こんな人におすすめ
19世紀のオスマン帝国
東方問題について学んでいますが、
登場勢力が多かったり、
流れが難しかったりと
よくわかりません
本当に苦手なので、わかりやすく教えてください
とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方
東方問題の流れ・ポイント・各勢力の意図を
地図つきで詳しく解説します
①各登場勢力の意図
★東方問題 前編(19世紀前半)
②1821年 ギリシア独立戦争
③1831年 第1次エジプト=トルコ戦争
→講和条約 ウンキャル=スケレッシ条約の内容と意図
④1839年 第2次エジプト=トルコ戦争
→講和条約 ロンドン条約の内容と意味
★東方問題 後編(19世紀後半)
⑤1853年 クリミア戦争
→講和条約 パリ条約の内容と意味
⑥1877年 露土戦争
→サン=ステファノ条約 ロシアの目的は?
⑦1878年 ベルリン条約
→「公正なる仲買人」ドイツ宰相ビスマルクの意図
というか、まじで東方問題は難しいので苦労します
でも難解な内容がすっきりわかると、
世界史って楽しいなって思えるので
はりきっていきましょう!
読者の皆さんへのメッセージ
こんにちは。
元々高校の教員をしていました。てっちりです。
このサイトでは、
世界史を学ぶうえでの
「わからない。」「なぜ?」に
お答えできるよう、情報を掲載しています。
特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので
生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)
そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と
ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、
今回は記事としてしたためました!
東方問題とは?
19世紀 ヨーロッパから見て東側のオスマン帝国領をめぐった利権問題
南下政策をしていたロシアが、
様々な策略を駆使して、
弱体化したオスマン帝国の利権を得ようとしました
他のヨーロッパ諸国がロシアの動きを警戒し、
ロシアの南下政策を阻止しようとしました
最終結果はどうなったのですか?
結果として、東方問題に関してはロシアが完敗
オスマン帝国方面へのロシアの南下政策は失敗に終わります
【重要】各勢力の状況と意図
オスマン帝国
アナトリア半島・バルカン半島・北アフリカなどを領有する大帝国
1683年 オーストリアに第二次ウィーン包囲を仕掛けるが失敗
→オーストリアは反撃に出て、オスマン帝国領を次々に奪った
1699年 カルロヴィッツ条約でオーストリアにハンガリーを割譲
→それ以降、帝国は衰退傾向にあった
19世紀に突入すると、
フランス革命に刺激を受けた民衆の運動が過激化
「自由・平等」が流行語となり、
「オスマン帝国の支配から自由になろう」と
オスマン帝国支配下の民族が次々に独立運動を展開した
オスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれており、
唯一の頼みの綱が、配下のエジプト総督だった
エジプト
オスマン帝国支配下の土地
エジプト住民の管理はエジプト総督ムハンマド=アリーが担う
エジプトはアジアとヨーロッパをつなぐ地
アジア貿易やイギリス・フランスとの貿易で繁栄
→税収も十分なうえに、英仏との交流で最新の軍備や技術を導入できた
衰退傾向のオスマン帝国からすると、
エジプトが持つポテンシャルが頼みの綱だったわけですね!
もちろんオスマン皇帝はエジプトを頼りにします
その状況が続くと、
エジプト総督ムハンマド=アリーからすると、
「俺もしかして、皇帝より強いんじゃね?」ってなります。
そして最終的に、オスマン帝国の皇帝の言うことを聞かなくなっていくわけですよ
【最重要】ロシア
不凍港を得るため、世界各地に南下政策を展開中
オスマン帝国の衰退を南下のチャンスととらえ、
あの手この手でオスマン帝国領に干渉した
オスマン帝国からボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の通行権を得て、
→地中海にロシア海軍を進出させようと考えた
ボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡とは?
そんなに重要な海峡なんですか?
かなり重要です
1815年のウィーン議定書締結後
ロシアは黒海沿岸のベッサラビアを得ました
ほかにも黒海沿岸に
クリミア半島を元々領有していました
クリミア半島にはセヴァストーポリ要塞と軍港があり、
ロシアは黒海を外国と貿易する際の出入り口としていました
また、黒海を勢力拡大のための橋頭保として使うことができたのです
黒海をスタート地点にして
絶対に凍らない地中海に進出しようとしたわけですね!
そういうことです
でもロシアが地中海に到達するためには、
オスマン帝国領のボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を通る必要があります
この海峡の通行権を得ることができたり、
あわよくば占領することができると、ロシアの思惑が叶うわけなんです。
イギリス・フランス
①エジプトとの関係づくりを重要視
②ロシアの地中海への南下を阻止
①エジプトとの関係づくりを重要視
★理由
アジアとの貿易路として、
英仏はエジプトを通過しています
特にイギリスは産業革命以降、
綿織物の原材料の綿花をインドから輸入しています
インドからの輸入路の途中に必ずエジプトを通っていたので
イギリスはエジプトを重要視していました。
他にもエジプトに期待していることとしては、
貿易の利便性をさらに上げるため、
あわよくばエジプトにスエズ運河を開通したいと考えています
②ロシアの地中海への南下を阻止したい
★理由:ロシア軍に貿易を妨害されたくなかったから
先ほどもお伝えしたとおり、
英仏はアジア貿易の際にエジプトを通過しています
そこにロシアが海軍を出せる状況だと、少々面倒です。
仮にロシアが地中海進出に成功した場合、
ロシアと戦争になったときに、
ロシアはエジプト経由の貿易路を封鎖して
イギリスやフランスの経済を麻痺させにかかるでしょう
こうした事情から、ロシアの地中海進出を毛嫌いしました。
オーストリア
基本的にロシアの南下を警戒
オーストリアはロシアと陸続きで接しているので、
ロシアの陸からの侵攻も考えられます
さらにロシア軍が地中海に進出でもしたら、
陸からだけでなく、海からもロシア軍に攻められてしまいます。
こうした戦略的不利を招かないため、ロシアの南下には警戒しています
プロイセン
東方問題に関しては中立の立場
プロイセンはドイツ統一に集中したいからです。
ヨーロッパ諸国がオスマン帝国事情に釘付けになり、
争いが長期化している方が
ドイツ統一を水面下で進めることができるので、
プロイセンにとっては好都合でした
サルデーニャ王国
イタリア統一のために、
フランスの援助を得ようと考えました
そのためにまず、
フランスからの信頼を獲得するため、
クリミア戦争のときにフランスを支援しました
(登場するのはクリミア戦争の1回だけです)
東方問題 前編
1821年 ギリシア独立戦争
★対立勢力
①オスマン帝国&エジプト総督
②ギリシア&ロシア&イギリス&フランス
★背景
フランス革命の影響で、オスマン帝国内でも支配民族の独立運動が活性化
→オスマン帝国支配下のギリシアが独立戦争を挑んだ
★戦闘の経緯
①オスマン帝国はエジプト総督ムハンマド=アリーと協力
→ギリシアの独立阻止を図り、ギリシア軍を虐殺した
②ギリシア人虐殺を口実に、ロシア・イギリス・フランスが介入
→ロシア・イギリス・フランスはギリシアを支援 ナヴァリノの海戦で勝利
★結果
ギリシアは独立に成功
→アドリアノープル条約で正式に独立を承認された
★文化への影響
フランスの画家ドラクロワがオスマン帝国による虐殺を批判
→オスマン帝国による残虐行為を「キオス島の虐殺」に描いた
背景・経緯・結果
19世紀はフランス革命とナポレオン戦争があった時代です
フランス革命によってフランス人は自由で平等な社会を築き、
「自由・平等」がヨーロッパでトレンドワードとなっていました
しかしギリシア人には自由はなく、
オスマン帝国の支配下に置かれていました
そんなギリシア人たちが、
「自分たちも自由になりたい」
といって、オスマン帝国からの独立を願ったのでした
もちろんオスマン帝国はこれを許しません。
配下のエジプト総督ムハンマド=アリーを引き連れて、
ギリシアの独立運動を阻止しようとします
そして見せしめとばかりに、ギリシア人たちを虐殺してみせたのです
これは国際社会でも大きな批判を生み、
ドラクロワは「キオス島の虐殺」を描き、オスマン帝国を批判しました
そしてロシア・イギリス・フランスが
「ギリシアでの白人キリスト教徒の虐殺行為を止めること」
を表向きの目的として
ギリシア独立戦争に介入したのでした。
結果として、ナヴァリノの海戦で
ロシア・イギリス・フランス・ギリシアの連合軍が勝利しました
1829年にアドリアノープル条約が結ばれ、
オスマン帝国はギリシアの独立を認めました
【質問】なぜロシア・イギリス・フランスが介入したのですか?
ギリシア独立戦争に介入した国々の意図が知りたいです
わざわざ出兵して、どんなメリットがあるんですか?
国別で説明しますね
①ロシア
ギリシアの独立を支援して、ギリシアに恩を売る
その見返りに
ギリシアの沿海部にロシア軍港をつくってもらえば、
ロシアは地中海への南下政策に成功します
②イギリス・フランス
ロシアの地中海進出を防ぐ必要があるので、
ロシアの見張り番をするためにギリシア側で参加
ロシアが好き勝手しないように、
近くで見張っておいたってことですか!
そういうことです。
東方問題ではこうした細かい駆け引きが
国際社会で行われていくのです。
1831年 第1次エジプト=トルコ戦争
★対立勢力
①エジプト&イギリス&フランス&オーストリア
②オスマン帝国&ロシア
★背景
エジプト総督ムハンマド=アリーがオスマン帝国にシリア領有権を要求
→オスマン帝国がこれを拒否し、戦争が発生
★結果
エジプト側が勝利し、シリア領有権を得た
【質問】ムハンマド=アリーがシリアを要求したのはなぜ?
ムハンマド=アリーはギリシア独立戦争でオスマン帝国を支援しましたよね?
そのときの報酬をもらえていなかったんです。
オスマン帝国からすると、
独立戦争の鎮圧にお金を使った挙句、
なにも得るものがなかったので資金難になっています
そんな状況でエジプトに褒美などあげられません。
「じゃあお金じゃなくて、土地をください」
といって、ムハンマド=アリーは土地を要求したのです。
なるほど
シリアはそんなに魅力的なんですか?
シリアにはゴラン高原がありました
高台から敵軍の布陣を見渡すことができる戦略的要地です
しかも冬に雪が積もることで、
春になると雪解け水が得られるため
生活の安定も得られるわけです
けっこう魅力的な土地なので、
オスマン帝国はもちろん譲りません
要求を拒否したオスマン帝国にキレて、
エジプト総督ムハンマド=アリーは戦争をしたのです。
【質問】介入したヨーロッパ勢力の意図は?
まとめるとこんな感じです
★ロシア:オスマン帝国を支援
→戦争の勝敗は関係なく、オスマン帝国に対して見返りを求めるため!
→33年にオスマン帝国とウンキャル=スケレッシ条約を締結(後述)
★イギリス・フランス:エジプトを支援
①ロシアの南下政策を阻止するため、ロシアとは反対側で参戦
※ロシアの真の意図は読めていない
②エジプトを支援する見返りに、スエズ運河建設の利権を狙いたい
★オーストリア
ロシアの南下政策を阻止するため、ロシアとは反対側で参戦
ロシアはオスマン帝国を支援しましたが、
オスマン帝国とともに敗れました
しかしロシアは勝敗など気にしていません。
戦後、ロシアはオスマン帝国に対して言います
「助けてやっただろう?もちろんお礼はあるよな?」
ビビったオスマン帝国は、ロシアに報酬を差し出すのでした
→そしてウンキャル=スケレッシ条約が結ばれます
秘密裡に進められたこの交渉に、
イギリス・フランスなどの国々は反応が遅れました
ロシアは戦争には敗れたものの、
今回はロシアの戦略勝ちです
条約の内容を見ていきましょう
1833年 ウンキャル=スケレッシ条約
★背景
第1次エジプト=トルコ戦争でオスマン帝国を支援したロシアは、
オスマン帝国に支援の見返りを求めた
★内容
オスマン帝国はロシアに
ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の
独占的通行権(自由通行権)を認める
ロシアが求めていた、
ボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の通行権がついに…
そう。
この海峡を通れるようになると、
ロシアは念願の地中海進出をかなえることができます。
今回はロシアの一人勝ちでした
1839年 第2次エジプト=トルコ戦争
★交戦勢力
①エジプト&フランス
②オスマン帝国&ロシア&イギリス&オーストリア
★背景
オスマン帝国がエジプトにシリア領有権の返還を求めたが、
エジプト総督ムハンマド=アリーが拒否 そして戦争が勃発した
★結果
エジプトが敗北し、1840年にロンドン条約で講和
※内容は別途
★影響
エジプトの支援をつづけたフランスは、エジプトから信頼を獲得
→スエズ運河建設利権を獲得した
戦争の流れは簡単なのですが、
介入してきたヨーロッパ勢力の意図が気になりますね!
【質問】介入したヨーロッパ勢力の意図は?
★ロシア:オスマン帝国を支援
→オスマン帝国から支援の見返りを要求しようと考えている
★イギリス・オーストリア:オスマン帝国を支援
→第1次エジプト=トルコ戦争の結果を反省
→あえてオスマン帝国側につき、ロシア軍を監視した
★フランス:エジプトを支援
→エジプトとの信頼関係を構築し、スエズ運河建設利権の獲得をめざす
といった感じになります。
ロシアは第1次エジプト=トルコ戦争のときと同様、
見返り目的でオスマン帝国を支援しました
イギリスとオーストリアはそれを怪しんで、
わざとオスマン帝国側について、
ロシア軍の近くで監視することにしました
フランス スエズ運河の建設利権を獲得
少し話は変わりますが、
エジプト側についたフランスに関してです
フランスは最後までエジプトの味方をし、
エジプトからの利権を得ようとしました
結果としてフランスはエジプトから信頼され、
スエズ運河の建設を認められました
フランスは技師レセップスを派遣し、スエズ運河を建設
1869年にスエズ運河は開通しました
開通後はスエズ運河を運営する株式会社が発足し、
会社の株はフランス政府40%・エジプト政府40%
その他資産家が20%保有することになりました。
※エジプト政府の財政難から、
エジプト政府は1875年に株をイギリスに売却
→その後はイギリスが筆頭株主となり、スエズ運河の経営権を得た
1840年 ロンドン条約
第2次エジプト=トルコ戦争に勝利後、
イギリスは自国で講和会議を開催
→オスマン帝国の利権問題について条約を定めた
★内容
①エジプト総督ムハンマド=アリーはシリア領有権を返還する
→代わりにオスマン帝国はムハンマド=アリーにスーダンの総督世襲権を認める
②1833年のウンキャル=スケレッシ条約を破棄する
→ロシアに与えられたボスフォラス・ダーダネルス海峡の通行権は廃止する
③ボスフォラス・ダーダネルス海峡への外国軍艦の通行禁止を定める
【解説】ムハンマド=アリー シリア領有権の返還とスーダン総督世襲権
今後、オスマン帝国とエジプトの抗争の火種をなくすため、
「シリアはオスマン帝国のもの」
ということが国際的に定められました
そしてムハンマド=アリーはシリア領有権をオスマン帝国に返還しました
これではムハンマド=アリーは不満です
彼に懐柔するために、アメを与えます
ムハンマド=アリーにはスーダン総督世襲権を与えました
総督とは、オスマン帝国の支配地を管理する役のことです
もともと総督の地位は子に譲れないため、
世襲制ではありませんでしたが
ムハンマド=アリーには
エジプトとスーダンの総督を世襲してもいいと定めました
これによってムハンマド=アリーは、
自身の子ども・孫・そのさらに子孫の代まで
エジプトとスーダンを支配しつづけられるようになったのです。
これによってエジプトは実質オスマン帝国から自立しました
これ以降、エジプトを「ムハンマド=アリー朝」と呼びます
【解説】ウンキャル=スケレッシ条約の破棄
イギリスは会議の主催国として、
ライバルのロシアが不利になるような条約を推していきます
イギリスはロシアに好き勝手させまいと、
第1次エジプト=トルコ戦争後に結ばれた
ウンキャル=スケレッシ条約を破棄させました
ウンキャル=スケレッシ条約で定められていた
「ロシアにボスフォラス・ダーダネルス海峡の独占的通行権を認める」
という内容は破棄され、ロシアは地中海方面への南下を阻止されました
【解説】ボスフォラス・ダーダネルス海峡 外国軍艦の通行禁止
イギリスはロシアの地中海進出を止めるため、
さらにたたみかけます
ボスフォラス・ダーダネルス海峡は
オスマン帝国の軍艦以外通ってはいけないと定めたのです
もちろんロシア軍も通行禁止です
これによって、ロシアは黒海から出航した海軍を
地中海に向かわせることができなくなりました
ロシアにとってはつらい条約でしたが、
ロシアはあの手この手で乗り越えようとします
東方問題 後編
1853年 クリミア戦争
★背景
オスマン帝国への南下のため、
ロシアが聖地管理権問題を口実にオスマン帝国に宣戦
★交戦勢力
①ロシア
②オスマン帝国&イギリス&フランス&サルデーニャ王国
★経緯
英仏などがオスマン帝国を支援し、ロシアは孤軍奮闘
クリミア半島のセヴァストーポリ要塞が主戦場となる
★結果
ロシアは孤立し、敗戦
→1856年のパリ条約で講和した
クリミア戦争は、
19世紀後半のロシアが南下政策を成功させるために
オスマン帝国にふっかけた戦争です。
ロシアの野望を止めるべく、
イギリス・フランスなどが参戦し、
オスマン帝国軍を支援しました
特にセヴァストーポリの戦いでは大勢の戦死者・病死者が出て
戦場は血の海になりました
そして孤立したロシアは陸海両方の戦いで敗北し、
結果的に敗戦しました
戦争の流れとしては簡単ですが、
難しい語句が出てくるので説明します
【質問】聖地管理権問題って?
ロシアが戦争の口実とした、
聖地管理権って何ですか?
キリスト教の聖地イェルサレムの管理権のことを指します
この聖地管理権がオスマン帝国からフランスに勝手に移されたことに対し、
ロシアは怒ったとして、戦争を吹っかけました
めちゃくちゃ具体的に言うと、
イェルサレムには、
処刑されたイエスをまつる聖墳墓協会があります
しかし当時のイェルサレムはオスマン帝国領で
聖墳墓教会の鍵はオスマン帝国が持っていました
1850年代になると、
フランスでは皇帝ナポレオン3世が即位します
ナポレオン3世は国内のカトリック教徒からの支持を得るため、
宗教政策を打ち出しました
そして、聖墳墓協会の管理権をフランスのものにせよ
といって、オスマン帝国に脅しをかけました
結果として、オスマン帝国はフランスの要求をのみ
オスマン帝国はフランスに聖地管理権を譲りました
ロシアが動きます
「我らロシアもキリスト教の一派 東方正教会の守護者である」
「すべてのキリスト教徒の聖地の管理権を勝手に受け渡しするなど何事か」
といって、フランスやオスマン帝国に対して怒ったのでした。
これを戦争の口実として、ロシアはオスマン帝国への侵攻を始めるのです
英・仏・サルデーニャ王国の意図
イギリスやフランスは、
この戦争がロシアの南下政策のために行われていると見抜いていました
だからロシアを止めるために、オスマン帝国を支援します
サルデーニャ王国は先にも述べましたが、
イタリア統一のために、
フランスの援助を得ようと考えました
そのためにまず、
フランスからの信頼を獲得するため、
クリミア戦争のときにフランスを支援しました
【文化的影響】ナイティンゲールと国際赤十字社
クリミア戦争で、敵味方なく兵士の命を救った女性がいます
イギリスの看護師フローレンス=ナイティンゲール
若いころから有名な美女で、
男から告白されたり、求婚されることもしばしば
彼女に求婚した男性はことごとく振られ、
ついには失恋のショックで自殺する男性も現れるほど…
彼女は結婚せずに、
「自分にしかできないことを成し遂げたい」
といって、自分磨きをつづけるのでした
そしてチャンスが訪れました
クリミア戦争では、傷病兵が多かったため
戦場に医療班が送られました
彼女も医療班の一員として参加しました
彼女が現地でまずおこなったのはデータ分析です
なんのデータを分析したのですか?
兵士の死因ですね
すると意外なことがわかります
戦争で死んだ兵士よりも、感染症で死んだ兵士の方が多かったのです
これはつまり、感染症をふせぐことができれば、
多くの兵士の命を救えるということです
ナイティンゲールはすかさず、
医療機器やベッドなどの消毒をはじめ、
傷病兵の衛生面を整えました
すると、感染症で亡くなる兵士を大勢減らすことができたのです
ナイティンゲールは命あるものならば、
敵味方関係なく救い出し、施術を施しました
そしてついた異名が「クリミアの天使」
目覚ましい活躍でした
ナイティンゲールの活動に感銘を受けた人物がいます
スイスの実業家 アンリ=デュナン
彼もまた戦争の残酷さを目の当たりにした人で
戦地で命を救う活動を行っているナイティンゲールに感激しました
そしてアンリ=デュナンは国際赤十字社を結成するに至りました
1856年 パリ条約
1856年 ロシアが敗戦し、講和条約としてパリ条約が結ばれました
敗戦したロシアは不利な条件をのまされることになります
①ボスフォラス・ダーダネルス海峡の外国軍艦通行禁止を再確認する
②黒海の中立化
③ロシアは黒海沿岸のベッサラビアの領有権を失う
なかでも①と②が重要です!
詳しく解説します
ボスフォラス・ダーダネルス海峡の外国軍艦通行禁止
コチラの内容は、前回のロンドン条約で定められたものですが
ロンドン条約締結から16年もたっているので、
「再確認する」という意味で、パリ条約に書き加えられました
これによってロシアはボスフォラス・ダーダネルス海峡を通ることができず
もちろん地中海にも進出できません
黒海の中立化とは?
「黒海に軍港を持ってはいけない」
という意味です
つまりロシアは黒海沿岸に軍港を設置できず
もちろん海軍の軍艦は黒海の港から出港できません
黒海から地中海へ軍艦を派遣することもできなくなりました
パリ条約によって、ロシアは南下政策の息を止められたのでした
ロシアの南下政策はこれで挫折する…
はずだった
1877年 露土戦争(ロシア=トルコ戦争)
★背景
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの白人キリスト教徒がオスマン帝国に独立運動を展開
→オスマン帝国は独立運動を武力で鎮圧し、ボスニア市民を虐殺
→ロシアがボスニアのキリスト教徒の保護を口実に出兵した
★結果
諸外国が介入する前に早期決着
→ロシアは講和条約として1878年にサンステファノ条約を締結した
今回は一方的な展開で決着がついたんですね!
戦争の流れは簡単なので、
難しいところと講和条約の内容を詳しく説明しますね
ボスニア・ヘルツェゴヴィナとは?
オスマン帝国領となっていた、バルカン半島の小国です
バルカン半島にはセルビア・モンテネグロ・ルーマニア
ブルガリア・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ギリシアなどの小国がありました
この地はかつて東ローマ帝国の領土であったことから、
白人キリスト教徒が多く住んでいます。
1453年にオスマン帝国は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼし、
バルカン半島の領地を奪いました
だいたいこのころから、
バルカン半島の小国たちは
オスマン帝国の支配下にあったのでした。
バルカン半島の小国たちの中でも、
ギリシアは1829年に独立を達成しましたが、
セルビア・モンテネグロ・ルーマニア
ブルガリア・ボスニア・ヘルツェゴヴィナは
独立を達成していませんでした
そして1870年代
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの独立運動が過熱し
オスマン帝国が鎮圧軍を派遣
オスマン帝国は現地のキリスト教徒たちを虐殺してしまうのでした
ロシアは言います
「虐殺されたキリスト教徒がかわいそうだ」
「ロシアがバルカン半島のキリスト教徒を自由にしてやる」
どの口が言ってるねんって感じですが、
ロシアはバルカン半島に自由をもたらすヒーローとして
オスマン帝国に挑みました
1878年 サン=ステファノ条約
一方的に敗北したオスマン帝国は、
ロシアから不利な条件を飲まされます
①オスマン帝国はルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を承認する
②ブルガリアの領土を拡大し、ロシアの保護領とする
③ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは自由主義改革を実施すること
④ロシアはパリ条約で失ったベッサラビアの領有権を回復する
この中でおぼえてほしいのは①と②です
①は白人のキリスト教国を独立させたことなので、話は簡単ですが
②は少しややこしいので、地図付きでしっかり意味を説明します
【解説】ブルガリアを拡大して、ロシアの保護下に置く 意味は?
ロシアはブルガリアを保護下に置きました
しかもブルガリアの領土が不自然に大きい(笑)
ロシアの思惑は?
これはロシアが地中海に進出するための布石です
ブルガリアの領土をよく見てください
地中海に面した港と黒海に面した港を両方持っています
この中でも、地中海に面した港があることが重要です
地中海沿いの港にロシア軍艦を停泊させれば
ロシアは地中海に進出することができてしまうのです
ロシアの執念を感じますね(笑)
このように地中海に直接港を作れば、
ロシアはボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を通らずに
地中海に進出することができます
パリ条約で定められた国際規定に違反することなく、
地中海に南下できちゃったのです。
これでロシアは念願の地中海進出を…
「ちょっと待った!」
イギリスを中心とした国々が、
ロシアの南下政策を阻止するために、
ロシアにいちゃもんをつけ始めました
もちろんロシアも応戦し、
ヨーロッパ諸国は大戦争の危機に陥ります
1878年 公正なる仲買人 ビスマルク ベルリン会議を開催
露土戦争で地中海進出を成功させたロシア
ロシアの地中海進出を止めようとするイギリス・オーストリアらの間で
戦争が起こりそうになりました。そこで…
「私がどうにかしましょう」
「私は公正なる仲買人です」
と言ってこれらの国々の間を取り持った人物がいます
ドイツ帝国宰相ビスマルクです
ビルマルクはドイツ首都ベルリンで国際会議を開きました
そしてロシアにサン=ステファノ条約を破棄させ
1878年にベルリン条約を結んで、各国の利害を調整しました
参加国はイギリス・オーストリア・ロシア・ドイツ帝国です
【質問】ドイツがわざわざ戦争を阻止したのはなぜ?
ドイツ宰相ビスマルクが
各国の利害を調整して、
戦争になることを防いだのはなぜですか?
ドイツの地理的条件にヒントが隠れています
ドイツはヨーロッパの中央に位置します
他国と対立すれば、すぐに挟み撃ちにされてしまいますし
何より、隣国同士が戦争すれば
間に位置するドイツが戦場になる可能性もあります
イギリスとロシアが直接対決すれば、
ドイツも戦争に巻き込まれてしまう可能性もあるため、
ドイツは常に外交に細心の注意を払う必要があるのです。
【質問】フランスは不参加 なぜですか?
ロシアが地中海に南下すれば、
フランスはスエズ運河利権をおびやかされます
フランスはベルリン会議に参加しなかったんですか?
もちろんフランスにも利害関係はありますが、
フランスは参加しませんでした
これは主催国のドイツに恨みがあったからです
ドイツは統一前のプロイセン時代、
普仏戦争(1870年)でフランスを破り、
フランスに莫大な賠償金を課し、
領土を奪った挙句、
ドイツ統一後のドイツ皇帝の戴冠式を
フランスのヴェルサイユ宮殿で行いました
これらのドイツの行いに対してフランスはブチギレ
ドイツが主催する会議には参加しませんでした
1878年 ベルリン条約
ベルリン会議によって、ロシアはサン=ステファノ条約を破棄
新たにベルリン条約が結ばれ、情報が更新されました
①ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を承認する(そのまま)
②ブルガリアの領土は縮小し、オスマン帝国内の自治領とする
③オーストリアはオスマン帝国からボスニア・ヘルツェゴヴィナの管理権を得る
④イギリスはキプロス島の行政権を獲得する
全体的にみると、
ロシアは何も得ていませんよね?
しかもちゃっかり
オーストリアとイギリスが利権を得てますけど(笑)
ビスマルクは外交の天才です
ドイツの安全を守るため
会議の主催国として、わざこの内容でまとめました
ロシアに利権を与えてしまうと、
「ビスマルクめ、やってくれよって」
と言わんばかりにイギリスやオーストリアから責め立てられます
これではドイツの敵を増やしてしまいます
だから大前提として、ロシアには何も与えないようにしました
ロシアは怒らないんですか?
もちろん怒りましたよ(笑)
ビスマルクは、ロシアに嫌われることは承知でした
ビスマルクは次の策をうちます
「ロシアから嫌われても、他の国から好かれていればいい」
とビスマルクは考え、
何もしてないオーストリアとイギリスに利権を与えたのです
こうすればイギリスとオーストリアは
「ビスマルク(ドイツ) よくやった」
となるわけです。
これでイギリスとオーストリアは完全にドイツ側につきました
さすがのロシアも、
イギリス・オーストリア・ドイツのすべてを敵にまわすと分が悪い
ロシアはこれ以上反論できなくなりました。
すべてはビスマルクの手のひらの上ってことですね
あとは、条約の内容を軽く説明しておきますね
①ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を承認する
→こちらはサン=ステファノ条約と内容が変わらないので割愛します
②ブルガリアの領土は縮小し、オスマン帝国内の自治領とする
サン=ステファノ条約のとき、
ブルガリアは地中海と黒海に面した国となり
ロシアの保護下におかれましたが…
ベルリン条約ではブルガリアの領土は縮小されました
しかもロシアの保護下から離れ、
オスマン帝国内の自治領となりました
※ブルガリアの独立はもっと先です
これによってロシアの地中海進出プランは失敗に終わりました
③オーストリアはオスマン帝国からボスニア・ヘルツェゴヴィナの管理権を得る
オスマン帝国は「瀕死の病人」と言われ、
もはや支配地を管理する力がありません
こうした背景から、
オーストリアにボスニア・ヘルツェゴヴィナの管理権をゆだね、
現地の治安維持をしてもらうことにしました
※将来的にオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合します
④イギリスはキプロス島の行政権を獲得する
キプロス島はアナトリア半島の南に浮かぶ島です
この地はスエズ運河の防衛拠点として便利です
スエズ運河ってフランスがつくったんじゃ?
1875年にイギリスに経営権がうつったのです
ベルリン会議の3年前
1875年にイギリスはスエズ運河の経営権を買収しました
そのため、スエズ運河を守るのに好都合な土地を得たのです
【東方問題のその後】ロシアの動向
ボスフォラス・ダーダネルス海峡を通れず
黒海に軍港を置けず
泣きの一手のブルガリア拡大計画も失敗
ロシアは地中海方面への南下政策を諦めました
しかしロシアは南下政策自体は諦めませんでした
ロシアは19世紀末~20世紀初めの間に
南下政策の方向をアジア(中国・インド方面)に変えました
そして、ロシアは中国北部の領土を次々に獲得していきます。
「このままではロシアに吞み込まれる」
と警戒した日本が、日露戦争(1904年)で
ロシアを阻止しようとすることになります。
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