたフランス国民は

プロイセンへの復讐を誓うのでした…!

 

【質問】フランスに勝ったあといきなりドイツが統一されました なぜですか?

ドイツ統一の最後の課題は、

バイエルン王国などの南ドイツ諸国をプロイセン側につけることでした

フランスとの戦争の過程で、この課題が解決されたからです。

 

バイエルンなどがプロイセン側についた理由は…

 

①フランスがドイツ(プロイセン)に先制攻撃をしてきたから

フランス軍がプロイセン領を攻撃するためには、

バイエルンなどの南ドイツ諸国の領土を通過します

南ドイツ諸国からすると、自国の危機です

南ドイツ諸国はプロイセンと結び、フランス軍を退けようと考えました

 

②フランスに勝利したプロイセンの実力を、さすがに認めたから

 

この2点が理由ですかね。

フランスと戦争し、フランスに勝利したことが

ドイツ統一のいちばんの決定打でしょう

 

 

 

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