湾岸戦争のきっかけ・経緯・結果 世界史教師がわかりやすく解説

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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こんな人におすすめ

中東の歴史について学んでいます

湾岸戦争について

背景や流れなどをわかりやすく解説してくれると助かります

とお悩みの学生・社会人の方

 

この記事からわかること

湾岸戦争とは?(ポイントを簡潔に)

湾岸戦争の背景

(イラクのクウェート侵攻 なぜ?)

湾岸戦争の経緯

 

これらをわかりやすく解説していきます!

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

湾岸戦争とは?(簡潔に)

湾岸戦争1991年に始まった、

イラク 対 クウェート&多国籍軍の戦闘です

 

1990年、イラクのフセイン政権クウェートに侵攻

 

これが大きな問題を呼び、

国連がイラク情勢に介入しました

 

1991年、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに派遣され、

湾岸戦争が勃発

イラクのフセイン政権が降伏し、幕を閉じました

 

ちなみに当時のアメリカ大統領はブッシュ(父)

 

湾岸戦争の背景

湾岸戦争はイラクのクウェート侵攻によって引き起こされました

 

この章では

「イラクがクウェートに侵攻したのはなぜか?」

という観点から、

イラク戦争の背景を語っていきたいと思います

 

イラン=イラク戦争による財政赤字

イラクは1980年~1988年の8年間もの間、

隣国イランと戦争してきました

 

戦争が長期化した割に、大した戦果を得られず、

イラクでは財政赤字が深刻でした

 

「財政赤字解消のために、ひとやまあてるか」

という思いから、

イラクのフセイン大統領は、

クウェート侵攻を計画しました

 

お金がない状態なのに、

戦争するんですか?

フセイン大統領

「戦争によって得られるメリットの方が大きい」

と判断したのです。

詳しく説明します。

 

クウェートの石油資源と港が狙い目

クウェートは石油資源が豊富

さらにペルシア湾に面した貿易港があります

クウェートは小さい国ですが、

石油輸出によって莫大な利益を得ていました

 

対してイラクは、

ペルシア湾に面した地域が少なく、

輸出するには不便な立地だったのです。

 

イラクのフセイン大統領

「クウェートを併合すれば、石油と港が手に入る」

「石油輸出による利益で、イラクの財政を立て直せる」

と考えました

 

そしてイラクはクウェートに一方的に侵攻することになるのです

 

湾岸戦争の展開

1990年8月 イラクがクウェート侵攻を開始します

 

国連はイラクの行動を問題視し、

安全保障理事会を開きます

 

そこでイラクに対する撤退勧告と、

経済制裁を発動しました

 

しかしイラクは侵攻を中止せず、

クウェートの併合を宣言しました

 

1991年 国連は多国籍軍の派遣を決議

1月にアメリカ軍を中心とする多国籍軍が送られました

 

多国籍軍はペルシア湾に軍艦を浮かべ、

イラク軍を威嚇します

イラク軍はペルシア湾沿岸に軍を集中し、

多国籍軍を迎え撃とうとしました

 

しかしこれは多国籍軍の囮でした

多国籍軍はペルシア湾側から攻撃を仕掛けると見せかけて、

イラクの北部から陸軍を派遣していたのです

イラク軍はペルシア湾沿岸に集中しており、

イラク北部の守りは手薄でした

 

多国籍軍はイラクの虚をつき、

イラク軍を粉砕

 

イラクは敗戦し、

クウェートからの撤退を決定

 

こうして湾岸戦争は終わりを告げました

 

日本への影響

日本は湾岸戦争の際、

クウェートに110億ドルの経済援助を行いました

 

日本国憲法の都合上、

自衛隊は専守防衛が鉄則だったため、

海外派遣ができないと判断したのです

 

しかし「血を流すことも必要なのではないか?」

という諸外国からの圧をかけられ、

日本政府は自衛隊の海外派遣を決意

 

自衛隊は戦闘に加わることはありませんでしたが、

ペルシア湾の機雷掃討に従事しました

 

戦争が終わり、

クウェート政府は国際社会に感謝の意をこめて

新聞広告を掲げました

 

その広告の中には、

多国籍軍として出兵した国の国旗が掲げられていたのですが、

そこに日本国旗がなかったのです

 

これは

「日本の国際貢献は認められなかった」という証でした

 

これに衝撃を受け、

日本でも自衛隊の戦地派遣について議論がなされることとなったのです。

 

アルカイダのウサマ=ビン=ラディンへの影響

湾岸戦争は次の戦争の火種を生みます

 

のちに9.11テロを起こし、

アメリカとアフガン戦争を繰り広げることとなる、

国際テロ組織アルカイダのリーダー

ウサマ=ビン=ラディンに影響を与えました

 

ウサマ=ビン=ラディンは

サウジアラビアの富豪の一家でした

 

当時のサウジアラビアは、

湾岸戦争に派遣される米軍の出撃基地となっていました

 

米軍兵はサウジアラビアの駐屯地で、

自由気ままに行動していました

 

女性隊員が休暇の間に肌を露出し、

ビーチで日光浴をしているシーンなども見られました

別に普通の光景じゃないですか?

 

サウジアラビアはイスラームの国

元々女性の露出は宗教上禁止されており、

 

女性が肌を露出していることが

異質な光景にうつったのです

 

「欧米文化が浸透すると、イスラーム社会は破壊されるだろう」

と危険視したビン=ラディンは、

アメリカへの対抗心を抱くようになったのです

 

そしてビン=ラディンは国際テロ組織

アルカイダを立ち上げます

 

最終的にはアメリカの航空機をハイジャックし、

世界貿易センタービルに体当たりさせたのでした

 

有名な9.11テロですね。

 

歴史はつながっていくのです

 

 

 

 

 

 

 

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