イタリア統一(リソルジメント)【総集編】 流れとポイントを地図付きでわかりやすく

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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Q&A 疑問の解決
  1. こんな人におすすめ
  2. 読者の皆さんへのメッセージ
  3. イタリア統一背景と課題
    1. イタリア統一の背景
      1. イタリアはバラバラ国家
      2. 19世紀 イタリアが統一に向けて動き出す なぜ?
    2. イタリア統一までの課題
      1. 平等な社会づくり
      2. 外国勢力の追放
    3. 【質問】イタリア統一の主役 サルデーニャ王国とは?
  4. 通史 イタリア統一 挫折の歴史(19世紀前半)
    1. カルボナリの乱(失敗)
    2. 1831年 マッツィーニ 青年イタリアを結成
      1. 青年イタリアとは?
      2. 1849年 マッツィーニ ローマ共和国を建国
      3. 【質問】なぜフランスが介入してきたのですか?
    3. 1848年 サルデーニャ国王 カルロ=アルベルトの蜂起
  5. 通史 イタリア統一 成功へ(19世紀後半)
    1. サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と首相カヴール
      1. 【余談】「敵にまわしたくない男」カヴール
    2. カヴールのイタリア統一プラン
    3. 1858年 プロンビエール密約
  6. 1859年~ イタリア統一戦争 成功へ
    1. ロンバルディアの奪還
    2. フランスがオーストリアと単独講和(なぜ?)
      1. 【理由①】ローマ教皇の身柄が危ない
      2. 【理由②】イタリアがバラバラで弱い方が、国境防衛が楽
      3. 【質問】割譲予定のサヴォイアとニースはどうなったの?
      4. 【図解】フランス離脱後の状況
    3. 1860年 ガリバルディの登場
      1. ガリバルディ 両シチリア王国のスペイン=ブルボン朝を打倒
      2. 【質問】ガリバルディ ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世からの評価は?
      3. ガリバルディ 南イタリアをサルデーニャ王国に献上
    4. 中部イタリアの併合
      1. 【図解】南イタリア・中部イタリア併合後の状況
    5. 1861年 イタリア王国の成立
      1. 【質問】イタリア全土の統一前に、イタリア王国の建国を宣言 なぜ?
      2. 【質問】最初の首都はトリノ なぜ?
    6. 1866年 プロイセンと同盟 オーストリアからヴェネツィアを奪還
      1. 【質問】プロイセンと同盟を結んだのはなぜ?
      2. 【質問】プロイセン側のメリットは?
      3. 【質問】ヴェネツィアだけでなく、他の領地も取り戻せなかったんですか?
    7. 1870年 ローマ教皇領の奪還
      1. 【質問】なぜこのタイミング?(1870年)
    8. 未回収のイタリア問題
      1. 【質問】のちの歴史への影響は?
    9. イタリア統一後の外交関係まとめ

こんな人におすすめ

イタリアの統一について学んでいるんですが

難しくてよくわかりません。

誰かわかりやすく教えてください。

とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方

対象語句

イタリア統一の流れとポイントを詳しく解説します

①イタリア統一の背景

②イタリア統一までの課題

サルデーニャ王国の登場(なぜイタリア統一の主役に?)

 

④イタリア統一 挫折の歴史(19世紀前半)

1820年 カルボナリの乱の失敗

1831年 青年イタリアの結成

→青年イタリア ローマ共和国の建国と挫折

1848年 サルデーニャ国王 カルロ=アルベルトの蜂起(失敗)

 

⑤イタリア統一 成功へ(19世紀後半)

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と首相カヴールの登場

1858年 プロンビエール密約

→フランスへの同盟交渉のため、クリミア戦争に参戦

1859年 イタリア統一戦争勃発

ロンバルディアの奪還

1859年 フランスがオーストリアと単独講和(なぜ?)

1860年 救世主 ガリバルディの登場

両シチリア王国の滅亡 サルデーニャ王国への南イタリアの献上

1860年 サルデーニャ王国 中部イタリアを併合

1861年 イタリア王国成立

1866年 プロイセンとの同盟とヴェネツィアの奪還

1870年 ローマ教皇領の占領

「未回収のイタリア」問題

 

⑥イタリア統一後の外交関係

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

イタリア統一背景と課題

イタリア統一の背景

イタリアはバラバラ国家

ローマ帝国が滅亡して中世に突入して以降、

イタリアは小さい共和国や王国に分かれていました。

方言の違いはあれど、同じイタリア語を話すのですが、

イタリアは1861年までバラバラの状態が続いていました。

 

有名な国で言うと、ジェノヴァ・ヴェネツィア

サルデーニャ王国

両シチリア王国(ナポリとシチリアにまたがる)

上げだすときりがありません(笑)

 

そしてややこしいことに、

ローマ教皇が自分の領地を持っていて、

「ローマ教皇領」という名の一種の国家が存在していました

 

このような感じでイタリアはバラバラ状態が続いていたのです。

 

19世紀 イタリアが統一に向けて動き出す なぜ?

イタリア統一の背景

①フランス革命による、自由・平等の思想の浸透

→「イタリアを自由で平等な国につくりかえよう」という意識の芽生え

 

ウィーン議定書によるオーストリアへの領土割譲への疑問

オーストリアの支配地を解放するため、イタリア人が団結した

 

19世紀はヨーロッパにとって激動の時代でした

フランス革命によって絶対王政が打倒され、

フランスが自由で平等な国になりました

 

そんなフランスに刺激されて、

ヨーロッパ各国の市民階級が

自国でも自由で平等な社会を築こうと考えました

 

その後、フランスでナポレオンが皇帝となり

ヨーロッパ各地に勢力圏を拡大

ナポレオンがイタリアを一時的に支配していた時期があります(1804~1814年)

そのころに、ナポレオンは高圧的にイタリアを支配せず

自由で平等な社会を築くために諸改革を行いました。

 

しかしナポレオンの没落後、

理不尽な悲劇がイタリアを襲います

1815年 ウィーン議定書の締結

この国際条約で北イタリアの

ヴェネツィア・ロンバルディアをオーストリアに割譲する

ということが定められました

イタリア人が住むイタリア固有の地が、

一方的にオーストリアに奪われたのです

 

「ヴェネツィアとロンバルディアを解放し、オーストリアを追い出そう」

という意識がイタリア人の中に芽生えたのですが、

オーストリアは超大国です

小国がバラバラに乱立しているイタリアに勝ち目はありません。

 

こうした背景から、

「イタリアには団結が必要だ」

という声が強まっていったのです。

 

イタリア統一までの課題

イタリアを自由で平等な統一国家にするために

以下の点が課題となりました。

イタリア統一の課題

①平等な社会づくり

→ローマ教皇らが独占している教会財産の分配

 

②外国勢力の追放

北イタリアのオーストリア軍の追放

・南イタリア 両シチリア王国ブルボン朝の打倒

 

平等な社会づくり

ローマ教皇や、教皇直属の各地の教会は財産を蓄えている一方で

市民は貧しい生活を送っている

イタリアには貧富の差があったのです

ローマ教皇らが中世以来たくわえている財産を奪い

これを皆に分配することが、イタリアを平等にするキーになります。

 

教会が豊かだったのはなぜですか?

 

フランス革命のときにもありましたが、

キリスト教のカトリック教会には、

信者から十分の一税を集める権利があります

 

他にも、中世の暗黒期の頃

神の救いを求めた民から、土地を寄進されることもありました

 

このようにして教会は、

金と土地といった財産を蓄えていたわけです

 

これらの財産をうまくイタリア国民に分け与えれば

イタリアはもう少し平等になるはずなのです。

 

外国勢力の追放

すべてのイタリア人が自由になるためには、

外国勢力をイタリアから追い出す必要がありました

 

そして「イタリア人のイタリア人によるイタリア人のための国家」

を築き上げることが目標となります。

 

でも1815年のウィーン議定書締結以降のイタリアを見ていくと、

北部のヴェネツィア・ロンバルディアなどはオーストリアの支配下に

南部のシチリア・ナポリ(両シチリア王国)

スペイン=ブルボン朝の支配下に置かれることになりました

異国によって支配された土地を解放し、

イタリア人を自由にすることが、

イタリア統一戦争の課題となりました。

 

こうした外敵を倒すためには、

イタリア人がバラバラのままではいけない

イタリア人の団結が不可欠でした

こうした背景から、イタリア人の心がひとつになっていくのです

 

【質問】イタリア統一の主役 サルデーニャ王国とは?

サルデーニャ王国 ポイント

地中海に浮かぶ小さい島国

本拠地はサルデーニャ島

他にヨーロッパの大陸側にサヴォイア・ニースなどの所領を持つ

 

著名な国王は19世紀中ごろのカルロ=アルベルト

19世紀後半にイタリア統一を達成する ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

 

サルデーニャ王国が

イタリア統一の中心になれたのはなぜですか?

漁業と工業で栄えていたからですね。

サルデーニャ王国はもともとイワシの漁業が盛んな国です

サルデーニャとは、英語になおすとサーディン(イワシ)

イワシ王国というわけです。

 

他にも工業が盛んでした

サルデーニャ王国はイタリアとフランスの間にある島です

先進国フランスと貿易することが多く、

その過程で最新の技術や製品に触れる機会が多かったのです

 

経済的に豊かになったサルデーニャ王国は、

イタリア統一運動の主役を飾ることができたのです。

 

通史 イタリア統一 挫折の歴史(19世紀前半)

カルボナリの乱(失敗)

カルボナリの乱 ポイント

イタリアの自由化と外国勢力からの解放をめざした地下組織

「カルボナリ」は炭焼き職人を意味する

1820年代にナポリで両シチリア王国のブルボン朝打倒をめざして蜂起

他にも北イタリアのピエモンテオーストリア勢力の追放をめざして蜂起した

 

★結果

オーストリアがカルボナリ鎮圧のために介入

カルボナリの乱は失敗に終わる

 

カルボナリは地下組織でした

警察から隠れて活動する必要があるため、

党員は社会的地位の低い「炭焼き職人」のふりをしながら、

あまり目立たないように暮らしていました

 

しかし夜になると地下で会合を開き、

イタリアを自由にするためのプランが話し合われました

 

そのプランは実行に移され、

「南イタリアをスペイン=ブルボン朝の支配から解放せよ」

「北イタリアをオーストリアから解放せよ」

といって、大反乱を決行するのでした

しかし、カルボナリの党員数は少なく

鎮圧に動いたオーストリア軍に粉砕されてしまうのでした

カルボナリの党員は少数ですか…

 

ほかの市民の協力は得られなかったのですか?

カルボナリは地下で目立たないように活動していたので、

 

市民からの知名度は十分ではありませんでした。

 

表立って活動して、

宣伝ポスターでもばらまけば

人は自然に集まるものなのですが、

オーストリア軍から気づかれないように動いたのがアダとなりました

 

少人数では革命は成り立ちません

カルボナリには限界があったのでした

 

1831年 マッツィーニ 青年イタリアを結成

青年イタリアとは?

マッツィーニの青年イタリア ポイント

★結成の背景

1830年 フランスで市民革命(七月革命)が発生し、成功

→イタリア人も刺激を受け、イタリアの自由化への意識が高まっていた

 

青年イタリアとは?

マッツィーニが結成した革命結社

目的はイタリアの統一・外国勢力の追放

イタリアを自由平等共和国とする「自由主義憲法」の制定

カルボナリとは違い、大々的に活動を行っていた

 

★結末

1849年 ローマ共和国の建国を大々的に宣言

→しかし、フランス大統領ルイ=ナポレオンの介入によって挫折

→その後、青年イタリアの遺志はガリバルディに受け継がれた

 

1830年代は各地で自由主義運動のビッグウェーブが起こっていた時期でした

その原因はフランスでの七月革命の成功

フランスの市民たちが協力して、

復活したブルボン朝の王政を終わらせました

 

このニュースはヨーロッパ各地に伝わり、

ヨーロッパ各地で自由主義運動が活性化したのです。

 

イタリアもその例で、

マッツィーニ青年イタリアを結成

イタリアを自由平等共和国にするために立ち上がりました

※共和国=王がいない国(アメリカなどもそうですね)

 

マッツィーニとはどんな人なんですか?

マッツィーニは元カルボナリの党員です。

 

先ほども述べましたが、

カルボナリは地下組織で、

市民への宣伝力が弱く、

多くの市民を巻き込むことができませんでした。

 

カルボナリのやり方に限界を感じたマッツィーニは

大々的に革命結社を立ち上げ、市民に宣伝活動をおこないました

 

「イタリアを自由で平等な国にするぞ」

「平等な国にするために、ローマ教皇の財産をどうにかするぞ」

「オーストリアやスペイン=ブルボン朝を追い出すぞ」

と言って市民を巻き込んでいきました

 

1849年 マッツィーニ ローマ共和国を建国

そして1849年 マッツィーニは本格的に動き出します

マッツィーニはローマで「ローマ共和国」の建国宣言を行いました

なんで1849年に動き出したのですか?

この前年の1848年 フランスで二月革命が成功

隣国での革命の成功に、イタリアの市民たちは大いに盛り上がりました

そして市民たちは

イタリアを自由・平等な社会にするために動き出します

 

市民たちは財産がたっぷりあるローマ教皇領を襲いました

ローマ教皇は逃げ延び、

ローマ教皇領の首相は暗殺されました

 

マッツィーニはそんなローマに自治政府「ローマ共和国」を立ち上げ、

燃え上がっている市民たちを統率しました

 

しかし、フランス大統領ルイ=ナポレオンによって

ローマ共和国は砕かれてしまいました

 

【質問】なぜフランスが介入してきたのですか?

フランス大統領ルイ=ナポレオンの政治戦略のためです

ルイ=ナポレオンは国民投票によって大統領になった人物

権力を維持するためには市民からの人気が必要でした

 

ルイ=ナポレオンはフランス国内のカトリック信者に注目しました

フランスではカトリック信者が圧倒的多数です

 

そこでルイ=ナポレオン

カトリック教会の総本山 ローマ教皇がピンチに立たされている

このままでは信者たちが神からの救いを得られなくなる!

私がカトリックの宗教界を安定に導いてやろう

といって、隣国イタリアに住まうローマ教皇の救出に動いたのでした

 

1848年 サルデーニャ国王 カルロ=アルベルトの蜂起

カルロ=アルベルトの蜂起 ポイント

★背景

1848年 隣国フランスで二月革命が成功

→イタリアの市民も刺激を受け、イタリアの自由主義運動が活発化した

 

★結果

サルデーニャ国王 カルロ=アルベルト

北イタリアのオーストリア軍追放をめざして蜂起

オーストリアの介入によって失敗

 

カルロ=アルベルトはどんな人物なんですか?

経済力が豊かなサルデーニャ王国の国王です

 

カルロ=アルベルトは「承認欲求」が強い人物だったので

「誰から自分を認めてもらいたい」

「歴史に名が残ることをしたい」

という、ちょっとした野心がありました

 

しかし、市民からの人気はなく

彼の心はくすぶっていました。

 

そんな彼のもとにビッグニュースが到来

1848年 フランスで二月革命が成功し

隣国での革命成功のニュースに、市民たちは盛り上がっています

 

この市民たちを巻き込んで、

俺の力で北イタリアのオーストリア軍を追放すれば…

「俺の名が歴史に残る!!」と考え、

準備不足のまま挙兵して

北イタリアのオーストリア軍に突撃するのでした

 

オーストリアも最新式の軍備をそろえた兵団を送り

カルロ=アルベルトの乱の鎮圧に動きます

 

超大国の軍団を、小国の準備不足の兵団で倒せるはずはなく

カルロ=アルベルトの乱は失敗に終わりました

 

通史 イタリア統一 成功へ(19世紀後半)

サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と首相カヴール

1849年 先代国王カルロ=アルベルトが退位し

新たにヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位しました

彼は頭の切れる男 カヴールを首相に任命しました

 

そして

「イタリアを自由で平等な国にする」

「イタリアから外国勢力を追放する」

という市民たちの悲願をかなえにかかるのでした

 

【余談】「敵にまわしたくない男」カヴール

カヴールはサルデーニャ王国の政治家

頭の切れる現実主義者で

意見をトゲトゲしくはっきり言ったため、

国王と対立することがよくありました

 

しかし彼の実績から、

国王も彼の手腕に頼らざるを得ない部分が多かったため

結局は実力派のカヴールを起用することとなりました

 

カヴールの才覚は

プロイセンの天才首相ビスマルクからも絶賛され、

ビスマルクから「敵に回したくない男」

と評されました

 

カヴールのイタリア統一プラン

イタリア統一への課題と解決策

★これまでの革命の反省点

宣伝力が弱く、市民を巻き込むことができていなかった(カルボナリ)

②不意に隣国から介入を受けた(マッツィーニ)

③圧倒的準備不足(カルロ=アルベルト)

 

★カヴールが打ち出した解決策

国王が中心となって、10年計画でイタリア統一の準備を進める

外交交渉によってフランスを味方につけ、革命の成功率を上げる

 

カヴールはこれまで頓挫してきた運動の反省点を見出し

それを克服してからイタリア統一戦争にのぞもうと考えました

そして就任後、10年スパンでイタリア統一の準備を始めていくのです

 

1858年 プロンビエール密約

プロンビエール密約 ポイント

★下準備

1853年のクリミア戦争サルデーニャ王国が参戦

→フランス軍を支援し、フランスからの信頼を獲得

 

★内容

サルデーニャがフランスにサヴォイア・ニースを割譲する見返りに

オーストリア軍との戦いにおいて、フランス軍からの支援を受けることに成功

 

カヴールはイタリア統一戦争の仮想敵国をオーストリアとし、

オーストリアとの戦いのために、フランスの力を借りようと考えました。

 

でも、いきなりフランスに「助けてくださいお願いします」

ってお願いしても、フランスはさすがに困ります(笑)

 

そこで、まずはフランスに恩を売って、信頼関係を得てから

フランスに援助を乞うことにしたのです。

 

そして、サルデーニャ王国1853年クリミア戦争に参戦します

クリミア戦争では

ロシアとオスマン帝国・イギリス・フランス連合軍が交戦しました

この戦争でサルデーニャ王国は、フランス側を支援

フランス皇帝ナポレオン3世(ルイ=ナポレオンと同一人物)に恩を売りました

 

そして、ナポレオン3世とひそかに交渉をすすめ、

プロンビエール密約の締結にこぎつけました

 

密約の内容は、

①サルデーニャ王国はフランスにサヴォイア・ニースを割譲する

②その見返りに、フランスはイタリア統一戦争においてサルデーニャ王国を支援する

→つまり、フランスはオーストリアと戦うということです

「領地というエサをやる代わりに、イタリア統一を助けてくれ」

ということですね。

 

準備は整いました

カヴールがイタリア統一戦争を始めます

 

1859年~ イタリア統一戦争 成功へ

イタリア統一戦争は長いので、

細かい章に分けて章順を追って説明します

流れとしてはこんな感じです

イタリア統一戦争 ポイント

1859年 イタリア統一戦争勃発

ロンバルディアの奪還

 

1859年 フランスがオーストリアと単独講和(なぜ?)

 

1860年 救世主 ガリバルディの登場

両シチリア王国の滅亡 サルデーニャ王国への南イタリアの献上

 

1860年 サルデーニャ王国 中部イタリアを併合

→フランスへサヴォイア・ニースを正式に割譲

 

1861年 イタリア王国成立

 

1866年 プロイセンとの同盟とヴェネツィアの奪還

 

1870年 ローマ教皇領の占領

 

 

ロンバルディアの奪還

イタリア統一戦争の目的のひとつ

 

オーストリアに奪われていた

ヴェネツィア・ロンバルディアなどの北イタリアの旧領を取り戻す

 

そのためにサルデーニャ王国はフランスの力を借り、進撃します

フランス軍と共闘し、ロンバルディアの奪還に成功

緒戦はサルデーニャ軍有利に進みます

 

しかし、アクシデントが起こります

 

フランスがオーストリアと単独講和(なぜ?)

フランスのナポレオン3世は

イタリア統一戦争の初期だけ参戦し

 

オーストリアとヴィラフランカの和を結び、

オーストリア軍と講和してしまいました

 

サルデーニャ王国は単独で

オーストリアと戦わなければならなくなったのです

フランスはなぜ離脱したのですか?

理由は2つあります

 

フランスが離脱した理由

①カトリックの総本山 ローマ教皇の身柄が危ないから

イタリアがバラバラで弱い方が、国境防衛が楽

 

【理由①】ローマ教皇の身柄が危ない

フランスはカトリックが多数派を占める国です

ナポレオン3世はフランスのカトリック信者へのパフォーマンスのため、

カトリック教会の首長 ローマ教皇を救おうと考えました。

 

ナポレオン3世も皇帝であるとはいえ、

国民投票をつうじて皇帝となっているため

市民への政治パフォーマンスは不可欠です

人気がなければすぐに引きずり落とされてしまいますからね

 

話を戻します

ローマ教皇はイタリアにおり、

イタリアで戦闘が起こればローマ教皇の身柄が危うくなります

フランス軍はイタリアでの戦闘をやめ、

そのまま軍をローマ教皇領に移しました

そしてローマ教皇の保護に動いたのです

 

【理由②】イタリアがバラバラで弱い方が、国境防衛が楽

フランスにとっては、隣国がバラバラで弱い方が好都合です

 

隣に「イタリア人オールスターズ(仮)」という巨大な勢力が現れてしまう

強大な国が隣にいると、もちろん国境警備は大変です

フランスはよくよく考えると、

「イタリアが統一されると、少しめんどくさくね?」

と思い始めたわけです

だからフランスは途中で

イタリアの統一を望まないようになっていきました。

 

イタリア人はフランス人に不信感を持つようになっていきます

「すぐに裏切りやがって」とね

これがのちの同盟関係に影響することとなります

 

【質問】割譲予定のサヴォイアとニースはどうなったの?

フランス軍はイタリア統一戦争から離脱

 

フランスはプロンビエール密約を破ってますよね?

ご褒美のサヴォイアとニースはどうなるんですか?

結局、サヴォイアとニースはフランスに割譲されませんでした

 

だってフランスが一方的に約束を破っているわけですからね

フランス側に大義はありませんでした。

 

【図解】フランス離脱後の状況

フランス離脱後の状況

・サルデーニャ王国:ロンバルディアの他に、北イタリア領の奪還をめざす

→ほかにも、イタリア全土の統一運動を同時並行で行う

 

・中部イタリア・南イタリア:変化なし

 

・フランス:イタリア統一戦争から離脱

軍をローマ教皇領に駐屯させ、ローマ教皇を保護

・オーストリア:北イタリアの領土を守るため、サルデーニャ軍と交戦中

 

という形になります

地図でざっくりイメージをとらえておいてくださいね!

1860年 ガリバルディの登場

ガリバルディ ポイント

①青年イタリアの残党を率い、赤シャツ隊(千人隊)を結成

 

南イタリアシチリア・ナポリで革命運動を起こし、

両シチリア王国スペイン=ブルボン朝を打倒

 

③サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に謁見

南イタリアの占領地を献上した

 

めっちゃいいやつじゃないですか(笑)

ガリバルディ 両シチリア王国のスペイン=ブルボン朝を打倒

ガリバルディ青年イタリアのメンバーでした

マッツィーニによるローマ共和国の建国にかかわりました

ローマ教皇の保護のため、フランス軍がローマ共和国に介入したが

ガリバルディはフランス軍を少数精鋭の兵力で打ち破りました

このころにガリバルディは名を上げました

 

しかしフランス軍の圧倒的兵力の前に、

ローマ共和国は崩壊

ガリバルディは部下を引き連れてローマを脱出しました

そしてアメリカに渡り、しばらく隠遁生活を送ります

 

サルデーニャ王国によるイタリア統一運動が始まったと聞き

ガリバルディはイタリアにもどります

 

そしてシチリア島のパレルモで蜂起し、

そのままナポリにわたって両シチリア王国スペイン=ブルボン朝を滅ぼしました

 

【質問】ガリバルディ ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世からの評価は?

ガリバルディに対して、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は警戒していました

警戒した理由は?

ガリバルディが元々いた組織「青年イタリア」は

 

共和制(王がいない政治)をめざす組織でした

 

ガリバルディがその残党ということは、

ガリバルディも国王がいない政治を望むはずです

 

かたやヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は国王の身分

「勢いをつけたガリバルディが、自分を引きずり下ろしにくるのでは?」

と警戒したわけです

 

しかし、思惑は外れました

 

ガリバルディ 南イタリアをサルデーニャ王国に献上

ガリバルディはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に合流しました

 

「国王陛下 イタリアの統一にはあなたの力が不可欠です」

「南イタリアの領地をあなた様に献上いたします」

 

さすがのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世も

ガリバルディの野心のなさにビックリしました

 

こうして棚からぼた餅的な展開ですが、

サルデーニャ王国は南イタリアの地を制することができました

 

中部イタリアの併合

中部イタリア併合 ポイント

サルデーニャ王国は中部イタリアの併合に成功

 

中部イタリア併合の過程で、

ローマ教皇領を守るフランス軍との戦闘の危機があったが

フランスにサヴォイアとニースを無償で割譲することで、

フランスとの戦闘は免れた

 

イタリア統一運動を進めていたサルデーニャ王国は

中部イタリアに進撃します

しかしその過程で問題が発生

 

ローマ教皇の身を守るため、フランス軍が駐屯しています

 

中部イタリアに軍を進めると、

フランス軍から

「ローマ教皇の命と財産を狙っているのではないか?」

と怪しまれます

 

下手をうつとフランス軍と戦闘になり、

兵力を消耗することとなります。

 

オーストリア軍との戦闘にも備え、

どうにかフランス軍との戦闘は避けたいところでした

そこで首相カヴールが一計を案じます

 

「ここはフランスから信用してもらうしかない」

「フランスにサヴォイアとニースを割譲しよう

 

「ナポレオン3世どの、サルデーニャ王国に野心はありません」

「中部イタリアの併合をいたしますが、ローマ教皇の身柄の安全は約束します」

「その心の現れとして、我が国固有の領土 サヴォイアとニースを割譲します」

と言って、フランスにすり寄ったのです

 

ここまでされると、人情に厚いフランス皇帝ナポレオン3世は断れません

すっかりカヴールを信用し、

サルデーニャ王国の中部イタリア併合を容認しました

 

ただし、もちろんローマ教皇領は併合できませんでした

ローマ教皇領にはいまだにフランス軍が駐屯しています

 

【図解】南イタリア・中部イタリア併合後の状況

中部イタリア併合後の状況

サルデーニャ王国:イタリア統一を継続

残るは北イタリアのオーストリア領のみ

 

フランス:ローマ教皇領に駐屯 ローマ教皇を保護

オーストリア:ヴェネツィアなどの北イタリア領を防衛

 

こんな感じです!

 

1861年 イタリア王国の成立

イタリアの大部分の統一が完了し、

サルデーニャ王国は国名をイタリア王国に改称しました

 

最初の首都はイタリア北部のトリノ

初代国王をヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

初代首相にはカヴールが就任しましたが、

カヴールは病に倒れ、命を落としました

【質問】イタリア全土の統一前に、イタリア王国の建国を宣言 なぜ?

イタリア全土の統一は完了していません

 

この状況でイタリア王国の建国を宣言した意図は?

イタリア人の心をひとつにするためですね。

 

「我々はイタリア人だ」

といって、ナショナリズムを掻き立てること

それがこの先の戦いに必要とされました

戦意の高い市民たちがいなければ、

イタリア統一運動は成り立ちませんからね

 

【質問】最初の首都はトリノ なぜ?

イタリアの首都はローマというイメージがあります

 

首都がしばらくトリノだったのはなぜですか?

イタリア中部のローマに首都をかまえてしまうと、

ローマ教皇領を守っているフランス軍との関係がややこしくなります

 

ローマが首都となるのは、

フランスからローマ教皇領を奪還したあとになります!

 

1866年 プロイセンと同盟 オーストリアからヴェネツィアを奪還

ヴェネツィア奪還 ポイント

1866年 イタリアはプロイセンと同盟

→オーストリア軍との戦いを有利に進め、ヴェネツィアを奪還することに成功

しかし、南チロルトリエステなどの地域は奪還できず

 

【質問】プロイセンと同盟を結んだのはなぜ?

突然プロイセンが出てきました

プロイセンはオーストリアやイタリアとは

どんな関係なんですか?

 

イタリアとプロイセンが組めば、

オーストリアを挟み撃ちにできます

オーストリアは軍を南北に分散することになるため

各方面に割くことができる兵力は半分ずつ

しかも前線の軍への武器や食料の補給も手間がかかります。

【質問】プロイセン側のメリットは?

プロイセンはドイツ統一に向けて、

オーストリアとドイツの覇権を争っていました

 

そしてプロイセンは1866年

普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)を起こしています

プロイセンもオーストリアとの戦いを有利に進めたいため、

同じ敵を持つイタリアに同盟話を持ちかけてきました

 

当時のプロイセン首相は、外交の天才ビスマルク

プロイセンの生き残りのため、外国と巧みに交渉していました

 

プロイセンとの同盟により、

イタリアはオーストリア軍と楽に戦うことができました

そしてイタリアは悲願のヴェネツィア奪還に成功しました

 

 

しかし狭い地域ですが

南チロルトリエステなどの領土はオーストリアから取り戻すことができませんでした。

 

 

【質問】ヴェネツィアだけでなく、他の領地も取り戻せなかったんですか?

北の強国プロイセンと同盟を組めば、

そのまま勢いにのって、

ヴェネツィア以外の領土も取り戻せたんじゃないですか?

結論から言うとできませんでした

理由はプロイセンとオーストリアの戦争が早期に決着してしまったからです。

 

普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)は

プロイセンの勝利に終わりました

 

しかしプロイセン首相ビスマルクは

オーストリアの首都を攻撃せず、早々に講和しました

 

オーストリアに勝ったのは大金星ですが、

プロイセンはほかの大国ほどの兵力や財力がありません

オーストリアと長く戦争しすぎると、

のちのちの国家運営や国防に支障をきたすと考えたのです。

 

そしてオーストリアはプロイセンとの戦いを終え、

イタリア軍の迎撃に100%の力を割くことができるようになります

 

もちろんイタリア軍はヴェネツィアよりも先には進めず

オーストリア軍との戦いを終えてしまうことになったのでした。

 

1870年 ローマ教皇領の奪還

ローマ教皇領の奪還 ポイント

1870年 イタリア王国はローマ教皇領の奪還に成功

→イタリア王国の首都はローマに移した

→ローマ教皇は身の安全を保障されたが、イタリア王国に激怒

→1929年までローマ教皇とは断交状態が続いた

 

【質問】なぜこのタイミング?(1870年)

ローマ教皇領は

フランス軍がガードしていたのでは?

 

このタイミングで奪還できたのはなぜ?

1870年 普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)が起こったからです

 

フランスは苦戦し、多くの兵力を割きました

そしてローマ教皇領を守っているフランス軍を撤退させ、

プロイセンとの戦争に動員したのです

これはイタリア軍にとってはチャンスです。

イタリア軍はすぐさま動き、ローマ教皇領を得ました

 

プロイセンさまさまですね(笑)

 

 

未回収のイタリア問題

未回収のイタリアとは?

イタリア統一戦争をもってしても、奪還できなかった領土のこと

→具体的にいうと、南チロル・トリエステを指す

 

 

【質問】のちの歴史への影響は?

のちの歴史にどう影響するのですか?

第一次世界大戦のときに、

イタリアが三国同盟から離脱するきっかけになります

 

イタリア統一後、

イタリアはなし崩し的にドイツ・オーストリアと同盟を結ぶこととなります

 

イタリアはドイツ(旧プロイセン)に関しては、

イタリアの旧領奪還に一役買ったので信用できました

オーストリアのことは内心信用していません

 

そんな状態で薄くつながっていたのが三国同盟でした

イタリアは第一次世界大戦時に、

敵サイドの三国協商から

「三国同盟を裏切ったら、未回収のイタリアはイタリア領にしてやる」

と約束されます

その甘言に乗って、イタリアは三国同盟を離脱することになります。

 

イタリア統一後の外交関係まとめ

イタリア統一後 近隣諸国との外交関係まとめ

①フランス:信用してない(約束を反故にするから)

②ドイツ(プロイセン):良好な関係(ヴェネツィア奪還の恩)

③オーストリア:関係最悪(未回収のイタリア問題)

 

イタリアが今後の歴史の中で関連する勢力だけ、

まとめておきました

今回は以上です!

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