ウィーン体制下のフランス・スペイン 流れ・ポイントを解説 七月革命と二月革命 背景と結果【ウィーン体制をわかりやすく】

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 ウィーン体制

こんな人におすすめ

ウィーン体制について学んでいるんですが

難しくてよくわかりません。

誰かわかりやすく教えてください。

とお悩みの高校生・大学受験生・世界史を学びなおしている社会人の方

 

対象語句

ウィーン体制化のフランス・スペインで起こったできごとの

流れ・ポイント・背景・結果などをわかりやすく解説します

 

1815年 ブルボン朝の復活

1820年 リエーゴの革命(スペイン立憲革命)への介入(@スペイン)

1830年 フランス七月革命

1830年 ルイ=フィリップの七月王政

1848年 フランス二月革命

1848年 諸国民の春 ウィーン体制の崩壊

 

なぜ、スペインのできごとも扱うのですか?

ブルボン家の王をもつ国だからです

 

それにフランスは、スペインで起こった革命に干渉しているので、

この章に入れ込みました!

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

ウィーン体制下のフランス

ブルボン家の復活

1815年 ブルボン家の王政復古 ポイント

★背景

ウィーン議定書の「正統主義」の原則に基づき、革命前の社会に逆流

→フランスではブルボン朝による王政が復活した

 

★ポイント

国王はルイ18世ルイ16世の弟)

立憲君主制を敷いたため、一応憲法はある

※ただし王権の強い憲法で、国民からの批判を受けた

 

正統主義については、こちらの記事で詳しく

 

リエーゴの革命(スペイン立憲革命)への介入 @スペイン

1820年 スペインで革命騒ぎが発生しました

1820年 リエーゴの革命(スペイン立憲革命) ポイント

★背景

スペインでも同じく、ブルボン朝の王政が復活

→圧政を敷く国王に対し、国民の不満が高まった

 

★結果

自由主義者リエーゴを筆頭に市民が蜂起し、革命が発生

→しかしフランスが革命政府に干渉し、革命は挫折した

 

ナポレオン戦争期にさかのぼります

ナポレオンがスペイン王を廃位し、兄のジョセフを王につけました

そんなナポレオンに不満を持ち、スペインの民衆は反乱を起こしました

 

1814年 ナポレオンは敗戦 エルバ島に流され、

スペインは独立を回復しました

このころに、市民たちが自由主義憲法をつくり

民主的な政治を行うようになったのです

 

しかし1815年 ウィーン議定書が定められます

正統主義の原則が採用され、スペインでもブルボン家の王政が復活したのです…

しかも国王はポンコツだったので、市民たちはさぞ悔しがりました。

 

そしてリエーゴという自由主義者を中心に

スペイン国民は反乱を決行したのです!

 

革命が成功したか?と思われたそのとき

フランス軍が干渉してきたのです…

 

【質問】スペインの革命にフランスが介入した理由

フランスはなぜ介入したのですか?

革命の余波がフランスに来るのを恐れたからですね

 

 

スペインでの自由主義革命が成功すると、

隣国のフランスの国民たちも活気づきます

「俺たちの自由を返せ!国王を倒せ!」

と言いながら暴れられては困ります

 

そこで、フランス王ルイ18世

隣国スペインでの革命の鎮圧を命令したのでした

 

結果、フランス軍の協力によってスペイン=ブルボン朝は救われ

革命は失敗に終わりました。

 

七月革命

1830年 七月革命 流れとポイント

★背景

①国王シャルル10世亡命貴族の帰国を許し、彼らを優遇

②議員の選出の際、厳格な制限選挙を実施し、国民から不満を買った

③国民の不満をそらすためにアルジェリア出兵を決行

→アルジェリアの制圧には成功するも、国民の不満はまぎれなかった

④1830年 シャルル10世は七月勅令を発布

→大規模な言論弾圧を行い、国民の不満が爆発した

 

★結果

銀行家ラフィットが中心となり、市民革命が発生

→国王シャルル10世は退位し、ブルボン朝は完全に滅亡した

 

必要な語句・ポイントをまとめるとこんな感じです

ここからは詳細を説明します。

 

国王シャルル10世の圧政

ルイ18世の死後、シャルル10世が王位を継承しました

シャルル10世はルイ18世がかわいく思えるような圧政を敷きました

 

まず、フランス革命中に亡命した貴族(亡命貴族)に帰国を許します

フランスに帰国しても土地や財産はすでに奪われているので、

彼らに手厚い生活保障を与えました

国家予算を使って亡命貴族に土地を付与したりと、やりたい放題でした…

 

しかも議会の議員選挙を制限選挙とし

よほどの金持ちでなければ投票できないようになりました。

 

政治が腐っていようとも、

フランスの貧しい市民たちには参政権がないため、

政府に対して意見を言うことすらできなくなりました

言葉で政治を変えることはできないから

暴力で革命を起こしてしまえ

ってなるわけですか

そういうことです

 

歴史上の革命は、いつもこのパターンで始まります

 

国民の不満をそらせ アルジェリア出兵

シャルル10世はさすがに国民がうんざりしていることに気づきます

「革命を起こされてはマズい」

ということで、シャルル10世は国民の不満を外に向けようと考えました

 

適当な口実をつけてアルジェリア政府を悪人に仕立て上げて、

アルジェリアに出兵

国民の不満をアルジェリアに向けようとしたのです

アルジェリアにはどんな言いがかりをつけたのですか?

まず、フランスの駐アルジェリア大使(簡単に言うとフランスの外交官)が

 

アルジェリア太守(指導者)に罵詈雑言を吐いて挑発します

アルジェリア太守はブチ切れて、

フランスの駐アルジェリア大使の男性にビンタしました

手のひらでビンタしたのではなく、日本でいう扇子のようなものでビンタしたので

これを「扇の一打事件」と言います

 

「アルジェリア人がフランスの外交官を殴った」

とフランス国内に報道し、シャルル10世はアルジェリアを悪役に仕立てました

そしてアルジェリアに出兵することで、国民の不満をそらそうとしたのです

結果としてアルジェリアの保護国化には成功したのですが

国王の見え透いた不満そらしは、フランス国民には通じませんでした(笑)

 

引き続き、国王への批判は続きました

 

七月勅令による言論弾圧

シャルル10世は七月勅令を出し、

国王への批判を禁止しました

この言論弾圧にフランス国民は怒り、革命が発生しました

 

七月革命の発生

1830年 フランスの市民たちが一斉に蜂起しました

裏で糸を引いていたのは、銀行家ラフィット

革命には資金が必要だったのですが、

ラフィットを中心とする銀行家グループが

革命に必要な資金を工面していたのです

革命後の新政府で、銀行家が優遇される理由はコレです。

 

話を戻します

革命軍はシャルル10世の王宮を囲い、シャルル10世はさすがに諦めます

そしてシャルル10世は退位を認め、ブルボン朝による王政の終了を認めたのです

 

革命派によって新政府の樹立が宣言され、

フランス七月革命は成功しました。

 

文化の影響 ドラクロワ 民衆を導く自由の女神

出展:https://publicdomainq.net/eugene-delacroix-0009381/

二月革命の様子を躍動感ある形で描いたのがこの絵画

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」

ドラクロワはほかにも

ギリシア独立戦争におけるオスマン帝国の残虐行為を批判し

「キオス島の虐殺」を描いたことでも有名です

共通テストでも常連の絵画です

 

【余談】ドラクロワの秘密

作者のドラクロワには秘密があります。

 

ドラクロワは、フランス外相タレーランの隠し子

隠し子ってどういうことですか?

ドラクロワはタレーランの不倫相手の子どもです(笑)

タレーランは「ドラクロワは自分の息子ではない」といって

不倫を隠蔽しました(笑)

でもDNA鑑定の結果、ドラクロワは高確率でタレーランの子どもだそうです

 

ことの経緯を説明します

若いころのタレーランは聖職者でした

聖職者は妻を持つことを禁止されていたので、

結婚も、結婚を前提としたお付き合いもできませんでした。

 

タレーランはそんなこともお構いなしで

部下の妻と不倫しました(笑)

で、不倫関係が長くつづくうちに赤ちゃんができちゃうのです

クズじゃないですか…(笑)

その赤ちゃんの名がドラクロワ

タレーランは不倫を隠蔽するために、

「自分の子だ」とは言いませんでした

 

結果として、不倫相手夫婦がドラクロワを育て

彼は立派に育ち、画家になったということですわ。

おしまい

 

七月王政

七月王政を簡潔に

1830年 七月王政 ポイント

オルレアン家ルイ=フィリップを国王に迎えた新政府

厳格な制限選挙を実施

→大銀行の頭取や大企業の社長しか選挙権を持たなかった

国民は新政府に不満を持ち、ふたたび革命を起こすことになる

 

1830年 フランスに新政府が樹立されます。

オルレアン家ルイ=フィリップを国王に迎え、

議会も新しく開かれました

 

【質問】なぜ国王を迎えたのか?

質問です!

王の圧政に対して不満があって革命を起こしたのに

なぜまた王を迎えたのですか?

王を迎えて、君主制を敷くメリットがあったからです

 

君主制のメリットは

国民同士の争いをおさめるリーダーがいることです

 

王がいない場合は、国民はみんなフラットな関係です

そんな国民たちが意見対立し、血みどろの争いをしたとします

誰がこの争いを止められますか?

 

みんなフラットな関係なので

誰かが「争いをやめよう」って言っても

「てめぇ何様だ!」ってなりますよね

そうなんです。

 

そんな状態では争いはおさまりません

そんなとき、国民統合の象徴として国王がいると少し楽です

 

国王が一声

「皆の衆 私はどちらにつくわけでもないが、争いをやめよ」

と言ったら、丸くおさまるでしょう?

そうしたことから、当時のフランスには国王が必要だったのです

 

【質問】オルレアン家って?

オルレアン家とは、爵位がかなり高い貴族です

フランス国王から直々に地位を認められ、高い権威を誇っていました

 

新たに国王を迎えるとしたら

「お前誰だよ?」

って人を王にするわけにはいきません。

ちゃんと有名な家系の権威性のある人を王にしたのです。

 

【質問】厳格な制限選挙をしたのはなぜ?

市民革命によって七月革命が成功したのに

市民たちには選挙権がありません

 

銀行家などの大金持ちが優遇されています

これはなぜですか?

 

理由は2つあります

理由

銀行家たちが七月革命の成功を裏で支えていたから

②フランスの産業革命の進展には、銀行家の力が不可欠だったから

 

くわしく教えてください

銀行家たちが七月革命の成功を裏で支えていた

これは先の項目でも記しましたが…

七月革命において、裏で糸を引いていたのは

ラフィットを中心とする銀行家集団です

 

革命には資金が必要だったのですが、

ラフィットを中心とする銀行家グループが

革命に必要な資金を工面していたのです

 

つまり、革命の成功には銀行家の功績が大きかったということです。

新政府で銀行家が優遇される理由はコレです。

 

②フランスの産業革命の進展には、銀行家の力が不可欠だった

フランスを民主化することも大事ですが

フランス経済を発展させることも当時の課題でした

フランスの産業革命は不十分で、本格的に始まるのは1830年代なのです

 

1830年代にイギリスが機械輸出を解禁したため、

フランスベルギーがイギリス製の機械を購入しました

工場に機械を導入し、工場制機械工業を発展させていったのです

手でモノ造りをするよりも、よほど効率がよくなったのです。

 

しかし、新たに産業をおこすためにはお金が必要です

そのお金を握っているのが銀行家なのです

通常、社長が新たに事業を立ち上げるときには

銀行からお金を借ります。

お金の流れを握っている銀行こそ、産業革命には不可欠だったのです

そうした時代背景から、七月王政では銀行家が優遇されました。

 

二月革命

1848年 二月革命 ポイント

★背景

①制限選挙への不満と「改革宴会」に対する言論弾圧

ギゾー首相の失言

 

★結果

1848年 パリの市民が蜂起し、革命が発生

→国王ルイ=フィリップは亡命し、七月王政は終了

→新政府が築かれ、「第二共和政」が始まる

→議会の議員は男子普通選挙で選定されるようになり、フランスは平等化

 

改革宴会への言論弾圧

改革宴会」とは

七月王政下のフランスで行われた反政府集会のことです

七月王政下のフランスでは、

厳格な制限選挙への不満から、各地で市民集会が開かれていました

「俺たちにも選挙権をよこせ」ってね

 

なんで「宴会」なんですか?

政府に対するカモフラージュです。

 

「反政府デモ」とネーミングしてしまうと、

政府から目をつけられてしまうので、

市民たちは宴会をするフリをして集まり、

そこで政府への批判を自由におこないました

こうして開かれた、宴会の皮をかぶった反政府集会を「改革宴会」といいます

 

もちろん政府は勘ぐっています

「奴らは陰でコソコソ政府を批判している」

 

ギゾー首相の失言

政府の首相 ギゾーは改革宴会の弾圧に乗り出します

そして改革宴会を禁止してしまいました。

 

もちろん市民たちは抗議します

「こんなんじゃ、ブルボン朝と同じじゃないか!」

そして抗議する民衆たちに向けて、ギゾーが失言をしてしまいました

 

ギゾー首相は言いました

「貴様らは参政権が欲しいらしいな」

「そんなに参政権が欲しいのなら、金持ちになりたまえ」

 

この言葉にパリの市民たちはブチギレ

瞬く間に革命が発生しました。

 

二月革命の発生と結末

参政権が金持ちに限られていることへの不満

言論弾圧への不満

ギゾー首相の失言への不満

これらの不満が爆発し、

1848年2月にパリ市民が暴動を起こしました

 

「俺たちの自由を返せ」

「革命で得た平等を返せ」

 

市民の怒りは国王と政府を震え上がらせ

ついに国王ルイ=フィリップはイギリスに亡命しました

こうしてフランスニ月革命は成功し、七月王政は打倒されました

 

革命後、新政府が樹立され

議員は男子普通選挙で選ばれるようになりました。

こうしてフランスに「自由と平等」が取り戻されたのです

 

「諸国民の春」とウィーン体制の崩壊

諸国民の春とは?

フランスニ月革命の成功はモールス信号(電報)を通じて諸外国に伝播

→各地の自由主義者が刺激されヨーロッパ各国で革命や独立運動が多発した

→ヨーロッパ各地で革命運動が多発したさまを「諸国民の春」という

 

ウィーン体制の崩壊とは?

フランス二月革命の成功に刺激を受け、

オーストリア首都ウィーンの市民がウィーン三月革命を決行

ウィーン会議の主催者メッテルニヒが失脚し、

メッテルニヒが作り上げた国際秩序(ウィーン体制)が崩壊したことを指す

 

そして、ウィーン議定書で定められた

「フランス革命前の不自由で不平等な社会が正しい」

という時代は打ち破られたのでした。

 

【余談】「諸国民の春」 語源は?

まず「春」というのは「新しく何かが開くとき」を表しています。

たとえば季節の「春」だと、

「新しい年度が開く季節」

「新しく桜の花が開く季節」

となります。

 

では「諸国民の春」の意味は…

諸国民の春 意味

「フランス二月革命をトリガーとして、

ヨーロッパ諸国で、新たに自由平等な社会が開かれた」

 

ということになります。

 

ちなみに春という言葉の語源は

墾田永年私財法」でおなじみの「」という字です

 

ちなみに「墾」という字を訓読みにすると、「墾る(はる)」となります

 

そして「墾」とは、「新しく何かを開く」という意味です。

つまり「墾田」とは、「新しく田を開拓する」という意味になります。

 

おわかりでしょうか?

「春」とは新しく何かが開く季節

「墾(はる)」とは、新しく何かを開くこと

 

実はこんなところで言葉遊びができます。

世界史とは関係ないですが、

歴史をたどっていくとこんなにも面白い出会いがありますね。

 

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