第一帝政とナポレオン戦争 流れとポイントをわかりやすく 総集編【フランス革命をわかりやすく】

管理人
てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 フランス革命

こんな人におすすめ

フランス革命やナポレオンの時代を学んでいますが、

難しくてよくわかりません。

丁寧にわかりやすく説明してください。

とお考えの学生の方、受験生の方、世界史を学びなおしている社会人の方

 

フランス革命中やナポレオンが台頭した時期の出来事を細かく区切り、

ひとつひとつのできごとについて詳しくわかりやすく説明していこうと思います。

この記事の対象語句

主にナポレオンの第一帝政期のできごとについて説明します。

 

1804年 第一帝政の開始

1805年 第3回対仏大同盟の成立

1805年 トラファルガーの海戦(フランス&スペイン VS イギリス)

1805年 アウステルリッツの三帝会戦フランス VS オーストリア&ロシア

神聖ローマ帝国の解体ライン同盟の成立

1806年 イエナの戦いティルジット条約

→プロイセンの屈辱とプロイセン改革

1807年 大陸封鎖令

1808年 スペイン反乱

1809年 ジョセフィーヌと離婚 マリ=ルイーズとの再婚

1812年 ロシア遠征焦土作戦

1814年 ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)

1814~15年 ウィーン会議の開催(簡潔に)

1815年 エルバ島の脱出 ワーテルローの戦い

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

本題 ナポレオン戦争

第一帝政の成立

ナポレオンはフランス国民からの絶大な人気を誇り、

国民投票で皇帝に就任しました。

皇帝としての名を「ナポレオン1世」と名乗りました。

戴冠式の絵は宮廷画家ダヴィドが描きます。(著作権の都合上、掲載できませんが…)

古典主義の絵画「ナポレオンの戴冠式」が有名です。

 

第3回対仏大同盟の成立

第3回対仏大同盟 ポイント

★背景:ナポレオンの皇帝即位に、イギリスが警戒心を示した。

★ポイント:主導者はイギリスのピット首相(おなじみですな)

 

「皇帝」ってそんなにやばいワードなんですか?

 

てっちり先生
てっちり先生
詳しく説明しますね。

 

ナポレオンの皇帝即位の知らせを聞いて、宿敵イギリスが反応しました。

イギリスのピット首相は考えます「ナポレオンが何かを企んでいる」

それもそのはず。

「皇帝」というのは、「複数の民族を束ねる王」という意味を持ちます。

ナポレオンが皇帝を名乗った=フランス人以外の民族を従えようとしているのでは?

と考えたわけです。

 

現にナポレオンは19世紀の初めにスペイン=ブルボン朝を屈服させて、

フランスの配下につけていました。

フランス・スペインの対岸にあったイギリスからすると、気が気でなかったでしょう。

 

イギリスはオーストリア・ロシア・スウェーデンなどを巻き込んで、

3度目の対仏大同盟を築きました。

 

さて、もちろんナポレオンもこれに応戦し、フランス国民を鼓舞します。

「諸君、我々はアミアンの和約以来、2年の平和を謳歌した」

「しかし今、イギリスがフランスに因縁をつけ、フランスの新政府を消し去ろうとしている」

「我らの革命を守ろう!イギリスを討つ!」

戦いが始まります。

 

トラファルガーの海戦

トラファルガーの海戦 ポイント

★背景:ナポレオンはイギリス本国を奇襲するため、艦隊を派遣した

★勢力:フランス・スペイン連合艦隊 VS イギリス海軍提督ネルソン

★結果:イギリス海軍が勝利したが、海軍提督ネルソンは戦死

★影響:ナポレオンはイギリス攻略を先延ばし。「別の方法で」イギリス打倒を試みる

 

 

ナポレオンはひそかに艦隊を向かわせ、イギリス本国を奇襲しようと考えました。

しかし、この動きは察知されてしまい、イギリスはネルソン提督を派遣します。

ネルソンはエジプトのアブギール湾でフランス海軍を壊滅させた人物

イギリス軍が本気を見せました。

両軍はスペイン沖の「トラファルガー」で鉢合い、激戦を繰り広げました。

 

結果はイギリス軍の圧勝に終わります。

どんな戦術か見ものですね

ネルソンは「T字戦術」をつかいました。

この戦術を、のちに「ネルソンタッチ」と呼びました。

イギリス海軍はまず、2列縦隊をつくって

フランス海軍の列に突撃します。

そして…

図のような形態に持ち込んだあと、

大砲をひたすら撃ちまくります。

この状況ではイギリス軍が圧倒的に有利です。

 

なぜなら、船の大砲は正面に1門

側面に5~6門ほどついています。

 

船の側面が敵艦の方を向いている方が、敵に砲弾を当てやすいのです。

となると、この陣形ではイギリス軍が圧倒的有利ですね。

そういうことです。

この戦いでイギリス海軍が大勝利をおさめました。

しかし… イギリス軍を率いたネルソン提督は戦死しました。

 

それもそのはず。

彼は味方を鼓舞するため、

イギリス艦隊の先頭の船に乗っており、

しかも船首で指揮を執っていたのです。

 

敵の砲弾や鉄砲の玉が降り注ぐ中、

いちばん危ないポジションでフランス海軍に突撃したネルソンは

フランスの狙撃手の弾に当たって倒れました。

 

最期の言葉は

「我、使命を全うせり」(私は使命を果たした)

英雄の最期でした。

 

この戦いに負け、ナポレオンは思いました

「イギリスに勝つにはまだ早い」

少し回り道をしよう

 

ナポレオンの作戦変更(イギリスへの敗戦を受けて)

ナポレオンはイギリスの攻略を諦め、後回しにしました。

そして次の作戦を考えました。

ナポレオンの行動指針

①まずはイギリス以外のヨーロッパ諸国をすべて攻略する

②その後、従えた国々に「イギリスとの貿易禁止」を命令

イギリスを孤立させ、資金難に追い込む(のちの大陸封鎖令

 

この計画の実行のためには、イギリス以外のヨーロッパ諸国を従える必要があります。

そこでナポレオンは、ヨーロッパの制服戦争に乗り出します。

 

アウステルリッツの三帝会戦

アウステルリッツの三帝会戦 ポイント

★対立勢力

フランス軍:皇帝ナポレオン

神聖ローマ帝国&ロシア帝国軍

→神聖ローマ皇帝 兼 オーストリア国王フランツ2世 & ロシア皇帝アレクサンドル1世

 

★結果

フランス軍の勝利

オーストリアはフランスに降伏し、神聖ローマ皇帝の称号を放棄(次の項目にて)

ロシア軍は撤退し、ナポレオンへの抵抗を継続した

 

イギリスを孤立させる一世一代の作戦「大陸封鎖」の実行のため、

ナポレオンは隣国 神聖ローマ帝国の盟主、オーストリアに侵攻しました。

オーストリアは、自身が皇帝を兼任する神聖ローマ帝国を巻き込み

背後のロシアと同盟を結び、ナポレオンの東進を食い止めようとしました。

そして起こった戦いを「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」といいます

フランス皇帝・神聖ローマ皇帝・ロシア皇帝の軍が一堂に会したことから

三帝会戦」と呼びます(中二病感(笑))

 

戦いは冬に始まりました。

ナポレオンはこの季節を活かしながら戦います。

まずは表面が凍った湖にロシア・オーストリア軍を誘い出します。

そして大砲を一発撃ち、湖の表面に張った氷を割ります

すると、オーストリア・ロシア連合軍が冬の湖の中に沈んでいきました。

そしてフランス軍は圧勝します。まさしく作戦勝ちでした。

 

フランス軍が首都に迫り、オーストリアはフランスに降伏

ロシア軍は撤退し、フランスの東進を許しました。

 

神聖ローマ帝国の解体とライン同盟の成立

フランスに降伏したオーストリアは、自国にとって不利な条件を認めさせられました。

神聖ローマ帝国の解体

①オーストリア王を皇帝に担いでいた、神聖ローマ帝国を解体する

②神聖ローマ帝国内の領邦(=ドイツ人国家)は「ライン同盟」に編入

ライン同盟の盟主をナポレオンとし、領邦はナポレオンの命に従う

プロイセンはこれに従わず、ナポレオンが激怒

イエナの戦い

 

ややこしいのでわかりやすく解説してください。

神聖ローマ帝国はドイツ人の小国家(領邦)の集合体です。

有力な領邦でいうと、オーストリア・プロイセン・バイエルンなどがあります。

 

神聖ローマ帝国のリーダー(皇帝)はオーストリアのハプスブルク家が代々継いでいました

形式上、ほかのドイツ人国家はオーストリアの命令に従う形をとっていました。

 

しかし神聖ローマ帝国軍はナポレオンに敗北し、不利な条件を飲まされます。

①まず、オーストリア王であり神聖ローマ皇帝でもあるフランツ2世を廃位

神聖ローマ帝国をいったん解体

③オーストリア以外にドイツ人の小国家はナポレオンに忠誠を誓う

ナポレオンを盟主とする、ライン同盟に引き入れる

 

という形をとりました。

ナポレオンがドイツを飲み込みました。

しかし、ひとつだけ言うことを聞かなかった国があります

 

プロイセンです

ナポレオンはプロイセンに懲罰をするため、軍を派遣しました。

 

イエナの戦い

イエナの戦い ポイント

★背景:プロイセンはライン同盟への参加を拒否

→怒ったナポレオンが懲罰軍を派遣した。

 

★対立勢力:フランス VS プロイセン・ロシア連合軍

 

★結果

フランスが勝利

プロイセンとティルジット条約を締結

ロシアはフランスに降伏した

 

先の項目で、ナポレオンがドイツ諸侯を従えてライン同盟を築いたと述べました。

しかしプロイセンはそれを聞かなかったため、ナポレオンは懲罰軍を派遣しました。

プロイセンはロシアと結んでナポレオンを迎え撃ちますが、完敗

 

プロイセンはおろか、ロシア軍まで粉砕されてしまいました。

ロシア軍はこの地で降伏し、ナポレオンの傘下に

プロイセンは屈辱的な条約 ティルジット条約を結ばされました。

ティルジット条約 ポイント

①プロイセンはポーランド分割で得た領土を放棄する

→手放した領地はポーランド人国家 「ワルシャワ大公国」として独立する

②プロイセン領は西部の領土を削られ、

→削った領地をウェストファリア公国として独立させる

 

プロイセン王国の国民は屈辱的な条約にうなだれ、復讐を誓いました。

 

プロイセン改革

プロイセン改革 ポイント

★背景:屈辱的な敗戦により、プロイセンは国内改革を決意した

 

★政策のポイント

①プロイセン首相 シュタインハルデンベルクが実施

農奴の解放/小作人への土地の分配を行った

③教育改革として、ベルリン大学を創立(フンボルトが主導)

 

★ナショナリズムの高揚

ベルリン大学総長 フィヒテは連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を実施

→ドイツ人のナショナリズムを掻き立て、ドイツ統一の必要性を説いた

 

イエナの戦いでナポレオンに敗戦したプロイセンは、屈辱を感じていました。

そしてナポレオンへの復讐を誓い、その準備として「プロイセン改革」を始めました

 

シュタインとハルデンベルクの農奴解放

プロイセン改革を主導したのはシュタイン首相と、その後任のハルデンベルク首相

 

①まず、シュタイン農奴の解放に踏み切ります。

②その後、ハルデンベルク小作人への農地の分配を行いました

難関大ではここまで分けて問われます(笑) 正答率は10%を切りますが(笑)

農奴ってそもそも何ですか?

 

農奴解放の目的って何ですか?

 

まず農奴というのは、

プロイセンの地主貴族(ユンカー)に土地を借りて耕作している小作人のことです

土地の持ち主である貴族に対し、地代(レンタル料)を支払うことに加え

厳しい労働を課せられたことから、農奴(農民奴隷)と呼ばれています

彼らは移動の自由を奪われ、農村に縛り付けられていました

 

次に農奴解放の背景と目的です

農奴解放 背景と目的

ナポレオンに勝つため、国力の強化を図った。そのために…

工業化の推進のため、労働力が必要だった

国民軍を創立するため、農民の徴兵が必要だった

 

詳しく教えてください。

①工業化の推進のため、労働力が必要だった

 

ナポレオンに勝つためには、国内経済を発展させたり、

優秀な武器をつくったりするために、工業力の向上が不可欠でした。

工業力を押し上げるためには、新しい工場労働者が必要です。

 

そこで、プロイセン政府は農民を工業労働者にジョブチェンジさせようとしました。

しかし、プロイセンでは多くが農民(農奴)で

移動の自由がなく、地主貴族(ユンカー)の持つ所領に縛り付けられています

このままでは農民を工業労働者に仕立て上げることは難しい

だから、農民たちを貴族の支配から解放しました。

 

②国民軍を創立するため、農民の徴兵が必要だった

プロイセンはナポレオンが率いた国民軍の強さに圧倒されました。

 

フランスの国民軍の強さには理由があります。

「守るべきもの」と「愛国心」があることです。

フランス人は革命で得た「自由で平等な社会」「自分の土地」

それらを他国の侵略によって失いたくないという気持ち

 

そして、恩恵を与えてくれる国家への感謝の気持ち「愛国心」を持っています。

 

守りたいものと愛国心を持っている人間を徴兵して国民軍をつくれば

めちゃくちゃ戦意の高い集団ができあがるのです。

プロイセンの農奴たちは、何も持っていないうえに

国や貴族から搾り取られてるから、愛国心などありませんよね

そういうことです。

まずは農民たちに「土地」という恩恵を与えて、愛国心を培い…

そして国民軍の兵士として徴兵する

このステップを踏まない限りはプロイセン軍は強くなりません

 

プロイセンの軍は国民軍ではなかったのですか?

てっちり先生
てっちり先生
プロイセンは雇われ兵士(傭兵)を戦わせていました

傭兵って弱いんですか?

弱いというより、戦意がなく、規律も守りません。

あくまで仕事として戦っているわけなので、死んだら報酬がもらえません

だから死なない程度にほどほどに戦います

報酬に満足がいかない場合は、戦いもせずに戦地の町や農村から略奪をはたらく始末…

規律が守られていませんでした。

そうした寄せ集めの軍団と、戦意の高い国民軍が戦えば勝負は見えていますよね…

なるほど。

ベルリン大学の創設(byフンボルト)

プロイセンを強い国にするためには、エリート教育が不可欠です。

そこで首都ベルリンに大学を設置し、多くのエリートを輩出しました。

創設者はフンボルトです

 

フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」とナショナリズムの高揚

ベルリン大学初代総長フィヒテは、ドイツの学生たちの前で講演会を開きました。

 

めっちゃ簡潔に説明すると…

ナポレオンに打ち勝つためには「ドイツ人の団結」が不可欠である

 

という内容になります。

ドイツ人は団結していなかったんですか?

当時のドイツは小規模なドイツ人国家(領邦)が無数に存在していました。

一応、「神聖ローマ帝国」というものはありましたが、

「ドイツ人が一丸となって神聖ローマ帝国のために尽くそう」

なんてマインドは持っていませんでした。

しかも神聖ローマ帝国はナポレオンに解体されましたからね。

 

フィヒテは言います

「ナポレオンの屈辱を繰り返さないためにはまとまりがないドイツ人が団結する必要があるのだ」

この言葉を聞いた若者たちは、

ドイツの小国家の統一と、「ドイツ帝国」の成立を望むようになりました。

そのドイツ統一を1871年に成し遂げる男が、鉄血宰相ビスマルクでした

この件はまた今度ね

 

大陸封鎖令の発令

まずはポイントから

1807年 大陸封鎖令 ポイント

★目的:宿敵イギリスを孤立させ、資金難に陥らせる

★内容

①ヨーロッパ諸国にイギリス製品の輸入を禁止し、フランス製品を購入させる

②イギリスへの穀物輸出を禁止する

 

★結果

ロシアが大陸封鎖令を破り、イギリスに穀物を密輸していた

 

ナポレオンはこれまでの戦いで、

スペイン・オーストリア(+神聖ローマ帝国の領邦)・プロイセン・ロシアを屈服させました。

また、詳しく解説していませんが

ポルトガルも屈服させ、ポルトガル王家は植民地ブラジルに逃避しました

 

これにより、イギリスとヨーロッパの間

ドーバー海峡側の国々はすべてナポレオンの傘下に入りました

 

そして屈服させた国々にナポレオンは言います。

「イギリスとの通商を禁止する」

「工業製品はイギリスではなく、フランスから購入せよ」

「イギリスに穀物を輸出するな」

 

ナポレオンはイギリス国民を飢え死にさせるつもりでした。

同時にフランスの工業製品を諸外国に輸出し、

フランスが潤うという一石二鳥の策でした。

 

諸外国は表向きは大陸封鎖令に従いながらも、

本音はナポレオンの指示には従いたくありませんでした

 

どうしてですか?

まず第一にイギリス製品の方がフランス製品より安い

イギリスでは産業革命が進展して、製造が効率化されているからです。

もちろん安い製品の方が買い求めやすいので、イギリス製品の方が人気でした。

 

イギリス製品よりも高いフランス製品の購入を義務付けられると

正直いって買いたくないと思う人が多かったのです。

 

第二にロシアやプロイセンなどにとって、イギリスは大事な貿易相手国でした

ロシアやプロイセンは、農奴を働かせてつくった穀物をイギリスに売っており

工業国のイギリスは、穀物を輸入に頼っていました

 

イギリスという輸出相手国を奪われると、国の利益が減ってしまうのです

これはロシアやプロイセンにとって死活問題でした

 

そしてロシアは大陸封鎖令を破り、ひそかにイギリスに穀物を輸出していました

これに気付いたナポレオンはロシアに激怒

ロシア遠征を開始します

ロシアに「奥の手」があるとは知らずに…

 

スペイン反乱

スペイン反乱 ポイント

★背景

ナポレオンはスペイン=ブルボン朝の国王を廃位

→自身の兄 ジョセフをスペイン王につけようとした

→スペイン国民は自国がナポレオンの傀儡になることを嫌い、大反乱を決行

 

★結果

ナポレオンはスペイン反乱の鎮圧に苦戦

→これを好機と見たヨーロッパ諸国が、ナポレオンから離反しはじめる

 

★文化への影響

スペインの画家 ゴヤは「マドリード1808年5月3日」を描き…

フランス軍によるスペインの民衆の虐殺を批判した

 

ナポレオンは配下の国々への支配を強めていきました。

中でも国が衰退傾向に入っていたスペインは、ナポレオンの言いなりでした

スペインはスペイン=ブルボン家の王が統治していたのですが、

ナポレオンは国王を追放し、自身の兄のジョセフをスペイン国王につけようとしました

 

当然スペイン国民は許すはずもなく、ナポレオンに反抗しました

ナポレオンは懲罰のため、すぐさまフランス軍を派遣しましたが

「国を守ろう」という意気込みで立ち上がった市民たちは強かった…

 

フランス軍は苦戦を強いられました。

スペインの市民が武器を持って襲い掛かってくるので、

フランス兵は自分の身を守るのに必死です

 

フランス兵たちはところかまわずスペイン市民を殺害し、

ゲリラ化したスペイン市民から自分の命を守ったのです。

 

もちろんスペインの民衆はブチギレ

画家のゴヤは「マドリード1808年5月3日」という絵で

ナポレオンがもたらした惨劇を描きました

著作権の都合上載せれませんが、少し解説します。

 

マドリード1808年5月3日」の絵では、

左側に白い服を着た男性が立っています

彼は両手をあげて抗議しているのですが、

ここにはゴヤからのメッセージが込められています

 

白い服の男性はイエス=キリストを示しているのです

この男性ははりつけにされたイエス=キリストの姿をモチーフにして描かれました

それに対して銃を向けるフランス兵を描くことで、

 

「ナポレオンの軍は愚かである。キリストに銃を向けてしまうほどにおちぶれた。」

というメッセージを伝えたかったのです。

 

この反乱にフランス軍は苦戦しました

そして、「これはナポレオンに反旗をひるがえす好機」

と見て、ロシア・オーストリア・プロイセンなどの強国が

ナポレオンに牙をむく準備を始めたのです。

 

ジョセフィーヌとの離婚 マリ=ルイーズとの再婚 なぜ?

1809年 ナポレオンは7歳上の愛する妻 ジョセフィーヌと離婚

オーストリア=ハプスブルク家からマリ=ルイーズを妻に迎えました

 

ジョセフィーヌと仲が悪かったんですか?

いえ、ナポレオンはジョセフィーヌが大好きでした

 

でも別れを告げました

理由は以下にまとめます

マリ=ルイーズとの再婚 ポイント

★背景

ナポレオンはコルシカ島出身の中小貴族

→他のヨーロッパ諸国の王たちを従えるほどの権威(家柄補正)がなかった

 

★目的

由緒ある血統の女性と結婚することで、自身の権威を示したかった

→オーストリアの名門ハプスブルク家と血縁を持った

 

なるほど!

ナポレオンは自分の血統に自信がありませんでした。

 

平民ではなく貴族の家系ですが、めちゃくちゃ名門というわけでもない

ナポレオンはこう感じました

「私には権威がない…諸外国の王から見下されているかもしれない」

 

現にナポレオン家系による支配を望まないとして、

スペインの民衆たちが反乱を起こしたわけですからね。

 

ナポレオンは「正統な血統」を持つハプスブルク家との血縁を結び、

自分の「格」を上げようと試みました。

 

マリ=ルイーズはどんな女性だったのですか?

ツンツンした18歳の少女です。パパ活ではありません。

 

夫婦仲はあまりよくなかったらしく、

ナポレオンは再婚後も前妻 ジョセフィーヌを思い出していたとのことです

 

ロシア遠征と焦土作戦

ロシア遠征 ポイント

★背景

ロシアが大陸封鎖令を破り、イギリスに穀物を密輸していた

→ナポレオンはロシアへの懲罰のため、ロシアに出兵した

 

★結果

ロシアのクトゥーゾフ将軍率いる農兵らが焦土作戦を展開

→フランス軍は大敗し、多くの兵を失った

 

少し復習です

ナポレオンはイギリス以外のヨーロッパ諸国を屈服させ、大陸封鎖令を敷いていました

1807年 大陸封鎖令 ポイント

★目的:宿敵イギリスを孤立させ、資金難に陥らせる

 

★内容

①ヨーロッパ諸国にイギリス製品の輸入を禁止し、フランス製品を購入させる

②イギリスへの穀物輸出を禁止する

 

ロシアはなぜ大陸封鎖令を破ったのですか?

ロシアはもともとイギリスに穀物を輸出していたからです。

 

イギリスは工業国で、農業生産は少しおろそかになっていたので

穀物はロシアなどから輸入していました。

ロシアにとってイギリスは大事な商売相手

イギリスに穀物を輸出しないとそもそも儲かりません。

 

「これでは商売あがったりだ!」

ということで、ロシアはひそかにイギリスに穀物を輸出していたのです。

 

フランスはロシア産穀物を買ってくれなかったんですか?

フランスは現代でも食糧自給率400%の国です

 

食糧生産に関しては自国でつくる分で足りているので、

わざわざロシアから輸入する必要がありませんでした。

 

ロシア産穀物は、価格が安いです

労働力の安い農奴がつくっているからね。

安いから一定の需要はありましたけどね。

 

さて本題に戻ります。

ナポレオンはロシアに激怒し、ロシア遠征を決行します

ロシア軍にとっておきの作戦があるとも知らずに

ロシア軍の作戦を「焦土作戦」と言います

ナポレオン軍の弱点を突く、捨て身の作戦でした。

 

焦土作戦 内容

①ナポレオンの軍がロシア領に向けて進撃

②ロシア軍は負けたふりをして、北向きに逃亡

逃げた先の集落をすべて燃やし、食糧などを焼き払う

③フランス軍はロシア軍を追撃する

 

この①~③の流れをひたすら繰り返しました。

ナポレオンの軍は補給物資を現地調達しながら進んでいたのですが

ロシア軍が途中の集落を焼き払っていたので、物資を調達できませんでした

 

そして季節は進み、極寒の冬を迎えました

この年の冬は特別寒く、フランス兵にとっては耐えがたいものだったでしょう

疫病になる者・餓死するものが多数あらわれ

フランス軍は完全に敗北しました。

 

※補足

ナポレオン軍には強さの秘密がありました。

それがまたナポレオン軍の弱点でもあったのです。

 

ナポレオン軍の強さの秘密は「進軍速度」です

 

進軍速度が速い理由は、補給物資を現地調達させたからです

通常、戦場の兵士に武器や食料を届ける必要があるため

本国からの補給部隊の到着を待ちながら進みます。

でもナポレオンは補給物資をたいして送らず、現地調達を命じていました。

補給のことを考える必要がなかったため、兵士たちの進軍速度がはやかったのです。

 

ロシアのクトゥーゾフ将軍はこのカラクリを見抜き、フランス軍の弱点をつきました

途中経路の集落を焼き払い、食糧を現地調達できないようにしたのでした。

作戦は見事にはまり、フランス軍は総崩れになりました。

 

ライプツィヒの戦い

ライプツィヒの戦い ポイント

★背景

ロシアの勝利を機に、ヨーロッパ諸国がナポレオンに反撃を開始

→ヨーロッパ諸国は第4回対仏大同盟を結成し、ナポレオンと戦った

 

★結果

ロシア遠征の被害でフランス軍は弱体化していた

→フランス軍は大敗し、ナポレオンはエルバ島に流刑となった

 

あっけない結果でしたね。

死刑じゃなくて流刑なんですか?

普通に死ぬよりも、流刑の方が苦しみますからね

 

食糧がなくなり、水もなくなり

さみしく餓死していくため、死刑よりも苦しい刑罰ですね。

なるほど

こうしてナポレオンの栄光は終わりを告げた…

 

はずだった

 

 

ウィーン会議の開催(簡潔に)

1814年 ウィーン会議が開かれました。

議題は、フランスが起こした「ナポレオン戦争の後始末」をどうするか

 

この会議で、フランス外相タレーラン

正統主義」という考えを述べました

この概念が採用され、ウィーン会議はまとまりました。

正統主義とは?

「フランス革命前の不自由で不平等なヨーロッパの姿に戻そう」

「フランス革命前の社会の在り方が正しい(正統だ)」

という考え方です。

 

フランスはどうなったのですか?

正統主義の影響 @フランス

ブルボン家による王政が復活

国王はブルボン家の生き残りルイ18世(処刑されたルイ16世の弟)とする

 

王政に逆もどりじゃないですか…

フランス外相タレーランはなぜこんなことを言ったのですか?

本題からそれてしまうので、今回はウィーン会議の結果だけおさえておいてください

詳しい理由については、こちらの記事に書きましたのでご参照ください

 

今はとりあえず

フランスで王政が復活したよ

ってことをおさえておけばいいのですね!

 

ちなみにフランス国民の反応は?

もちろんブチギレです(笑)

おまけに国王ルイ18世は議会の言うことを聞かず、

独裁に走ります

しかもフランス革命中に亡命した貴族たちを呼び戻し

彼らに財産補償をあたえました

もちろん税金からね(笑)

 

フランス国民は耐えかねて…

「ナポレオンの時代の方がよかった」

と思い始めたのです。

 

そして、あの男が帰ってくる

 

エルバ島脱出とワーテルローの戦い

ワーテルローの戦い ポイント

★背景

フランスの惨状を知ったナポレオンはエルバ島を脱出し、皇帝に復位

→諸外国がこれに警戒し、ナポレオン討伐軍を派遣した

→中心となったのはイギリス 司令官はウェリントンであった

 

★結果

フランス軍が敗北

→ナポレオンはセントヘレナ島に流され、生涯を終える

 

 

ナポレオンはフランスの惨状を知り

なんとエルバ島から脱出し、フランスにもどったのであった

 

フランス国民はナポレオンの姿を見て、むしろ歓迎したようです

ナポレオンは国王ルイ18世を再び追放(笑)

そして多くの人々に担ぎあげられ、ナポレオンは皇帝の座に復帰しました。

 

この知らせを聞いて、他のヨーロッパ諸国は動揺します

ナポレオンが帰ってきた。早々につぶしておかねばならない

そして再び対仏大同盟を結成し、ナポレオン打倒の軍を送りました。

 

フランス軍とイギリスのウェリントン将軍が指揮する対仏大同盟の軍が戦います。

緒戦はフランス軍が優勢でした。

プロイセン軍が遅参して、対仏大同盟の軍は出遅れたからです。

プロイセン軍が来ないまま、決着がつくかと思われたその日

戦場に突然の大雨が降りました

これが恵みの雨となります。

 

大雨が降ると、火薬が濡れてしまうので、

大砲や銃をまともに使うことができません。

その結果、まる一日戦いに進展はありませんでした。

 

そして次の日、無傷のプロイセン軍が戦場に到着

フランス軍は動揺して総崩れとなり、フランス軍は対仏大同盟の軍に敗れました。

 

ナポレオンは、対峙したイギリスのウェリントン将軍からの嘆願で死刑は回避

再び島流しの刑にあいます。

 

今度はアフリカの沖合のセントヘレナ島に流され、

フランスに帰ることはありませんでした。

 

ナポレオンはこの地で最期を迎えます

 

最期の言葉は

「フランス… 軍… ジョセフィーヌ…」

自身が生涯大切にしていたものを言葉にして、人生を終えました。

 

マリ=ルイーズとの政略結婚のために、

ジョセフィーヌとは離婚していましたが

離婚後もジョセフィーヌを思い続けていました。

 

戦いから帰ったあとに、

いつも膝枕をして安心させてくれるジョセフィーヌ

 

ナポレオンは成功におごらずにどこかで立ち止まって、

ジョセフィーヌに包まれていれば、幸せに生涯を終えることができていたのかもしれません。

今回はここまで

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