アメリカ南北戦争の流れとポイント わかりやすく解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 南北戦争

こんな人におすすめ

アメリカで起こった南北戦争について学んでいます

内容が難しいので、

流れやポイント、

できごと同士の因果関係がわかるように

説明してもらえるとありがたいです

とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方

扱う内容

南北の政治的価値観の違い

★南北戦争前夜 南北の陣取り合戦

1820年 ミズーリ協定

1854年 カンザス・ネブラスカ法

 

★奴隷解放世論の高まり

ストウ夫人アンクルトムの小屋

黒人のリベリア共和国への送還

 

★南北戦争勃発

1861年 南北戦争

1862年 ホームステッド法

1863年 リンカン奴隷解放宣言

黒人奴隷制のその後

 

 

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

南北戦争とは?

南北戦争とは?

★背景

黒人奴隷制の賛否など、政治的価値観が南北で異なっていた

 

★経緯

1861年 アメリカが北部(アメリカ合衆国)と南部(アメリカ連合国)に分裂

→4年間にわたる熾烈な戦争が発生した

北部のリンカン大統領の戦略が功を奏し、戦争は北部が優勢に進んだ

 

★結果

1865年 ゲティスバーグの戦いが勝敗を決め、北部が勝利した

 

「南北の価値観の違い」とは?

気になりますね!

 

南北の政治的価値観の違い

南北戦争を理解するためには、

南北の政治的価値観の違いをとらえるのが重要です

表にまとめるとこんな感じです

あとで理由付きで説明します

北部 南部
産業 工業中心(綿織物など) 農業中心(綿花・サトウキビ等)
奴隷制 反対 賛成
貿易方針 保護貿易

→外国製品に関税

自由貿易

→外国と関税なしで貿易

支持する政体 連邦主義

連邦政府に権限を集中

州権主義

各州の権利を尊重

支持政党 共和党 民主党

 

産業の違い

北部は綿織物工業などの工業が中心

南部は綿花づくりなどの農業が中心です

 

いろいろ端折って

めちゃくちゃ簡潔に説明します

 

南北の産業構造の違いには、気候が関係しています

北部は工業中心 なぜ?

北部は冷涼な気候のため、あまり農業には適していません

そこで北部の人々は工業をおこすことで稼いでいました

 

南部は農業中心 なぜ?

南部は温暖な気候のため、農業に適しています

特に綿花は温暖で水資源が豊富なところでしか育たないので

アメリカ南部の温暖な地域が栽培に適していたわけです

【重要】奴隷制の賛否

北部は奴隷制に反対

南部は奴隷制に賛成の立場をとります

どうしてこんな

きっぱり分かれるのですか?

ヒントは気候と産業にあります

 

北部は奴隷が必要ない なぜ?

北部は涼しくて、働きやすい環境です

綿織物工場でも機械が使われていて、

人が行う作業を減らしてくれています。

機械のメンテナンスや運搬作業など様々ありますが、

農業ほど人手はかかりません

わざわざ奴隷をつかう必要はないのです

 

余談ですが、

黒人奴隷を購入するためには、

現代でいうと車一台買うぐらいのお金が必要だったので

わざわざ黒人奴隷を購入すると高くつくだけだったのです

 

南部は奴隷が不可欠 なぜ?

南部は温暖で、働くには少し暑い環境です

農作業は外の広い農地で行われるため、

太陽の光を浴びながら過酷な労働を強いられます

 

「暑くてしんどい農作業」

南部に住む人たちは、

はっきりいって自分で働きたくありません

こうした背景から、奴隷を買って働かせるというスタイルが確立されました

 

貿易方針の違い 自由貿易と保護貿易

北部は保護貿易を主張し

南部は自由貿易を主張しました。

 

保護貿易は、

アメリカの製品を保護するため、

外国から入ってくる製品に関税をかけて

外国製品をブロックすることを指します

 

自由貿易は、

貿易の際には関税をかけず、

自由に取引をしようという貿易スタイルです

 

北部が保護貿易を望む理由

北部はなぜ、

外国製品に関税をかけたかったのですか?

北部はイギリスと同じく

綿織物工業をしているからです

 

「機械で綿織物をつくること」に関しては、

イギリスが先駆者なので、イギリスの方が技術力も高く、

品質の面でも上、価格も安い

といった状態でした

 

イギリス製品がアメリカに流れてきてしまうと、

イギリス製品ばかりが売れてしまい、

アメリカ北部の工場でつくられた綿織物は売れなくなります

 

これでは困るので、

アメリカ北部の州はイギリス製品に関税をかけ

イギリス製品が入ってこないようにブロックしようとしたわけです!

 

南部が自由貿易を望んだ理由

南部はなぜ、

自由貿易を望むのですか?

南部の人たちにとって、

イギリスが大事な取引相手だからです。

 

南部では綿花が栽培されています

これは綿織物の原材料で、イギリスでは生産できません

 

イギリスは綿花を海外輸入に頼っていました

アメリカ南部でも綿花をつくっていたので、

イギリスはアメリカ南部から綿花を買っていたのです。

 

ポイントは、

「南部にとってイギリスは大事なお客さん」

ってことです

 

そんなお得意先のイギリスに対して

「イギリスから売られてくる商品に関税をかけてブロックしまーす」

「アメリカに売ってこないでくださーい」

なんて言ってしまうと、イギリスが怒るでしょう

 

イギリスを怒らせないようにするために、

「お互い関税をかけず、自由に商売をしましょう」

というスタイルの自由貿易を、南部は望んだのでした

 

支持政体の違い 連邦主義と州権主義

北部は連邦主義を望み、

南部は洲権主義を望みました

 

連邦主義とは、

アメリカの各州を統括する「連邦政府」の力を強くしようという考えです

 

逆に洲権主義とは、

連邦政府の力は弱め、各州の権限を強くしようという考えです

 

そもそも連邦政府とは?

アメリカの州をまとめる存在ですね。

アメリカにはテキサス・カリフォルニア・フロリダなど、

多くの州がありますが、

それらの州の上に立ち、まとめるのが連邦政府ってわけです

 

北部が連邦主義を望んだ理由は?

イギリスに対抗するためです。

北部の州は保護貿易を主張しており、

「イギリス製品に関税をかけます」

「イギリス製品をブロックします」

なんて言ってるものなので、

もちろんイギリスは怒ります

 

そんなイギリスに対して強気に出るためには、

強い政府が必要です

ですから、多くの州をまとめる

「連邦政府」に大きな力を与えようとしたのです

 

逆に南部は自由貿易を推進しており、

イギリスを怒らせることはありません

外国に強気に出る必要もないので、

連邦政府は別に強くなくてもいいのです

 

南北戦争前夜 南北の陣取り合戦

19世紀前半の南部の州と北部の州は、

味方を増やすために陣取り合戦をしていきます

 

アメリカは東海岸が政治・経済の中心の国だったのですが、

19世紀になると西海岸の方へ領土を広げていきました

 

「新たに得た土地で、黒人奴隷制を導入するのか?」

ということが南北の間で争点となりました

 

もちろんお互い自分の味方を増やしたいという気持ちがあり、

 

「アメリカ中部~西海岸に自由州を増やすぞ」

と意気込む北部

 

「アメリカ中部~西海岸に奴隷州を増やすぞ」

と意気込む南部の間で、

水面下の争いが始まっていきます

 

※補足

自由州:奴隷制をおこなわない州(北部側)

奴隷州:奴隷制をおこなう州(南部側)

 

1820年 ミズーリ協定

まずはポイントから

ミズーリ協定とは

★背景

ミズーリが州に昇格し、奴隷制の賛否を住民投票で決定

→住民投票でミズーリは奴隷州(南部側)になると決定された

 

★影響

焦った北部は反発し、南部やミズーリ州を批判

→小競り合いとなったが、連邦政府が公平なルールを定めて事態を鎮静化

ミズーリ協定が締結される

 

★結果(ミズーリ協定の内容

今後いずれかの準州が州に昇格した場合、

北緯36度30分以北を自由州

北緯36度30分以南を奴隷州とする

 

公平なルールを定めて、

南北ともに不満のないようにしようってことですね!

そういうことです

アメリカに1本の横線をひいて

その線よりも北は奴隷制をしない

その線よりも南は奴隷制をする

 

って感じになりました

 

【質問】準州とか州ってなんですか?

準州は成人男子5000人以上の行政区画

州は成人男性6万人以上に達した行政区画のことを指します

 

州に昇格すると、住民投票を行って

重要な法制度を整備することができます

 

ミズーリは州になったときに

重要な法制度(奴隷制の賛否)を住民投票で議論したのでした

 

1854年 カンザス・ネブラスカ法

カンザス・ネブラスカ法とは?

民主党政権(南部側)がミズーリ協定を無効にし、

カンザス州とネブラスカ州の奴隷制の賛否を住民投票で決定すると定めた法

→民主党政権(南部側)が有利になる法だったので、北部が反発した

 

ミズーリからは少し遅れて、

カンザスとネブラスカの準州が州に昇格しました

本来ならミズーリ協定が適用されて、

両州で奴隷制を行うか否かは、

その州の緯度によって決まるはずです

カンザス州とネブラスカ州はどちらになるんですか?

ミズーリ協定で定められた36度30分線よりも北です

つまり、カンザス・ネブラスカ両州ともに

奴隷制を行わない(北部側)州となるわけなんです

 

しかし、当時の連邦政府は民主党政権(南部側)でした

 

民主党政権(南部側)は北部の優勢に不満を持ち、

ミズーリ協定を無効にしました

これでカンザス州・ネブラスカ州は自由州ではなくなります

 

そして

「やっぱり住民の意思が大事だ~」

「カンザス州とネブラスカ州では、住民投票で決をとろう!」

なんてことを言い出すわけです

自分が不利になると思ったらルールを変える…

 

あと出しじゃんけんですね

これは卑怯です

北部は南部の横暴に対してブチギレ

南北の対立はよりいっそう高まっていきました

 

奴隷制廃止世論の高まり

アメリカ国民の中でも、

「奴隷制は人道に反する」

という声が強まってきました

 

1840年代には黒人奴隷を一部解放し、

先祖代々の故郷アフリカに送還するというプロジェクトが行われました

 

1847年 アフリカに「リベリア共和国」が建てられ、

アメリカの解放奴隷をリベリアに送還しました

 

政界でも、次第に共和党(北部側)への人気が強まっていきます

 

そして1860年

共和党(北部側)のリンカンが大統領選に当選することになっていきます

 

奴隷制を廃止すべき

という世論が高まったきっかけは?

ストウ夫人が書いたアンクル・トムの小屋」がベストセラーになったからです

 

ストウ夫人 アンクル・トムの小屋

ストウ夫人は自宅の召使として、

黒人奴隷の少女を雇っていた女性です

 

夫は大学教授であったため、裕福でした

だから奴隷を雇うことができたのです

 

奴隷は主人によって幸福度が左右されます

いい主人に雇われればかわいがってもらえるし

悪い主人に雇われれば悲惨な目にあいます

 

ストウ家は「いい主人」でした

黒人奴隷の少女はかわいがられていました

 

しかしある日、ストウ家で雇っていた黒人奴隷の少女が

前の主人から連れ去られてしまいます。

 

しかし当時のアメリカの法律では、

「黒人奴隷は最初の主人の所有物である」

と定められているため、

ストウ夫人たちは黒人奴隷の少女を取り戻すことができませんでした

 

この経験から、黒人奴隷制という悲しい制度をなくそうと考えたのです

 

そして記したのが「アンクル・トムの小屋

 

トムという黒人が奴隷として雇われ、

家族や親友と離れ離れになってしまいます。

 

そして主人からひどい扱いを受けて、トムが死んでしまう

 

白人側からではなく、

黒人奴隷側から社会を見たリアルな小説でした

 

この書がベストセラーとなり、

黒人奴隷制へ否定的な世論が高まっていったのです。

 

南北戦争の勃発

共和党 リンカン大統領

1854年

カンザス=ネブラスカ法に反対した政治家たちが団結し、

共和党が結成されました。

 

奴隷制反対世論が高まる中、

共和党からリンカンが大統領選に出馬

リンカンは選挙に勝ち、16代大統領となりました。

 

余談ですが、

リンカンには鬼嫁がいたことで有名です(笑)

 

妻は上流階級の娘で、わがままな女性でした

 

リンカンが若手政治家の頃

妻は周りの友達にリンカンのことを自慢し、

「私の夫は大統領になるのよ」

と口ずさんでいました

 

しかしライバル政治家が多く、

大統領になるなんてなかなかできません

 

なかなか大統領になれないリンカンに苛立ち、

妻はリンカンにこう言います

「早くしなさいよ!」

「友達にも、リンカンが大統領になるって言ってるんだから」って(笑)

 

せかされる毎日を過ごしていたリンカン

大統領になったことで、妻の小言から解放されるのでした(笑)

 

1861年 アメリカの分裂 アメリカ連合国とアメリカ合衆国

共和党出身のリンカン

政権公約として奴隷制の撤廃を打ち出しました

 

もちろん民主党(南部側)は反発

「黒人奴隷制がなくなると、南部の農家は困る」

と譲りませんでした

 

そしてついに、南部の民主党を支持する州がアメリカ合衆国を離脱

南部の州はアメリカ連合国を建てました

南部(アメリカ連合国) ポイント

大統領はジェファソン=デーヴィス

首都はリッチモンド

民主党を支持する、南部の州が連合

奴隷制には賛成

 

リンカンは

「南部の離脱は認めない」として応戦し、

ついに南部と戦争を始めました

ここに、北部(アメリカ合衆国)と南部(アメリカ連合国)の戦いが始まります

 

1861年 南北戦争

【開戦期】南部が優勢に

南部にはリー将軍いう優秀な将軍がいたため、

開戦初期は南部が形成有利となりました

 

北部は短期決着のため、

南部の首都リッチモンドを攻め落とそうとしましたが、

南部のリー将軍がこれを阻止

 

南部の士気が上がり、北部は劣勢に立ちました

 

しかしリンカンが外交術を駆使して、

北部が不利な状況を巻き返していきます

 

【リンカンの外交術】ホームステッド法

ホームステッド法 ポイント

西部の国有地を5年間耕作した者に、160エーカーの土地を与える

と定めた法

 

これは「北部についていった方がメリットがある」

と思わせるための法律です

 

土地や財産が欲しいと思う人は山ほどいます

そんな人たちに

「北部についてきて、西部の開拓地を5年間耕したら土地あげるよ」

って言ったら、みんな北部にホイホイついてきます(笑)

 

しかも160エーカーというのは、東京ドーム14個分ぐらいです

これで北部の支持者が急増し、

南部を離反するものも現れました

 

【南部の秘策】ヤツを味方につけよう(失敗)

劣勢に立ち始めた南部は、巻き返しを図ります

そして南部は「イギリスと組もう」

という作戦を打ち出しました

なぜイギリスに目をつけたのですか?

イギリスは南部にとって大事な貿易相手国です

イギリスにとっては、

綿花の輸入元である南部が政権を取ってくれた方が楽です。

だからイギリスが味方してくれるのでは?と考えたわけです

 

それにイギリスを味方につけると、

イギリスの植民地カナダとアメリカ南部の州で

北部を挟み撃ちにできます

しかし、北部のリンカンの策によって

イギリスは南部を助けにきませんでした

 

【リンカンの外交術】奴隷解放宣言 意図は?

リンカンはその名のとおり、

「北部は黒人奴隷制度を廃止し、奴隷を解放する」

という宣言を南北戦争中に行いました。

リンカンの意図は?

リンカンの意図は2つあります

リンカンの意図

南部にいる黒人を味方につけること

イギリスの介入(南部への支援)を防ぐこと

 

①南部にいる黒人を味方につけること

奴隷解放宣言は、

南部に釘付けにされている黒人奴隷たちへのメッセージです

「北部に来たら、黒人たちを自由にしてあげる」

というね

 

この甘言に乗り、

黒人たちは次々に南部から北部に亡命しました

そして貴重な北部の戦力となっていったのです

 

②イギリスの介入を防ぐこと

先ほども述べたとおり、

イギリスにとっては南部が勝つ方が好都合です

南部は綿花の生産地だし、

しかも自由貿易を望んでいますからね

 

しかもイギリスが南部を支援すると、

イギリス領カナダと南部の州で北部を挟み撃ちにできます

イギリスが南部を支援するだけで、

形成逆転してしまうわけです

 

北部の大統領 リンカンは負けるわけにはいきません

そこで秘策をうちました

「北部は奴隷制をやめる」

ということを諸外国にむけて公言したのでした

奴隷制をやめることを外国に公言

どんな意味があるのですか?

イギリスへの当てつけです

 

実はイギリスでも人道を重んじる世論が高揚し、

1830年代に奴隷解放法が制定されました

 

そしてイギリスは

奴隷貿易と植民地での黒人奴隷制を廃止しているんです

つまりイギリスは奴隷制を否定するサイドにいるということ

リンカンが伝えたかったメッセージはこうです

「わたしたち北部は、黒人奴隷制を否定します」

「でも南部は奴隷制をやるって言ってます」

あれ?イギリスさん?あなた奴隷制反対って言ってるのに、南部を応援しちゃうんですか?

イギリスさんが、奴隷制を肯定してる南部を支援するのって矛盾してないですか?

 

ということを国際社会に提唱するために、

わざとらしく奴隷解放宣言をおこなったのでした

 

イギリスは議会政治の国

政治家たちが自ら

国の方針に矛盾するようなことをしては、

次の選挙で当選することはできません

よって、うかつに南北戦争に介入できなくなってしまいました。

 

こうしてイギリスは南部を支援することはできず、

中立の立場をとるしかなかったのでした

 

【決着】ゲティスバーグの戦いとリッチモンドの陥落

北部と南部の最大の激戦、

ゲティスバーグの戦いで南北戦争はほとんど決着がつきました

 

ゲティスバーグはいわゆるターミナル駅のような場所

各地から伸びる鉄道がゲティスバーグで交わるのです

 

そんな交通の要衝が戦いの舞台になりました

 

このころになると、完全に北部が優勢です

 

人心を味方につけ

外国の介入を阻み

工業力をいかして武器・弾薬の補給も整えることができる

 

リンカンの手腕と

北部の人々の持つ底力が勝敗を決しました

 

ゲティスバーグの戦いは北部が勝利し、

その後、北軍は南部の首都リッチモンドを落とします

 

こうして南部は降伏

1865年に南北戦争は終結しました

 

リンカンの悲劇 リンカン暗殺劇

1865年4月 リンカンは暗殺されました

犯人は南部出身の奴隷制賛成派の青年でした

 

リンカンは家族で劇場にいく予定でした

家族みんなで馬車に乗り、

劇場に向かっていたときのことでした

 

ピストルを持った青年が近づき、

リンカンの後頭部に発砲

 

弾は命中し、リンカンは凶弾に倒れました

 

黒人たちのその後

法的には黒人たちは自由の身分となりました

 

しかし、経済的に苦しい状態が続きます。

 

たとえば農業をやるにしても、

黒人たちは自分の土地を持っていません

 

だから、農業に従事した黒人たちは、

地主から土地を借りて耕す小作人(シェア=クロッパー

となりました。

 

農業ではなくて高収入の仕事をしようとしても、

お金がないので十分な教育を受けられません

結局、賃金の安い力仕事をするしかありませんでした

 

さらに、州によっては黒人差別は続きました

「黒人の公共施設の利用を禁止する」

「黒人は黒人用のバス・トイレ・列車などを使うこと」

など、白人と黒人を分離する法律がつくられた州もあります

こうした黒人差別をする法律を総称して

ジム・クロウ法」と言います

 

南北戦争を通じて

黒人たちは自由の身分になりましたが、

経済的な自由は得ることができず、

「平等」も得ることができませんでした

 

こうした差別の解消を求めて、

1960年代にキング牧師が立ち上がるのでした

そして公民権法が制定されていきます

 

奴隷解放宣言から公民権法の制定まで、

黒人が「自由」を得てから、「平等」を勝ち取るまで

実に100年の歳月がかかったのです

 

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