片貿易と三角貿易 清とイギリスの外交史をわかりやすく解説

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てっちり

元 高校世界史教師

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この記事からわかること

アヘン戦争やアロー戦争を学習している人に向けて

アヘン戦争の背景となった

片貿易から三角貿易への移行について、

わかりやすく解説します

 

この記事からわかること

①片貿易 イギリスの貿易赤字

②片貿易の解消 清との交渉の過程

③三角貿易 イギリス アヘンを売る

④三角貿易が清に及ぼした影響

 

といった点を詳しくわかりやすく解説します

 

【片貿易】イギリスの対清貿易赤字

イギリスは当時、

清から茶や陶磁器を輸入し、

銀を輸出していました

 

当時のイギリスでは労働者の眠気覚ましとして、

茶が親しまれていました

ティーカップとして中国製の陶磁器が利用されていたので、

陶磁器にも需要がありました

 

しかし、イギリスが一方的にお金(銀)を払うばかりで、

他のイギリス製品が売れなかったので、

片側一方通行の貿易という意味をこめて、

片貿易と呼びました

イギリスには目玉商品の綿織物があるはず

なぜ売れなかったのですか?

いいポイントに気付きましたね

 

確かに18~19世紀のイギリスは産業革命を経て、

綿織物の大量生産が可能になりました

 

イギリスは綿織物の輸出市場として、

人口4億人の清に目をつけていました。

 

しかし、当時の清は海禁(いわゆる「鎖国」)を実施しており、

清の政府が認めた特権商人(公行)が貿易を管理し、

対外貿易が可能な港は広州に限定されていました

 

そのため、イギリスは綿織物を自由に売ることができなかったのです

 

他にも清国内にイギリスの綿織物が売れない原因がありました。

ニーズの違いです。

 

イギリスは薄手の綿織物を製造していたのですが、

清国内では厚手の丈夫な綿織物が好まれました

 

農作業は重労働です

農作業の際に破れてしまわないような頑丈な服を好んだのです

 

さらに清の農民たちは農閑期(冬)の仕事として、

綿織物を自作していたのです

 

こうして、清では輸入に頼らない

自給自足の生活が成り立っていたのです

 

だから、イギリスからの綿織物の輸入が自由化されたところで

イギリスの綿織物はどうせ売れないのです。

 

イギリスはこうした点に気付かないまま、

清に対して自由貿易を強要し、

挙句の果てに2度の戦争を繰り返すことになります

 

【片貿易 解消なるか?】清との貿易交渉

イギリスは貿易赤字の原因を

清の海禁政策にあると考えました

 

先ほども述べましたが、

当時の清の貿易港は広州のみに限定されており、

広州の特権商人(公行)が貿易を管理していました

 

イギリスは清との貿易に関して

つけいる隙がありません。

 

そこで清の皇帝に交渉をしようと考えました

18世紀末から19世紀初めにかけて、

2度の交渉が行われました

 

まず1回目の交渉です

18世紀末 マカートニー乾隆帝との交渉に臨みました

「皇帝陛下、イギリスの綿織物をもっと自由に売らせてくれませんか」

とマカートニーが問いました

 

しかし乾隆帝は

「清は豊かな国であり、外国からの輸入はそもそも必要ない」

「もう満ち足りているのだから、わざわざ買う必要がないだろう?」

といって、マカートニーを一蹴しました

ごもっともですね(笑)

結局マカートニーは成果なく帰国しました

 

19世紀になると、2度目の交渉が行われました

清の皇帝は嘉慶帝にかわり、

アマースト嘉慶帝との交渉にのぞみました

 

アマーストが皇帝への謁見を求めたところ

皇帝の側近からこう言われます

三跪九叩頭をしなければ、皇帝陛下には会わせてやらない」

 

三跪九叩頭とは?

ひざまずいて3回土下座

これを3セット繰り返す儀礼です

清の皇帝への忠誠心を示す儀礼なんです

 

しかしアマーストはこれを断りました

私はイギリス国王に忠誠を誓っている

いかに清の皇帝と言えども、頭を下げることはできない

と言ってね

 

結果的に、

アマーストは嘉慶帝に会うことすらできずに帰国したのです

ひどいですね…

この事態を通じてイギリスは

清との外交や貿易についての課題と解決策を2つ見据えました

イギリスの課題

①交渉では清との自由貿易の実現は難しい

→狡猾な手段(アヘンを売ること)と暴力で解決するしかない

 

②清は外交文化が違い、異国を見下している

→力づくで対等外交を認めさせる必要がある

 

こうした課題を解決するための戦争が、

アヘン戦争とアロー戦争だったのです。

 

本題からはそれますが、

「②清は外交文化が違い、異国を見下している」について補足です

 

イギリスなどヨーロッパ諸国は

国際法で外交について定めており、

すべての主権国家は対等な関係

という原則で外交関係をとらえています

 

一方で清は、

外国使節に三跪九叩頭をさせるといったように

アジアの覇者としての「上から目線外交」をしていました

 

でもこれはアジア文化圏では

代々続いてきた当たり前の外交関係であって、

清に悪気はありません。

ヨーロッパとアジアでは外交文化が全く違ったのです。

 

そんなアジアに

イギリスはヨーロッパ式の「対等外交」を

持ち込もうとしたのでした。

 

【三角貿易】イギリス アヘンを輸出

イギリスは狡猾な手段で貿易赤字の解消を試みました

「薬物(アヘン)を売ろう」

「そして清に流出した銀を回収しよう」

 

こうして行われたのが三角貿易でした

三角貿易のポイントを示します

三角貿易

①イギリスは清から茶や陶磁器を輸入

②イギリスはで代金を支払う

③イギリスはインド(植民地)産のアヘンを清に輸出

④清はアヘンの代金をで支払う

⑤イギリスは綿織物をインド(植民地)に輸出

⑥インド(植民地)は綿織物の代金をで支払う

 

このような銀の循環をつくることで、

銀をイギリスの手元に取り戻そうとしたのでした

 

いちいちインドが絡んでくるのは、

アヘンの原材料であるケシの実はイギリスでは栽培できず、

インドでつくってインドから売るしかなかったためです

 

しかし、このアヘンの売買が

清の社会を変えてしまうのです。

 

【三角貿易の影響】薬物中毒の増加と銀の高騰

アヘンは違法薬物です

快楽成分があり、依存性も高い

清の人々はアヘンに侵されていきました

 

アヘンが危険なのはわかりました

でも公行がアヘンの輸入を止めればいいのでは?

 

公行もアヘンを吸って、中毒になったんです(笑)

アヘンを取り締まってしまうと、

アヘンを吸えなくて禁断症状が出てしまいますからね

いくら公行といえど、

欲には勝てませんでした

 

あと、八旗緑営(清の正規軍)もアヘン中毒者が続出

清の軍規も乱れていたのです

だから清の正規軍は弱体化し、

農民反乱を止めることすらできませんでした

末期ですね

 

さらに清の経済への打撃がありました

銀の高騰です

アヘンを輸入する前は、

イギリスから銀が大量に流入していたため

清の国内には銀があふれていました

 

銀はそれほどレアではなかったため、

銀の価格は低かったのです

 

でも、アヘンを輸入し始めてから状況が変わります

アヘンの購入のために銀が外国に流出してしまいます

 

清の国内では銀が足りなくなり、

銀がレアな存在になります

そして銀の価格が高くなったのです

銀が高くなったら、誰が困るんですか?

いちばん困るのは農民です

当時の清では「地丁銀制」が施行されていて

農民たちは税を銀でおさめていました

 

まず農作物を銀に交換して、

その銀を役所におさめる

 

といった手順で納税が完了します

 

しかし銀が高くなったらどうでしょうか?

納税に必要な銀を得るために

農作物をいっぱい

売らなきゃいけなくなりますね…

そういうことなんです

農民たちにとって

銀の高騰は事実上の納税に等しかったのです。

 

税を払えなくなった農民たちの間では

貢租不払い運動」が多発しました

 

中には宗教にすがり、

白蓮教団に入信し、

教団の主導で白蓮教徒の乱を起こす農民も現れました

 

この反乱を鎮めようにも、

清の正規軍(八旗・緑営)はアヘン中毒で役に立ちません(笑)

清の混乱はすさまじかったのです

 

こうした社会情勢ゆえに、

海外逃亡する農民や、

海外への出稼ぎにいく農民も増えました

※清では許可のない海外渡航は禁止されているので、違法出国ですが

 

清によるアヘンの取り締まり

アヘンの流入と銀の流出により、

社会が大混乱におちいっている中、

清の政府が動きます

 

清の皇帝 道光帝林則徐

アヘン取り締まりの欽差大臣に任命し、

広州でのアヘンの没収に乗り出しました

 

欽差大臣って何ですか?

皇帝の命令で臨機応変に設けられる、

臨時の大臣職です

今回はアヘンの流通防止が緊急課題とされ、

アヘンを取り締まる臨時の大臣職が設けられたのです

 

林則徐はその役に適していました

林則徐は弟をアヘン中毒で亡くしています

だから林則徐は精力的にとりくみました

 

そして林則徐は1840年

広州に渡来したイギリス船からアヘンを没収し、処分しました

 

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