立法議会の時代 対オーストリア戦争・8月10日事件・ヴァルミーの戦いを詳しく【フランス革命をわかりやすく④】

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 フランス革命

こんな人におすすめ

フランス革命を学んでいますが、

難しくてよくわかりません。

丁寧にわかりやすく説明してください。

とお考えの学生の方、受験生の方、世界史を学びなおしている社会人の方

 

フランス革命中の出来事を細かく区切り、

ひとつひとつのできごとについて詳しくわかりやすく説明していこうと思います。

 

この記事の対象語句

主に立法議会の時代に起こったできごとを詳しく説明します。

1791年       立法議会の成立とジロンド派の台頭

1791~1792年  ピルニッツ宣言オーストリアへの宣戦布告

1792年       ヴァルミーの戦いとオーストリア戦争の決着

1792年       8月10日事件 王権の停止

 

立法議会の時代

立法議会の成立とジロンド派の台頭

1791年 国民議会は憲法を制定

目的を達した国民議会は立法議会に権力を移行しました

そして1791年10月 立法議会が成立しました

 

立法議会の選挙は制限選挙で、

一定の財産額以上を持つ人のみが参加できました。

財産額規定により貧民(サンキュロット)は投票できず、

貧民を支持層にしていたジャコバン派は選挙に敗北します。

 

ちなみに貴族から支持を得たフイヤン派は、

支持層の貴族からの票を得ることができる立場なのですが、

立憲君主制に反対する市民に対して、発砲する事件を起こしてしまい、

スキャンダルによって力を失いました。

 

消去法よって、ジロンド派立法議会の中で最も有力となり、実権を得ました。

 

フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派についての詳細は前回の記事

 

ピルニッツ宣言とオーストリアへの宣戦布告

1791年 ピルニッツ宣言

1791年 フランス国民議会に、ある脅迫文が届きました。

ピルニッツ宣言というもので、オーストリア・プロイセンの連名で発布されました。

(これは一応、国民議会の時代のできごとです)

ピルニッツ宣言 内容

革命騒ぎをすぐさま切り上げ、革命による変化をすべて元に戻せ

そして国王ルイ16世と妻マリ=アントワネットを解放せよ

さもなくば、フランスに攻め入る

すごい脅しですね。

Q.両国はなぜフランス革命政府を脅迫したのですか?

A.国ごとに説明します。
①オーストリア
オーストリアの王家はフランス王妃マリ=アントワネットの生家 ハプスブルク家です
マリ=アントワネットの親族として、
革命で捕らわれたマリ=アントワネットを助け出すために動きました。
②プロイセン
フランス革命の余波が自国に及ぶことを恐れ、フランス革命を妨害するために動きました。
プロイセンも王政が敷かれ、王権が強い国でした。
プロイセンでは貴族(ユンカー)が大規模な土地を持ち、
農民を奴隷のように働かせる「農奴制」が実施されていました。
むしろ農民への扱いに関してはフランスよりひどいです(笑)
そんなプロイセンの農奴たちがフランス革命のことを知ったらどうなるでしょうか?
「俺たちも貴族や王を捕まえてしまおう」
「農奴制を終わらせて、プロイセンも自由で平等な国にしよう」
といって、不満をぶちまけて革命を起こすでしょう。
自国での革命を防ぐため、プロイセン政府は国内の人々に徹底的な情報統制を実施したうえで
火種となるフランス革命を歴史から消してしまおうと考えました。
オーストリアも農奴制は廃止されていますが、王権が強い国家だったので、
プロイセンと同様の理由でフランス革命を妨害したという背景があります。
フランス革命政府はうろたえて、しばらくの間は慎重に対応をとりました。

1792年 オーストリアに宣戦布告

それから1年が過ぎ、1792年になりました。
フランスでは立法議会が開かれ、その中枢を担うジロンド派はついに決意します。
準備は整った。オーストリアとプロイセンを迎え撃つ
そしてフランス軍はオーストリアに宣戦布告しました。
しかし、緒戦でフランス軍は敗北を繰り返します。
それもそのはず。フランス軍には優秀な司令官があまりいません。
司令官は貴族が担っていたのですが、革命騒ぎで外国に亡命する貴族があとを絶たず
かなりの数の優秀な人材が流出していました。
そんなフランス軍を尻目に、オーストリア・プロイセン連合軍はフランス軍を押し返し、
逆にフランス領に攻め入ります
もはやフランス軍は風前の灯火でした

ヴァルミーの戦いとオーストリア戦争の決着

フランス軍劣勢の中、
水面下でオーストリアへの抵抗を呼びかけていた人たちがいました。
立法議会では脇役だったジャコバン派です。
演説が上手なダントンを筆頭に、フランスの市民に呼びかけます。
「この戦いに負ければ、革命によって得た自由も平等も失われる」
「そしてあろうことか、我々の町も、家も、家族も、オーストリア軍に奪われる」
「市民よ立ち上がれ!奴らの奴隷に成り下がらないために!」
この呼びかけにフランスの市民は応じ、老若男女とわず、軍に志願しました。
農具や掃除用具など、ありあわせのものを武器として選び
銃がなくても戦いました。
こうして結成された軍を「義勇軍」と言います。
武器自体は弱いが、義勇軍には守るべきものがあるから、戦意が抜群に高かったのです。
しかし武器の質で勝るオーストリア・プロイセン連合軍が次第に優勢になります。
そして再びフランス軍劣勢の中、両軍がヴァルミーで激突しました。
数では義勇軍を抱えるフランス軍が有利
でも火力はオーストリア・プロイセン連合軍が圧倒的に有利
しかしありあわせの鈍器を振り回しても、最新の銃を持った集団には勝てません。
フランス軍が次第に崩れ始めます。
しかしここで奇跡が起こります。
突然の大雨
雨で火薬が濡れてしまい、オーストリア・プロイセン連合軍の銃が無力化されてしまいました。
武器の優位を奪われたオーストリア・プロイセン連合軍は総崩れとなり、
義勇軍と正規軍が入り混じるフランス軍が息を吹き返しました。
そして最終的にフランス軍が勝利し、見事に国を守って見せたのです。
ナショナリズムの高揚

この戦いでフランス市民が見せた反応を「ナショナリズムの高揚」と言います。

ナショナリズム(国民意識)とは、

「何としてもこの国を守りたい」

「何としてもこの国を盛り上げたい」という、強い意識のことを指します。

 

外国から苛烈に攻められたことによって、

フランス市民は

「自分の国・町・家・家族・革命によって得た自由を失いたくない」

と思って覚醒

そして非常に戦意の高い集団に化けたのでした。

8月10日事件と王権の停止

各地で義勇軍が結成されて戦っている頃、パリ近辺では別の事件が起きていました。

フランスの市民たちがテュイルリー宮(国王夫妻と王党派が捕らわれている場所)を襲撃したのです。

 

オーストリア軍はルイ16世マリ=アントワネットの救出を企ています。

ルイ16世夫妻は何としても助かりたいので、

オーストリア軍を領内に招き入れようとしました。

そしてひそかにフランス軍の戦略・配置などの情報をオーストリア軍に流していたのです。

 

もちろん市民たちはそれを許さずに激怒しました。

そして国王夫妻とその側近たち(王党派という)を逮捕

国王夫妻が裏切り者であるとして

今日この日をもって王権を停止する」と宣言しました。

この日が8月10日だったので、8月10日事件といいます。

対オーストリア戦争のフランス

ジャコバン派の台頭

オーストリアとの戦いで活躍したのは、

間違いなくジャコバン派と市民たちでした

無計画に戦争を挑んで敗戦を繰り返したジロンド派は力が衰え、

代わりにジャコバン派が台頭していきました。

そして立法議会は解散され、新たに国民公会が開かれるようになりました。

 

Q.フイヤン派や中心人物のラ=ファイエットはどうなったのでしょうか?

A.多くが外国に亡命しました。ラ=ファイエットも同様です。

仮にもフイヤン派は「立憲君主制」を主張していました。
つまり国王の命や立場を守ろうとしていたのです。
「フイヤン派がかばっている国王が、敵国オーストリアと内通している」
「裏切り者をかばうフイヤン派は敵だ!非国民だ!」
と言われて石を投げられてしまうわけです。
フイヤン派の貴族たちは次々に国外へ逃亡していきました。
でも、一部の貴族は国内に潜伏して王政復活・王政の維持のチャンスをうかがっていました。
この件はのちほど。

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