ベトナム戦争 背景・経緯・結果・日本への影響など 世界史教師がわかりやすく解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

てっちりをフォローする

こんな人におすすめ

この記事から得られること

・ベトナム戦争とは?(簡潔に)

 

・ベトナム戦争前夜の情勢

→南北への分断とアメリカの介入について

 

・ベトナム戦争 開戦から終戦までの流れ

 

具体的にこんな人におすすめです

現代史を学んでいます

 

ベトナム戦争ポイント

戦争の背景・経緯・結果

日本へ与えた影響などについて、

難しいところを

わかりやすく解説してくれると嬉しいです…

とお悩みの学生・社会人の方

 

記事の信ぴょう性

てっちりのプロフィール

もと高校世界史教諭

誰でも世界史を楽しく、

わかりやすく学べるように、

現在はネットで歴史系コンテンツを配信しています。

 

教室で数人に向けて授業をするよりも、

ネットの方がはるかに多くの人に情報を発信でき、

役に立つことができると思い、この道を選びました

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

てっちりとともに、学習をがんばりましょう!

 

ベトナム戦争とは?(簡潔に)

ベトナム戦争は、

アメリカがベトナム情勢に介入して起こった戦争です

アメリカの目的は、

「ベトナムでの社会主義の台頭を防ぐこと」でした

 

ベトナムは南北に分かれており、

北部ベトナム民主共和国

ホー=チ=ミンの指導下で社会主義政権を営んでいました。

 

北部へ対抗し、

ベトナムでの社会主義の台頭を防ぐため、

アメリカは南部のベトナム共和国を支援していました

 

そして1965年 ベトナム戦争が開幕します

アメリカのジョンソン大統領(民主党)は

トンキン湾事件を口実にベトナムへの出兵を命じ、

北ベトナム(ベトナム民主共和国)を空爆

 

北ベトナムの必死の抵抗により、

アメリカ軍は各地で敗退

 

アメリカ軍の被害は甚大で、

1973年にニクソン大統領共和党)が停戦交渉を開始

 

米軍がベトナムから撤退後、

北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴンを制圧

 

1975年 南北ベトナムが統一され、

ベトナム戦争は幕を閉じました

 

ポイントだけを淡々と述べたので、

ここから先は詳しく説明していきます

 

ベトナム戦争前夜 ベトナムの南北分断

1946年 インドシナ戦争 独立をかけた戦い

第二次世界大戦前のベトナムはフランス植民地でした

第二次世界大戦終結後、

ベトナムの社会主義者ホー=チ=ミン

ベトナム独立同盟(べトミン)を結成し、

フランスからの独立をめざしました

 

対するフランスはベトナムに親フランス政権を樹立し

ベトナムの独立を阻止しようと考えました。

 

そのときに成立したのが、

バオ=ダイを元首とするベトナム国でした

バオ=ダイは旧ベトナム王家 阮朝の最後の皇帝でした

 

フランスはその男に

「フランスと仲良くすれば、好きなだけ支援してやる」

「好きなだけ女を抱かせてやる」

と約束し、フランスと提携させたのでした。

 

まとめるとこうなります。

ベトナム情勢 まとめ

★独立派

ベトナム独立同盟(べトミン) リーダーはホー=チ=ミン

 

★親フランス派

ベトナム国 リーダーはバオ=ダイ

 

こうしてインドシナ戦争が約8年にわたって続きました

 

しかしベトナム独立同盟の人海戦術に苦戦し、

フランスは徐々に押されていきます。

 

ベトナム独立同盟は1954年

ディエンビエンフーの戦いに大勝し、

最終的にフランスからの独立を勝ち取りました

ベトナムの人たちの執念を感じますね!

 

1954年 ジュネーヴ休戦協定 ベトナムの独立と南北分断

1954年 中立国スイスのジュネーヴで、

インドシナ戦争に関する休戦協定が結ばれました。

 

この会議でベトナムの独立をフランスや、

周辺諸国が認めることによって、

ベトナムの独立は正式に認められることになります。

 

内容はこうなりました

ジュネーヴ休戦協定 内容

ベトナム・ラオス・カンボジアはフランスから独立する

 

北緯17度線を境にベトナムを南北に分断し、

北をベトナム民主共和国

南をベトナム共和国とする

 

2年後にベトナムを統一し、

ベトナムの指導者を総選挙によって決定する

 

フランスはインドシナ戦争に敗戦したため、

この条約を認めざるを得ませんでした。

 

この条約を諸外国が承認すると、

ベトナム・ラオス・カンボジアは正式な独立が認められます

 

しかし、この条約にケチをつけて

ジュネーヴ休戦協定を承認しなかった国があります

どの国ですか?

アメリカです

 

アメリカは当時、

ソ連などの社会主義陣営と「冷戦」を繰り広げていました

 

アメリカ率いる資本主義陣営と

ソ連率いる社会主義陣営の陣取り合戦です

 

アメリカは資本主義国を増やそうと

ソ連は社会主義国を増やそうと躍起になります

 

さて、このたびベトナムが南北に分かれて独立し、

2年後にベトナムを統一

ベトナムの指導者を総選挙で決めるとなりました

 

少し考えてみましょう

ベトナムの指導者に当選しそうなのは誰ですかね??

独立戦争をがんばったホー=チ=ミンですね

リーダーシップをとっていたので

人気がありそうです!

順当にいくとそうなりますね!

 

もう1つ聞きます

ホー=チ=ミンは資本主義?社会主義?

社会主義者ですね!
アメリカからすると敵側です

そういうことです

 

もし2年後に南北ベトナムを統一して、

ベトナムのリーダーが選ばれるとしたら、

社会主義者のホー=チ=ミンがリーダーになりそうです

そうなるとベトナムは社会主義国になりますよね

 

このままでは社会主義陣営の国が増えてしまい、

アメリカは陣取り合戦で不利になってしまいます。

 

ジュネーヴ休戦協定の内容を見るに、

アメリカが不利になってしまうと考えて、

アメリカはジュネーヴ休戦協定を承認しなかったのでした

 

ベトナム民主共和国とベトナム共和国

先ほどの章では、

「ベトナムが南北にわかれて独立することが認められた」

とお話しました。

 

この章では、南北ベトナムの詳細についてまとめます

南北ベトナム 特徴

★北部(ベトナム民主共和国

社会主義者ホー=チ=ミンが指導

近隣の社会主義国 中華人民共和国から支援を受けた

 

★南部(ベトナム共和国

親米派ゴー=ディン=ジエムが指導

アメリカが裏から支える資本主義国家

 

ざっとまとめるとこんな感じです。

ジュネーヴ休戦協定の2年後に行われるはずの

南北の統一と総選挙は行われず、

南北への分裂状態が続きました

 

アメリカは南部を支援し、

北部の社会主義政権との対立姿勢を示しました

 

ゴー=ディン=ジエムの恐怖政治と解放戦線の成立

北部はホー=チ=ミンの手腕によって一枚岩でしたが、

南部は政治が混乱しました。

 

南部(ベトナム共和国)の指導者

ゴー=ディン=ジエムの宗教政策が劣悪なものでした

 

ゴー=ディン=ジエムは熱心なカトリック信者で、

ベトナムで古来から信仰されてきた宗教である

仏教を大弾圧しました

天下のアメリカ様の支援を

受けているからって

やりたい放題ですね…

まさしくその通りです。

 

ゴー=ディン=ジエムに対する国内の批判は強まり、

民衆は抗議します

しかしゴー=ディン=ジエムは取り締まりを強化し、

反対派に弾圧を加えました

 

そこでひとつの事件が発生します

仏教弾圧に反対する僧侶が、焼身自殺をして抗議したのです

 

僧侶は記者団の面前でガソリンをかぶり、

全身に火をつけました

そして座禅を組んだまま無言の抗議…

 

僧侶は一切姿勢を崩さず、

体が燃える痛みに叫ぶこともせず、

息を引き取りました

 

翌日、この僧侶の抗議について

ゴー=ディン=ジエム側にインタビューが行われました

 

記者は言います

「この件についてどうお考えですか!」

 

この質問に答えたのはゴー=ディン=ジエムの妻でした

妻はこう言いました

「ああ、あの人間バーベキューですか?」

「あはははは」

 

この発言は全世界からひんしゅくを買い、

アメリカもゴー=ディン=ジエムを見限りました

 

かといって南ベトナムを支援しておかないと、

北ベトナムに押されて社会主義化されてしまうので、

アメリカは慎重に動きました

 

ゴー=ディン=ジエムの暗殺

アメリカは

人道に反する政策を行うゴー=ディン=ジエムを見限り、

反ゴー=ディン=ジエム派の軍人

ズオン=バン=ミンに接近しました

 

ズオン=バン=ミンはゴー=の暗殺計画を企てており、

アメリカは暗殺計画をバックアップしました

 

1963年11月1日 ズオン=バン=ミンは暗殺計画を実行

ゴー=ディン=ジエムは暗殺されました

 

その後はズオン=バン=ミンが大統領となったものの、

ゴー=ディン=ジエムが残したツケは大きく、

国内反乱が多発しました

南ベトナム(ベトナム共和国)の政権基盤は

安定しませんでした…

 

南ベトナムを支援していたアメリカは焦ります

 

南ベトナム解放民族戦線の成立

南ベトナムの国内情勢が安定しなかった理由が、

南ベトナム解放民族戦線による反抗でした

 

南ベトナム解放民族戦線とは?

ゴー=ディン=ジエム政権の恐怖政治に

反抗していたレジスタンス

ゴーの死後は、親米政権の打倒を図った

 

拠点はベトナム最南端のジャングル地帯

反米・反南ベトナム政府を掲げてゲリラ活動を行った

 

北ベトナムは南ベトナム解放民族戦線を支援し、

カンボジア経由のホー=チ=ミンルートで支援物資を配給

南ベトナムの親米政権の打倒を図った

 

 

上記にもまとめましたが、

南ベトナム解放民族戦線(以下、「解放戦線」)は

南ベトナム内部の反政府ゲリラです

ジャングルに潜伏して反米・反政府活動を行っていたため、

捕らえることが難しかったのです

 

さらに解放戦線は北ベトナムからの支援を受けており、

カンボジア経由(ホー=チ=ミンルート)を通じて

支援物資を得ていました

図で表すとこんな感じです

 

 

 

 

解放戦線による抵抗が激しかったため、

ゴー=ディン=ジエムの死後も、

南ベトナムの政権は安定せず

北ベトナム(ベトナム民主共和国)が優勢な状況が続きました

 

「このままでは南ベトナムは滅びて、ベトナムは社会主義化されてしまう」

アメリカは焦りを感じていたのでした

 

1965年 ベトナム戦争の展開

ここまでの勢力関係をまとめます

南北ベトナム 勢力図

★北部(ベトナム民主共和国

社会主義者ホー=チ=ミンが指導

近隣の社会主義国 中華人民共和国から支援を受ける

 

★南部(ベトナム共和国

親米派政権が主導し、アメリカが支援

 

南ベトナム解放民族戦線

反米・反南ベトナム政府を掲げるゲリラ組織

北ベトナムから支援を受けている

 

南ベトナムは反政府デモが多発し、

政治が不安定な状態でした

 

北ベトナムは南ベトナム国内での反政府デモを支援しており、

このままでは北ベトナムがベトナム全土を統一しそうな雰囲気です

 

「このままではベトナムを社会主義勢力圏とされてしまう」

アメリカは焦ります

 

そしてアメリカは力技を使って、

北ベトナム勢力を振り払おうとしたのでした

 

そしてベトナム戦争がはじまります

 

トンキン湾事件と北爆

1964年8月 北ベトナム トンキン湾にて

「北ベトナム海軍がアメリカ海軍に魚雷を発射した」

という知らせが入りました

 

ベトナム戦争の発端となった「トンキン湾事件」です

 

アメリカのジョンソン大統領(民主党)はこの知らせを聞き、

北ベトナムからの攻撃を議会に報告

 

そして北ベトナムへの出兵案を議会に提出しました。

そして賛成多数で北ベトナムへの出兵を決議しました

 

1965年 アメリカ軍は北ベトナムへの爆撃を開始

これを「北爆」といいます

無数の爆弾がベトナムの空を覆いました

 

※トンキン湾事件の真実

トンキン湾で北ベトナム軍がアメリカ軍に魚雷を発射したというのは、

アメリカ軍による自作自演でした。

 

実際に北ベトナム軍は米軍に魚雷を撃っておらず、

アメリカは戦争の口実をつくるため、

自演行為を行ったのでした。

 

枯葉剤やナパーム弾の使用

アメリカの敵は北ベトナム

そしてジャングルに潜む南ベトナム解放民族戦線です

 

解放戦線はジャングル地帯に潜んでおり、

ジャングルに民家をかまえる一般人に扮しています

 

もはやどれが一般人で、

どれが敵兵士なのかわからないじょうきょうでした

 

ベトナムのジャングルの中では戦いづらく、

敵の姿も補足しにくいという状況

 

アメリカ軍は行軍をスムーズにするため、

ジャングルに枯れ葉剤を散布して、

木々を枯らしたり、

 

ナパーム弾を撃ち込んで、

木々を焼き尽くしたりと、

ベトナムの自然に大損害を与えました

 

枯れ葉剤の効果は人間にも及びました

枯れ葉剤の成分を吸った親から

生まれてくる子どもの遺伝子に作用し、

奇形児が生まれることが増えました。

 

北ベトナムの反撃「テト攻勢」

米軍の攻勢に対し、

北ベトナムも必死で抵抗しました

 

北ベトナムは1968年

テト攻勢」と呼ばれる大規模反撃を実施します

 

「テト」というのは旧正月のことで、

旧正月は基本的に休日となります

 

旧正月のお休みムードで、

敵方の南ベトナムの兵士も油断しているだろう」と考え、

 

北ベトナムは、あえて旧正月に大攻勢をしかけたのでした

 

南ベトナムとアメリカ軍は

北ベトナムの奇襲に驚かされ、

北ベトナムの奇襲は成功します。

 

 

南ベトナムと米軍の被害はすさまじいものでした

死者は3万人にのぼり、

けが人は5万人に及びました

 

この経過はテレビで放映され、

アメリカ国民の耳に届きます

 

戦争の長期化とともに、

若者の命が消えていきます

そんな様子をみかねて、

アメリカ国内では反戦ムードが高まっていきました

 

アメリカ各地で開かれたロックフェスでは、

反戦歌が歌われました

 

ちなみにジョンレノンの

Happy Christmas(War is over)も、

ベトナム戦争の反戦歌です

 

アメリカの世論は

ベトナムからの撤兵を望んでいたのです

 

米軍の撤退とベトナム戦争の終結

米軍撤退のカギは「中国との和解」

米軍がベトナムから安全に撤退するためには、

北ベトナムを裏で支援している中国と和解する必要があります

中国が北ベトナムを支援していた理由は?

理由は2つです

①同じ社会主義国だから

コチラは単純ですね。

 

②親米派の南ベトナムがベトナムを統一してしまうと、

親米派の政権が中国と隣り合うから

 

アメリカ側の国と隣り合うのは

中国としても避けたいところでした

 

だから社会主義国であった北ベトナムを支援し、

アメリカの勢力圏が中国に迫ってくるのを防ごうと考えたのです。

 

というわけでベトナム戦争に関しては、

アメリカと中国は敵対関係にありました

 

ベトナムから撤退しようにも、

撤退ルートを中国軍に防がれてしまうと、

米軍が危険にさらされます

 

そこで背後の中国との仲をとりもつことで、

米軍の撤退をスムーズにしようと考えたのでした

 

ずいぶんとアメリカにとって

都合のいいシナリオですね

 

中国は簡単に吞んでくれるんですか?

はい。

 

当時の中国は社会主義の在り方をめぐって、

ソ連と対立していました(中ソ対立

 

1969年にはソ連軍との武力衝突

珍宝島事件(ダマンスキー事件)が起こっています

 

それと同時進行で、

中国はベトナムをめぐってアメリカと対立しています

 

人口がいちばん多い中国といえども、

さすがにソ連とアメリカの両国を敵にまわすことはできません。

 

中国はアメリカとの関係修復には快く応じたのです

 

1971年 中華人民共和国への国連代表権の承認

「中国との関係を改善するためには、何が必要か?」

アメリカ政府は考え抜き、

中国との関係改善のための「エサ」を用意しました

 

それが「国連代表権」です

具体的にいうと、アメリカはこうしました

中華人民共和国への国連代表権承認

★Before

戦後ずっと、中華民国(台湾)が

国連安保理の常任理事国だった

 

★After

中華人民共和国を国連安保理の常任理事国とする

アメリカが先陣を切ってこれを承認する

 

なんでこんなややこしいことに

なっていたのですか?

少しややこしいですよね。

順を追って解説します。

 

中華民国(台湾)が国連の常任理事国だったのには、

アメリカやイギリスなどの西側諸国の影響があります。

 

中国はもともと、中華民国という1つの国でした

しかし第二次世界大戦後、

国民党と共産党の内戦(国共内戦)が発生します

 

そして国民党が敗れ、

国民党の主席 蔣介石は台湾に亡命

台湾に「中華民国」を移したのです

 

一方で勝利した共産党は、

中国本土を支配し、中華人民共和国を建国しました

 

「新しい国ができました」

という事実をほかの国が承認して初めて、

正式に新国家の成立が認められます

 

しかしアメリカは、

中華人民共和国を承認しなかったのです

中華人民共和国は社会主義国

つまり敵方のソ連サイドの国だからです。

 

だから国連を結成した際も、

中華民国(台湾)を安全保障理事会の常任理事国とし、

中華人民共和国には国連代表権を与えていなかったのです。

 

このたびアメリカはピンチに立たされていたので、

中国と和解するために、

中国に好都合な条件を提示しました。

そこで「国連代表権を中華人民共和国に移行する

という措置をとったのです

 

1972年 ニクソン訪中

中国との関係改善を後押しするため、

アメリカのニクソン大統領は中国に訪問しました

 

ニクソンは毛沢東と会見し、

米中首脳会談がおこなわれました。

これは戦後初のことでした

 

米中関係が改善に向かいます。

これでアメリカのベトナム撤退の準備は整いました

 

※米中国交正常化は1979年

カーター大統領のときです

正式に国交が正常化されるのは、

少しあとの話になるので注意しましょう。

 

ベトナム和平協定と南北統一

1973年 パリで和平協定について会議が行われました

そしてベトナム和平協定が成立

アメリカはベトナムからの撤退を決定しました

 

アメリカ撤退後も、

北ベトナムと南ベトナムの戦争は続きました

南ベトナムを支援していたアメリカが撤退したので、

もちろん北ベトナムが優勢でした

 

北ベトナムは1975年

南ベトナムの首都サイゴンを占領

南ベトナムは降伏し、ベトナムは統一されました

 

サイゴンは「ホー=チ=ミン」に改称され、

ベトナム最大の都市になりました(首都ではないが)

 

1976年 国名をベトナム社会主義共和国に改称

こうしてベトナム戦争は完全に終結しました

 

日本への影響(沖縄返還へ)

ベトナム戦争が長期化する中、

1972年沖縄返還が実現しました

 

米軍の占領下にあった沖縄が、

日本の主権下に帰ってきたのです

ベトナム戦争と

どんな関係があるんですか?

ベトナム戦争と沖縄返還の関連性は2つあります

①アメリカの財政赤字が深刻化

アメリカは海外への駐留費を削減する方向に走った

②騒音被害による沖縄県民の反発

 

この2点です

詳しく説明しますね。

 

①アメリカの財政赤字

ベトナム戦争の長期化により、

アメリカは多額の軍事費を投入

アメリカでは財政赤字が深刻化しました

 

アメリカは少しでも支出をおさえなければなりません。

 

そこで様々な策を講じました

その1つが沖縄返還です。

 

海外に広大な米軍基地を設け、

そこに兵士を常駐させると、

莫大な維持費がかかります。

 

そうした費用を削減するため、

沖縄の全面占領を解き、

米軍の駐留地を一部の米軍基地に限定したのでした。

 

こうしてアメリカ政府の支出を減らしていったのです。

 

②騒音被害による沖縄県民の反発

ベトナム戦争をきっかけに、

米軍の支配に対する

沖縄市民の反発が激しくなったのです

 

米軍はベトナムへの出撃や支援物資の補給の際、

沖縄の米軍基地からヘリや飛行機を飛ばしていました

 

沖縄市民は毎日飛び交う飛行機の騒音に悩まされ、

怒りが爆発

米軍基地反対デモを行ったのです。

 

ベトナムと戦争をしている中、

沖縄県民のデモのおさえこみを、

同時進行で行うのは難しい…

 

ここは沖縄県民をなだめるため、

沖縄の主権を日本国に取り戻す

という処遇がなされたのです。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました

コメント

タイトルとURLをコピーしました