義和団事件・北京議定書(辛丑和約)を簡単にわかりやすく解説

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 日清戦争・義和団事件・日露戦争

こんな人におすすめ

義和団事件について勉強しています

ポイントはわかるのですが、

流れを簡潔に、

わかりやすく理解したいと思っています

誰か教えてください

という思いをもった

 

世界史と日本史の受験勉強中の学生さん

テスト勉強中の学生さん

社会人になってから学びなおしている歴史ファンの方

 

わかること・対象語句

①義和団事件ってどんな事件?簡潔に説明します

 

②義和団事件の背景

→(列強の中国分割とキリスト教布教への不満)

 

③義和団事件の経緯

 

④義和団事件の結末

→日英同盟・日露戦争への影響

 

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。

てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

義和団事件とは? 流れとポイントを簡潔に

義和団事件について簡潔に説明します

 

まず「義和団」とは仏教系の宗教団体です

義和団は欧米列強や日本による中国分割

欧米の宣教師によるキリスト教布教に対して不満を持っていました

 

義和団はまず、

山東省仇教運動(キリスト教排斥運動)を行いました

 

列強の横暴に不満を持つ市民がこれに合流して、

反乱の規模は大きく・過激になっていきました。

 

こうして1899年義和団事件(北清事変)が始まりました

 

スローガンは扶清滅洋

「清を助け(扶清)、ヨーロッパ勢力を滅ぼす(滅洋)」

という意味です

 

義和団は1900年に清の首都北京に入り、

清の政府に呼びかけます

「我々は欧米に食われつつある清国を助けたい(扶清)」

「そして憎き欧米列強を滅ぼしたい(滅洋)」

 

結局、清の政府は義和団に加勢するという判断を下しました

そして清と義和団は

清国内の外国大使や、外国人宣教師を殺害してまわり

欧米列強と日本に宣戦布告するという

無謀な戦いを挑んだのでした

 

これに対して、列強側も反発

清国内で勤務している外交官や

布教活動にあたる宣教師を守るため、

8か国共同出兵を実施しました

参加した国は米・英・仏・墺・独・伊・露・日でした

 

清と義和団は8つの国を敵にまわし、

散々な目にあわされて降伏します

 

そして1901年

北京議定書(辛丑和約)を結んで関連国と講和しました

 

義和団事件の際、

特にロシアは多くの兵を動員しました

当時のロシアは南下政策を展開していました

中国の混乱にまぎれて、

中国領をかすめ取ることが可能ですから、

多くの兵を動員しました

 

そして義和団事件終結後、

ロシアは義和団の鎮圧に派遣した軍を北京から満州に移動

 

満州にロシアの大軍が集結し、

ロシアは日本侵攻の準備を整えたのです

 

日本はこれに驚き、

日英同盟を締結

ロシアを止めるべく、日露戦争へと向かうのでした。

 

ここからは各項目を詳しく解説します

 

義和団事件の背景

列強の中国分割への不満

19世紀末ごろ、

欧米列強は清の領土分割を積極的に行いました

 

まとめるとこんな感じです

列強の中国分割 1896年~1900年ころ

・ロシア(南下政策を加速)

東北地方(満州)を勢力圏に置く

→この地に東清鉄道を敷き、シベリア鉄道に接続する

遼東半島南部を25年間租借

 

・イギリス

①山東半島先端の威海衛を租借

②九龍半島北部を租借

長江流域を勢力圏に

 

・ドイツ

山東省を勢力圏とする

②山東半島の膠州湾(こうしゅうわん)の港【青島(チンタオ)】に軍港を設置

 

・フランス

広州湾を租借

 

・日本

福建省を租借(日清戦争で得た台湾の対岸)

 

 

「中国がピザのように分けられていく…」

 

そして中国の市民は

「欧米列強は危険だ」と

気づき始めたわけなんです

 

【質問】列強の中国分割が急激に進んだ原因は?

なぜこのタイミングで中国分割が進んだんですか?

理由は2つあります。

三国干渉の見返りを要求された

ロシア・フランス・ドイツ

三国干渉の際に日本の無理な要求から清を救いました

そしてロシア・フランス・ドイツの3国は

「助けてやったんだから、領土くれ」と言って

清に見返りを要求しました

 

②外債の支払いが滞っていたから

外債とは外国への借金のことです

 

清は日清戦争に投入する軍事費や

日清戦争で発生したの賠償金の支払い

外債でまかなっていました

 

お金を貸したのは欧米列強

経済的に豊かな国々でした

そして列強は

「お金貸してやってるんだから、もちろん見返りがあるよね?」

と脅しをかけてくるのです

 

清の政府は圧力に耐えきれず、

多くの利権を外国勢力に譲ってしまうのでした

 

ここでは義和団事件が本題なので、

列強による中国分割について

さらに詳しく・わかりやすく知りたい場合

コチラの記事を参照してください

 

中国でのキリスト教布教活動への不満

当時の中国では、

キリスト教の布教活動が盛んにおこなわれていました

 

清はアロー戦争(1856~60年)に敗戦後、

北京条約(1860年)でキリスト教の布教を自由化していましたからね

 

キリスト教の布教方法はカンタン

貧しい民に施しを与えることです

 

「美味しい食事をやろう。ついてきなさい。」

といって清国内の教会に案内し、

施しを与えます

生きるためには飯を食わなければなりませんから、

貧民たちはホイホイついていきます

 

そして神への礼拝も行ったりして、

気づけばキリスト教徒の仲間入り

ってわけです。

 

こうしてキリスト教が

中国の貧民の間に広まりつつありました

 

キリスト教の拡大を危険視したのが、

中国古来の宗教団体です

 

元来の中国では儒教・仏教・道教などが盛んでしたから、

信者をキリスト教にとられた宗教団体は反発します

義和団もそのひとつだったのです

 

義和団事件の経緯

1899年 義和団 山東省で挙兵(仇教運動)

義和団は仏教系の宗教団体です

キリスト教の広まりによって、

中国の貧民がキリスト教に染まっていくのを危険視していました

そして義和団はキリスト教の排斥運動(仇教運動)を山東省で開始

 

「民よ立ち上がれ。憎きヨーロッパを滅ぼすぞ。」

「菩薩様のお札を背中に貼れば、無敵になれる。」

「安心してついてこい。」

と言って民衆を巻き込むのでした(笑)

 

そして義和団は

清に大使館を置く外国の外交官や

外国人宣教師を逮捕・殺害したのでした

 

1900年 北京占領 清軍の合流

1900年になると、

義和団は大規模な勢力をひきいて北京に入場しました

 

清の政府は初め、

義和団を警戒していましたが、

最終的には義和団をサポートする形をとりました

 

理由は義和団のスローガンです

義和団のスローガンは「扶清滅洋

「清を助け、ヨーロッパ勢力を滅ぼす」

という意味です

 

「義和団の行動は清を救うためのもの」

 

清国政府は義和団の力を利用し、

欧米勢力の介入を退けようと考えました

 

列強への宣戦布告と8か国共同出兵

義和団と合流した清は、

欧米勢力の介入を除外しようとして、

欧米列強や日本に宣戦布告しました

 

欧米列強および日本は

清国内にいる自国の外交官や宣教師を守るため、

8か国共同出兵を実施しました

※参加国は米・英・仏・墺・独・伊・露・日

→中国から近いロシアと日本の軍が多数を占めていました

 

義和団はろくな武器を持っておらず、

清の装備も正直言って弱い

 

清&義和団の兵たちは敗戦を重ねました

 

義和団の団員達は言います(しつこい)

「菩薩様の札を背中に貼れば、無敵になれる」

「敵の鉄砲は当たらなくなる」

 

こんな迷信を述べながら戦いましたが、

列強の機関銃や大砲の弾が当たりまくり、

義和団はついに敗北

サポートしていた清も降伏しました

 

義和団事件の結末と、のちの時代への影響

講和条約 北京議定書(辛丑和約) 内容とポイント

清の降伏後、

義和団事件への関連国の間で北京議定書(辛丑和約)が結ばれました

内容は一方的なものでした

北京議定書(辛丑和約) 内容

①清は8か国に合計4.5億両の賠償金を支払う

②清は外国軍隊の北京駐留を許可する

→清国内の外交官や宣教師を守るために必要な最低限の警備兵です

③清がこの議定書を承認後、8カ国の軍は中国大陸から撤退する

賠償金の金額が日清戦争の2倍…

これは持ちこたえられませんね…

もはや清は風前の灯となりました

この10年後、辛亥革命が起きて清は滅亡します

 

ロシアの不穏な動き

ロシアは義和団事件のあと、不穏な動きを見せます

ロシアは③の条項

8カ国の軍は中国大陸から撤退する」

という決まりを守りませんでした

 

そして義和団の鎮圧に派遣した兵を満州に移動させ、

満州に大軍を集中させました

これは日本や朝鮮に攻め入り、

アジア方面への南下政策を行うためです。

「このままではロシアが攻めてくる」

「日本が滅ぶ…」という危機感を持ち、

日本は迎撃準備を始めるのです

 

1902年 日英同盟締結~1904年 日露戦争へ

1900年代はじめ、

日本は日英同盟の交渉をはじめます

 

なぜイギリスなんですか?

理由は2つですね

イギリスも同様、ロシアと敵対しているから

イギリスと同盟すると、ロシアを挟み撃ちにできるから

といったところですね

ヨーロッパの覇権国家 イギリスにとっても、

ロシアの勢力拡大は警戒すべきものでした

 

ロシアは19世紀のあいだずっと

南下政策を行っています

ロシアの南下政策が進むと、

エジプトのスエズ運河(イギリスが経営権を持つ)や

イギリス領インド帝国にもロシアの手が及ぶ可能性があります

イギリスはロシアの南下を脅威に感じていて、

ロシアをしきりに止めようとしました

そんなイギリスと利害が一致したのです

 

しかもイギリスと同盟を組めば、

イギリス・イギリス領インド帝国・日本の

3方向からロシアを挟むことができます

 

これは日本にとって戦略的に有利だったのです。

 

今回の主題は「義和団事件」なので

今回はここまでとしましょう

 

 

 

 

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