太平天国の乱 背景・きっかけ・結果をわかりやすく解説

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てっちり

元 高校世界史教師

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単元解説 清の歴史

【はじめに】太平天国の乱を簡潔に

太平天国とは洪秀全が中国南部に建国した独立国家です

洪秀全はキリスト教系の宗教団体

拝上帝会」を設立し、

「拝上帝会」を母体として、

太平天国という国家に拡大していきました

 

スローガンは「滅満興漢

清(満州族)の支配に不満を持つ漢民族を率いて

多くの漢民族からの支持を集めました

 

そして1851年

洪秀全ひきいる太平天国が挙兵

清の打倒をめざした反乱を

太平天国の乱といいます

 

最終的には清軍や

アメリカ・イギリス軍の介入により、

1864年に太平天国は滅亡しました

 

この記事からわかること

清代の中国史を学習している人に向けて

太平天国の乱の原因・結果を詳しく解説したうえで、

よくある疑問への答えを記しました

 

この記事からわかること

太平天国の乱の背景

②首謀者 洪秀全とは何者か?

③太平天国の乱の始まりから、太平天国の滅亡まで

④よくある質問

李鴻章曾国藩は漢民族なのに、清(満州族)の側に立ったのはなぜ?

アメリカとイギリスの介入 これはなぜ?

⑤太平天国の乱 その後

 

といった感じです

できるだけ詳しくわかりやすく記したので

参考にしてください

 

太平天国の乱 背景

太平天国の乱では、

①漢民族と満州族の対立

②社会的不平等への不満

などを背景として、

清国政府の支配に不満を持つ人々が蜂起しました

 

それぞれ詳しく説明します

 

漢民族と満州族の対立

まず清という国の成り立ちを説明しておきます

清は満州から南下した満州族

中国大陸の漢民族を支配下において成立した国です

 

そのため、

清の支配層は満州族ですが、

清の国内に住む多くの民は漢民族なのです

 

国の中では少数派の満州族が

多数派の漢民族を束ねていくためには、

工夫が必要でした

 

満州族はアメとムチを使い分けて、

漢民族をうまく統治したのです

 

アメとムチの例を示します

【アメ】満漢併用制

中国の伝統的な官吏登用試験 科挙を実施し、

漢民族の官吏を満州族の官吏と同じ数だけ雇い入れる

これを「満漢併用制」といいました

 

支配される側の漢民族であれど、

学問を身につけて国家試験に受かれば、

支配層の仲間入りができるので、

一発逆転のチャンスがあったのです。

 

ただ、甘やかしてばかりでは国は統治できません。

 

【ムチ】辮髪の強制・文字の獄(言論統制)

漢民族は満州族のヘアスタイル

辮髪を強制されました

 

後頭部まで剃り上げ、

後頭部の髪を伸ばして後ろで結ぶヘアスタイルです

東京リベンジャーズのドラケン(龍宮寺堅)や、

キン肉マンに登場するラーメンマンの髪型です

 

実際やってみると、

ドラケンほどかっこよくありませんが(笑)

 

漢民族は詰め寄られます

「髪を落として辮髪にするか、逆らって首を落とすか」

「どちらかを選べ」

とね

怖すぎるでしょ

こうした満州族の高圧的な支配に対し、

文句を言えば処分の対象になります

満州族を批判する書物はすべて発禁処分となりました

これを文字の獄といいます

 

こうして満州族は

漢民族を生かさず殺さずの絶妙なバランスで支配していたのですが、

建国から200年ほどたつと、

その支配にもほころびが出始めたのです

 

そして洪秀全

清(満州族)の政治に不満を持つ漢民族を率いて、

太平天国を建国し、

満州族に対する反乱を起こすのでした

 

辮髪や文字の獄以外に、

漢民族は何に不満を抱いていたのでしょうか?

詳しく解説しますね

 

社会的不平等

清の国内では格差があり、

同じ漢民族であれど貧富の差が大きかったのです

特に貧しい漢民族の民の不満がつのり、

彼らは太平天国の乱に参加していきました

 

当時の社会情勢を説明します

当時の清では

地主が豊か

地主から土地を借りて耕作している小作人は貧しく

社会的にも地主階級の方が有利でした

 

貧しい小作人の家系から出世するためには、

官吏登用試験(科挙)を受けて、

政界デビューするという道が残されているのですが、

科挙は経済的に豊かな地主が圧倒的に有利でした

 

地主は小作人から支払われる地代収入があるので、

自ら肉体労働をしなくていいのです

体が疲れてなくてピンピンの状態で受験勉強に臨めるし

勉強時間も多く確保できます。

学費を払えば有名な先生から習うこともできます

 

しかし小作人の家系はどうでしょうか?

まずは家計を成り立たせるために

自分で働かなくてはなりません

 

一日の農作業を終えたあとに

受験勉強をします

勉強にあてられる時間も少ないうえに

ヘトヘトの状態で勉強することになるのです

 

有名な塾に通う余裕もなく、

英才教育もできません

 

こうなると、

地主階級の方が圧倒的に有利です

 

こうした社会格差への不満が積もり、

太平天国の乱へとつながっていきます。

 

太平天国の首謀者 洪秀全とは何者か?

さて、太平天国の乱の首謀者

洪秀全について話します

 

洪秀全は中国南部に住む客家(ハッカ)の家系でした

客家とは、もともと華北に住んでいた漢民族で

満州族などの北方騎馬民族に住む土地を奪われ

中国南部の地域に移り住んできた人々です

 

中国南部の土着の人々からすれば、

「民族は同じだけれど、故郷が違う客人」のような存在

だから「客家」と呼ばれました

 

客家はそもそも、

満州族などの北方騎馬民族に対して恨みを持っているので

反乱の中心になっていくのです。

 

さて、その中でも洪秀全

清の社会への不満をつのらせていました

 

彼は貧困から脱出するために、

たびたび科挙を受験しました

 

しかし彼の成績はふるわず、

4度にわたって科挙を落第しました

科挙は3年に1度しか行われませんから、

洪秀全は科挙の受験のために10年以上費やしたことになります

そして洪秀全は、

なんの成果も得られずに発狂してしまうのでした

 

彼はうつ状態になり、

毎日高熱にうなされました

高熱で寝込む中、洪秀全は夢を見ました

その夢の中には老人の姿をした神が登場し、

洪秀全に言いました

 

お前はこの世の誤りを正す者である

「お前はキリストの弟だ」

「キリストが変えれなかった世界を変えろ」

スピリチュアルすぎて吹きました(笑)

洪秀全は眠りから覚めて動き始めます

そして自身を「キリストの弟」と自称して

キリスト教系宗教団体「拝上帝会」を築いたのです

 

太平天国の乱 経過

太平天国の乱の経過を手短にまとめるとこうなります

太平天国の乱 経過

洪秀全拝上帝会を拡大/太平天国を建国

 

1851年 太平天国の乱 始まる

→滅満興漢を掲げて挙兵

 

南京を占領し、天京に改称

 

李鴻章の淮軍曾国藩の湘軍が介入

 

ウォード(米)ゴードン(英)の登場

常勝軍を率いて太平天国を撃破

 

1864年 太平天国滅亡

 

それぞれを詳しく説明します

滅満興漢を掲げて挙兵→南京の占領

洪秀全は清に不満を持つ漢民族を拝上帝会にメンバーを集め、

中国南部に「太平天国」の建国を宣言しました

 

そして1851年「滅満興漢」を掲げて挙兵しました

目標は清(満州族)を滅ぼし、

漢民族による国を再興すること

 

漢民族は燃え上がり、

太平天国の乱が始まります

 

太平天国の軍は江南の都市を次々に占領し、

ついに南京を占領しました

そして南京を首都とし、

名を「天京」に改めました

 

太平天国の勢いは止まりません

 

太平天国の政策方針

太平天国はなぜ、

多くの支持者を集めたのですか?

いい質問です

太平天国には政権公約があり、

それは多くの貧民から支持されるものだったからです

太平天国の内政

天朝田畝制

纏足の禁止

辮髪の廃止

④アヘンの禁止

 

それぞれ解説します

 

天朝田畝制

天朝田畝制とは、

地主の土地を奪い、

男女平等に土地を分配する制度です

男女平等って当時にしては珍しいですね

洪秀全は客家の生まれと言いましたね?

客家の家系では女性も農作業の労働力として重要視されていたからです

 

労働力として男女の区別はなく、

すべての人に土地を均等に分け与えることを約束しました

 

ただし、太平天国は国が安定することはありませんでしたから

この制度を実際に導入する前に太平天国は滅びています

 

纏足の禁止

纏足とは、

女性が足を折り曲げる風習のことです

 

足の指を折り曲げてしまうので、

もちろん歩くことはできなくなります

洪秀全はこれを問題視しました

 

先ほども述べましたが、

洪秀全は客家の家系です

客家では女性も労働力として重要な役割を果たしていました

 

纏足をしてしまうと、

女性が働けなくなります

こうした点に反感を持っていました

 

だから纏足を禁止したのです

 

辮髪・アヘンの禁止

辮髪は満州族が漢民族に押し付けた髪型です

この髪型にしなければ処刑されます

 

漢民族はこの髪型にするのが嫌で

不満を持っていました

洪秀全はそうした不満を持つ民を取り込んだのです

 

人を内側から破壊するアヘンももちろん禁止です

薬物は百害あって一利なしですからね

 

清 太平天国の鎮圧軍を派遣

清はなぜ、

太平天国の乱の鎮圧に手間取ったのですか?

清が苦戦するのにも無理はありません

 

太平天国の乱がおこった当初

清はアロー戦争の真っ最中でした

それに清の正規軍(八旗・緑営)は

アヘン中毒者があふれていたので貧弱でした

軍規が整わない軍は、

作戦を遂行する能力が低いのです

 

そこで清は地方勢力に頼ろうとしました

 

郷勇(郷紳) 李鴻章・曾国藩の参戦

弱い清軍の埋め合わせをしたのは

郷勇」とよばれる私兵団でした

郷勇とは?

漢民族の地主層(郷紳

私費をはたいて貧民を雇って組織した私兵団

 

★有名な郷勇

李鴻章の淮軍

曾国藩の湘軍など

 

太平天国の乱を鎮圧するために

地方の漢人地主(郷紳が自らの意思で兵団を立ち上げたのです

太平天国の鎮圧には彼らの功績が大きいです

 

【質問】李鴻章と曾国藩は漢民族 なぜ清を支援した?

李鴻章も曾国藩も漢民族のはず

「滅満興漢」という言葉になびいて

太平天国に加勢することはなかったのですか?

たしかに気になるところですね

李鴻章と曾国藩の立場を見ると、

答えが見えてきます

 

彼らは地主階級です

彼らが太平天国にくだったら、

彼らの立場はどうなりますか?

そういえば天朝田畝制が…

そうです

太平天国では天朝田畝制が実施される予定でした

地主の土地を没収して、男女平等に土地を配る」

というものです

 

李鴻章ら地主は、

土地を与えられる立場ではなく、

土地を奪われてしまう立場になるのです

 

自分の土地を失いたくないから

太平天国の軍門には下りたくないし、

 

彼らは科挙にも合格して、

清の政界で十分な地位を得ていましたから

そもそも清に対して反乱を起こす必要もありません

 

こうした理由から、

李鴻章と曾国藩は漢民族でありながら、

「滅満興漢」を掲げる太平天国の乱を妨害したのでした

 

ウォード(米)とゴードン(英) 常勝軍を率いて参戦

太平天国の乱が長引き、

1860年代に突入したころ

外国勢力が介入しました

アメリカのウォード

イギリスのゴードンらが常勝軍を組織し、

太平天国の乱の鎮圧に貢献したのです

 

【質問】なぜアメリカとイギリスが太平天国の乱に介入するのか?

確か太平天国ってキリスト教を掲げていたんですよね?

アメリカとイギリスにとっては

宗教的に共通点があるので

味方じゃないんですか?

アメリカとイギリスはなぜ、

太平天国の鎮圧にまわったのですか?

いい質問です

答えは2つです

米英が介入した理由

清と結んだ不平等条約を無効にされたくない

太平天国が対等外交を認めなかったから

 

清と結んだ不平等条約を無効にされたくない

イギリスを代表とする欧米列強は、

清と不平等条約を結んでいます

清から多くの利権を認められているし、

弱体化した清は転がしやすい状況でした

 

では、もし太平天国の乱が成功し、

清が滅亡したらどうなるでしょうか?

 

不平等条約は「清の皇帝と結んだ条約」ですから、

清の皇帝がいなくなれば無効になります

 

清から利権をすすっていた国々にとっては、

清が健在である方が好都合だったのです。

 

太平天国が対等外交を認めなかったから

2つめの理由は「太平天国が対等外交を認めなかったから」

というものです

 

実はイギリスは、

過去に太平天国と接触を図っています

そのときの太平天国の反応がコチラ

 

「神はこの世界に洪秀全を派遣し、洪秀全は万国の主となられた

「太平天国への来訪をのぞむ天下の臣民は、礼節をわきまえねばならない」

 

つまり、

「洪秀全はこの世界のすべての国の主だから、会いたければ頭を下げろ」

ということです

洪秀全は対等な外交をするつもりはありませんでした

これに呆れかえって、

イギリスの外交官は太平天国を危険視したのです

 

欧米諸国は、

清とは対等な外交をできていたのですか?

アロー戦争の終結後、清に対等外交を認めさせました

北京に外交官を滞在させることにも成功していました

 

対等な外交を認めている清と

万国の主としてすべての国を見下している太平天国

 

間違いなく清の方が扱いやすいです(笑)

 

太平天国はこうして、

欧米諸国の目の敵にされるのでした

 

太平天国の滅亡

絶大な勢力を誇った太平天国も、

外交に失敗すれば必ず負けます

 

あたり一面敵だらけの状況で

1864年に太平天国は滅亡

洪秀全は失踪しました

 

こうして太平天国の乱は終焉を迎えました。

 

太平天国の乱 その後の影響

太平天国の乱の鎮圧に貢献した李鴻章曾国藩

清の政界で重要な役割を与えられます

 

特に李鴻章は長期的に権力を握ったので有名です

 

なぜ李鴻章の権限が大きかったかというと、

李鴻章は私兵団 淮軍を拡大し、

北洋軍閥を形成したからです

李鴻章は自分の兵隊を持っている政治家で

しだいに清軍の指導権を握っていきました

 

日清戦争への敗戦後、

李鴻章は失脚します

李鴻章の私兵団(北洋軍閥)は袁世凱に受け継がれ、

袁世凱の死後に北洋軍閥は分裂

1920~30年代にかけて、

中国では軍閥による抗争が激化していくことになるのです

 

歴史はつながっていきます

 

 

 

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