日清戦争と三国干渉 原因と結果 流れとポイントをわかりやすく解説【世界史・日本史・歴史総合】

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 日清戦争・義和団事件・日露戦争

こんな人におすすめ

日清戦争について勉強しています

ポイントはわかるのですが、

流れを詳しく、論理的に

わかりやすく理解したいと思っています

誰か教えてください

という思いをもった

 

世界史と日本史の受験勉強中の学生さん

テスト勉強中の学生さん

社会人になってから学びなおしている歴史ファンの方

 

どちらかというと世界史的な視点を中心に、

日本史の内容を織り交ぜながら

日清戦争を語っていこうと思います

 

わかること・対象語句

★日清戦争の背景

何をめぐって争った?

争いの舞台 朝鮮国内の登場勢力とその意図

 

★日清戦争前夜

1875年 江華島事件

1876年 日朝修好条規

1882年 壬午軍乱

1884年 甲申政変

1885年 天津条約【内容が重要】

 

★日清戦争開戦から講和まで

1894年 甲午農民戦争

1894年 日清戦争勃発

1895年 下関条約

 

★【探究】なぜ清は負けたのか?

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。

てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

日清戦争の背景

日本と清は何をめぐって争った?

日清戦争(1894年)は

日本と清が朝鮮における指導権をめぐって対立し、

起こった戦争です

日本にとっても清にとっても、

朝鮮は大切だったのですね

 

当時の朝鮮の状況を詳しく教えてください

 

朝鮮の状況・清にとっての朝鮮半島

まずは朝鮮の状況から

 

当時の朝鮮には

李氏朝鮮(朝鮮王朝)という政権がありましたが、

17世紀以来、清に服属していました

服属とは?

簡潔にいうと、

李氏朝鮮は独立した王国ではあったのですが、

いわゆる「清の皇帝の子分」のような扱いだったということです。

しかし19世紀になると、

親分の清が衰退して欧米列強に押され始めます

 

欧米列強の中でも特にロシアが積極的でした

 

ロシアは寒くて海が凍ってしまう国

不凍港(冬でも使える港)」を求めて南下政策を行っています

 

清はロシアの南下政策の餌食となり、

清はロシアに領土を奪われ、

ロシアの手は朝鮮半島にも迫っていました。

 

そんなとき

「ロシアがこれ以上南下してくるとマズイ…」と

恐れを抱いていたのが日本でした

 

日本にとっての朝鮮半島

当時の日本の政治家たちはこう考えていました。

朝鮮半島を「バリア」にして、

ロシアが日本の領土に攻め入るのを阻止しなければならない

でも、李氏朝鮮の政治はワイロ政治で腐敗

しかも朝鮮の親分 清も衰退傾向

 

このまま李王朝と清に朝鮮半島を任せておくと、

ロシアは簡単に南下してくるでしょう

 

そこで日本の明治政府は、

ロシアから日本を守るため、

朝鮮半島に防衛線を敷こうとしたのでした

 

でも日本の勝手な行動を、

李氏朝鮮の親分である清が許すはずがありません。

こうして日本と清が

朝鮮半島の指導権をめぐって争うようになったのでした。

 

争いの舞台 朝鮮国内の勢力と意図

手短にまとめるとこんな感じです

 

登場勢力

・国王:李氏朝鮮国王 高宗

政治に興味を持たず、父や閔妃に政治を一任

 

攘夷派:高宗の父 大院君が指導

→欧米列強や日本を嫌い、外国勢力の介入を排除したい

 

事大党:高宗の妻 閔妃とその一族(閔氏)が指導

→一時的に日本に屈服したが、清にすり寄る

 

開化派金玉均が指導(日本への留学経験がある人物)

日本や欧米にならい、議会政治などの近代的な政治を取り入れるべきと考えた

 

詳しく説明しますね

 

【国王】高宗

国王高宗は朝鮮王家の分家の身分から、

国王の座につきました

 

先代国王の子は娘しかおらず、

男子は若くして亡くなっていたため、

分家の高宗が国王になったのでした

 

ですが高宗は政治にあまり興味がなく、

女遊びにふけっていました。

 

結局政治は高宗の父、大院君が担い

大院君が退いたあとは

妻 閔妃の一族が政治を動かしていたのでした。

 

【攘夷派】高宗の父 大院君

大院君は高宗にかわって政務をとっていましたが、

徹底的な攘夷主義者でした

 

攘夷」とは、

「安易に開国するな」

「通商を求めてくる外国勢力(欧米や日本)を追い返せ」

という考えのことです

大院君が欧米列強や日本を

警戒していたのはなぜですか?

朝鮮の経済に悪影響が出て、

朝鮮の民が失業することを恐れたからです。

 

欧米列強は朝鮮に開国を迫ったことがあります。

「わたしたちと貿易してください」

 

欧米では産業革命が進展していて、

あらゆるモノを安く効率的よくつくることができます

そして製品をアジアに売りにくるのです

 

欧米産の安い製品が朝鮮に流れ込んでくると、

安い外国産製品ばかりが売れます。

 

そして朝鮮の職人が作ったモノは売れなくなってしまいます。

そして朝鮮の民の多くが失業…

なんて流れになります

 

たしかに安く商品が手に入るのはいいことなんですが、

朝鮮の民の仕事がなくなってしまうことが危惧されました。

 

こうした朝鮮経済への悪影響を考慮して、

大院君は開国を求める使節を追い返してきたのでした。

不器用ですが、国民想いな人

ってイメージですね

 

【事大党】高宗の妻 閔妃

高宗の妻

閔妃政治方針が少しブレるので少々ややこしいです

 

閔妃の考え方の変化を簡単に説明すると…

閔妃の政治方針

はじめ:日本の圧力に屈する

その後:清にすがり、反日になる

 

詳しくはこのあとの章で説明しますね。

 

彼女がいた党派を「事大党」といいます

 

事大党とは、

外国勢力の干渉から朝鮮を守るため、

国)の助けを借りようとしたグループのことを指します

 

結局このグループが朝鮮政府の最大派閥となっていき、

長年にわたって朝鮮政府の中心を担います。

 

しかし閔妃には浪費癖があり、

専属の占い師に対して大金を貢いでいました。

 

閔妃の浪費によって

朝鮮政府は財政赤字になります。

そして国民から重税を課すハメになりました。

 

最終的には政治腐敗によって

民からの反発を受け、

甲午農民戦争を招くこととなります。

 

【開化派】金玉均

金玉均は日本への留学経験を持つ若手の人材です

日本への留学中、あの福沢諭吉に師事を乞いました

 

日本が欧米を学んで手に入れた産業技術や

政治制度を見て、その先進性に驚きました。

 

そして、

「朝鮮を守るには、日本にならった文明開化が必要だ」

と思うようになりました

金玉均は清や朝鮮を見限っていたのですか?

おおかたそういう感じですね。

 

当時の朝鮮政府も清も、政治腐敗が激しく

税官吏たちが偽の徴税をしてポケットに入れたり、

国家予算は王家がガバガバに使ったりと、

散々でしたからね。

 

そんな政治腐敗を正すには、

議会政治と選挙制度が不可欠でした

 

国家予算の使い道議会で話し合い、

選挙を通じて、国のために責任をもって働く政治家を選ぶ

 

こうした改革をもって、

政治腐敗を正していかなければ、

すぐに欧米列強の餌食になってしまいます。

 

金玉均は日本にならった改革をめざしたのでした。

 

日清戦争前夜

閔妃政権の誕生

1860年代

高宗が成人して一人前になったため、

大院君が摂政の座から降りました

 

しかし高宗は酒と側室の女に溺れ、

結局、妻の閔妃とその一族(閔氏)が政務をとったのでした

 

ここから朝鮮の政治と

対外情勢が動き始めます

 

頑固に開国を拒否していた大院君の引退

これは日本にとってチャンスでした

 

1875年 江華島事件と日朝修好条規

江華島事件

★背景

李氏朝鮮での政権交代により、開国交渉の隙が生まれた

→そこで日本は閔氏政権に手荒な開国交渉を行った

 

★経緯

江華島へ測量に訪れた日本海軍の挑発に乗り、朝鮮水軍が発砲

→これを口実に日本軍が朝鮮水軍に制裁を加えた

→朝鮮政府(閔氏)は日本と交渉し、日朝修好条規で講和

 

日朝修好条規(江華条約) 内容

①李氏朝鮮は日本に釜山・仁川・元山の3港の開港を認める

②日本に対して、開港した3港での領事裁判権を認める

 

江華島事件の経緯

朝鮮政府での政権交代

これは日本にとってチャンスでした

 

かたくなに開国を拒んできた大院君がいなくなった

しかもその次に政務をとったのは女性

「これはつけいる隙があるのでは?」

と考えたわけです

 

しかし李氏朝鮮は清の属国

正当な理由なく交渉すると、

親分の清が出てきます

 

開国交渉をするには

正当な「口実(言いがかり)」が必要でした

 

そこで日本はアメリカのペリーのやり方にならい、

朝鮮軍を挑発したのです

 

まず江華島(首都ソウルの近くの島)に

地形図作成を目的として測量隊を派遣します

 

朝鮮水軍は外国籍の船に警戒し、

威嚇射撃をしました

 

そして日本は言います

「先に撃ったのはそっちだ。応戦する。」

めちゃくちゃな言いがかりですね…

これはアメリカのペリーが日本にやった手法と同じです

 

実はペリーも江戸湾内に侵入し、測量をしました

もちろん挑発行為です

江戸幕府は発砲しなかったので惨事は免れましたが、

発砲してたらアメリカから散々な報復をされていたでしょうね。

 

で、今回は朝鮮水軍が撃ってしまったと

そういうことです

 

結局さきに撃った方が悪いっていう扱いを受けるので、

日本にとっての「口実(言いがかり)」ができました

 

「朝鮮水軍を取り押さえ、朝鮮を開国させよう」

そういう算段です

 

日朝修好条規の締結 ~開国させる目的は?~

日本は李氏朝鮮の閔氏政権に開国を交渉

釜山・仁川・元山の3港の開港を認めさせました

 

そして開港した3港での領事裁判権を認めさせました

朝鮮国内に出入りする日本人が、

朝鮮領内で犯罪を犯しても、

日本の法で裁かれるってことですね。

 

朝鮮を開国させること

そもそも日本の目的は?

日本の目的をおさらいしておきます

ロシアから身を守るため、朝鮮に防衛線を敷くこと

でしたね

そのためには、

①朝鮮の開国通商の受け入れ・国交樹立など)

朝鮮軍の強化

この2点が必要です

 

まず李氏朝鮮と通商し、

貿易港として、釜山・仁川・元山の開港させます

そして最新の兵器を輸出します

 

そして朝鮮政府と国交を結び、

朝鮮軍に軍事顧問を派遣し、

軍の近代化を図ります

 

そうすることで、

ロシアの進撃を止める力を身につけてもらうようにしました

 

李氏朝鮮の政権を操ってしまうのはダメなんですか?

それはできません。

 

李氏朝鮮は清の属国でしたからね

なんの口実もなく無理やり支配すると、親分がキレます

 

当時の日本の明治新政府は発足から6年

生まれたての状態です

そんな準備不足の状態で清には勝てませんからね。

 

しかし開国によって、

朝鮮政府内でいざこざが起こります

 

1882年 壬午軍乱

手短にまとめるとこんな感じです

壬午軍乱 内容

★背景

朝鮮軍人が閔氏政権の給与未払いに反抗

大院君を擁立し、閔氏政権にクーデタを決行

→閔妃を捕らえ、さらに日本人の軍事顧問を殺害した

 

★結果

閔妃は清に救援を要請

→大院君は逮捕され、最終的にクーデタは失敗

日本とは済物浦条約を結び、

→賠償金支払いと日本公使館近辺への日本軍の駐在を認めた

 

★影響

閔妃は日本の影響力を除外するため、

清からの保護を求めるようになる

 

【質問】軍が閔氏政権に反抗 なぜ?

李氏朝鮮の閔氏政権は、

軍人への給与を2年間払っていませんでした(笑)

それに怒った軍人が反乱を起こしたのです

給与を払わなかったのは

軍人への嫌がらせですか?

払わなかったというより

「払えなかった」が正しいですね

 

当時の朝鮮は日本から武器を買い、

日本人軍事顧問に給与を払っていました

(あとは閔妃様の浪費…)

 

つまり支出が多かったのです

そんな状況もあり、軍人たちに給与を「払えません」でした

 

軍人たちも必死でこらえて、給与交渉をしました

そして閔氏政権側は

「わかった。2年ぶりに給与をやる」

と言ったのです

 

当時の給与は米で支払われていました

兵士たちに米俵が渡されます

兵士たちがわくわくしながらその米俵をあけると…

 

半分が米、半分が砂でした(笑)

でごまかすな

って感じですね(笑)

あきれ返った軍人たちは、

閔氏政権の転覆を企てるのでした

そして大院君を擁立し、反乱を起こしたのです

 

【質問】軍人たちが大院君を擁立したのはなぜですか?

軍人たちが反乱を起こすのはわかりました

でもなぜ大院君をたてたのですか?

大院君は攘夷派で、

外国の介入を拒む人だからです

 

軍人たちの給与が未払いになった原因を

よくよく考えてみてください

 

日本から武器を買いすぎてお金がなくなったから

日本人の軍事顧問にお金を払っているから

 

といったところですよね

そう

軍人たちへの給料が支払われていない理由…

「元をたどれば日本が悪い」

という風に考えたのです

 

「日本の介入を退けてくれそうなリーダーは誰だろう」

と考えたときに、

まっさきに攘夷派の大院君が浮かんだわけです!

なるほど!

 

壬午軍乱の展開と結末

大院君を擁立した朝鮮軍人たちは、

日本人の軍事顧問を殺害し、

閔妃政権を奪おうと考えました

そして閔妃は一時的に捕縛されてしまいます

 

しかし閔妃は捕まる直前で、

清に使節を派遣していました

「清国 西太后さま 助けてぇぇぇぇ」

その声が届き、清から援軍がかけつけます

 

そして清軍は大院君をあっさりと捕まえてしまい、

壬午軍乱は失敗に終わるのでした

 

そして閔妃による政権は復活したのでした

 

閔妃はこのときに思い始めます

「何かあっても清に頼ったら大丈夫だわ」

このときから、

閔妃は大国の清にすがる「事大主義」となったのでした

閔妃は首都漢城への清軍3000人の駐在を認め、

清からの保護を受けることになりました

 

そして閔妃は今回のクーデタ騒動を受けて…

「朝鮮の改革を日本に任せておくと、ろくなことがない」

と思い、日本の影響力を排除しようとしたのでした

 

事件の後始末はどうなったのですか?

朝鮮政府は渋々ながらも、

 

日本に賠償金を払いました

日本人の軍事顧問が殺害されていますからね

 

そして朝鮮に駐在する日本人の安全を守るために、

日本人警備兵の駐在を認めました

上記2つを日本に約束したのが、済物浦条約でした

 

1884年 甲申政変

まずはポイントから

甲申政変 内容

★背景

清にすがる閔氏政権に対し、金玉均が反抗

→金玉均は朝鮮駐在の日本軍と協力し、閔氏政権へのクーデタを決行

 

★経緯

金玉均は閔妃を捕らえ、自身による改革を宣言

しかし閔妃は清に救援を要請

袁世凱率いる清軍が救援にかけつけ、

金玉均と日本軍は敗走

 

★結果

閔氏政権は生き残り、

金玉均は日本に亡命後、暗殺された

→結果として甲申政変は失敗に終わる

 

★影響

朝鮮で日本軍と清軍が交戦したため、

日本と清が全面戦争の危機に

→しかし天津条約で講和し、ことなきを得る

 

クーデタの準備

壬午軍乱のあと、

閔氏政権は清にすがり、

日本にならった軍政改革をやめてしまいました。

 

そしてあろうことか、

命の危機を経験した閔妃は占い師に心酔…

国家予算の多くが占い師の教団に投資されていきました

 

この惨状をみて

「このままでは朝鮮王国は滅びる」

と警戒したのが開化派金玉均でした

 

金玉均は日本に留学した経験のある、

若い政治家です。

 

すぐさま閔妃を倒し、

自分が朝鮮の政権をとり、

西洋式の近代軍や、

議会政治などを取り入れようと考えました。

 

 

クーデタの準備が始まります

しかし順調にはいきません

金玉均は日本政府にクーデタの支援を要請するのですが、

日本は最低限の支援しかしてくれませんでした

 

日本は金玉均と親しいはず…

なぜですか?

日本政府の財政状況に余裕がなかったのと、

 

自由民権運動が各地で加熱していたから、

日本には海外情勢に介入する余裕がなかったのです。

 

「金玉均よ、もう少し待てないか?」

というのが日本の本音ですね。

 

一応、朝鮮には日本大使館を守るための警備兵がいますから

微力ながらも金玉均のクーデタに力を貸すことはできますけどね

 

金玉均の三日天下

金玉均は支援者が少ないまま、

突如クーデタ計画を決行

朝鮮に駐在する日本軍と協力して、

閔氏政権の役人を殺害

そして閔妃を捕らえることに成功します

 

金玉均は新政府を樹立し、

近代化のための諸改革の実行を宣言しました。

 

しかし、閔妃は捕まる直前に清に救援を要請していました

 

「閔氏政権を助けるか?」という議題で

清の政府で数日間論議され、

清は閔氏政権への救援要請を受けることに決定

そして袁世凱ひきいる清軍3000名が救援にかけつけました

 

清軍の数は圧倒的で、

たちまち金玉均と朝鮮駐在の日本軍は倒されてしまいました。

 

金玉均は日本に亡命しましたが、

刺客によって暗殺されてしまいました。

 

金玉均の死体は朝鮮に運ばれ、

閔氏政権から切り刻まれて野ざらしにされました

 

最終的に、清の支援があったからこそ

閔氏政権は生き残りました

 

【文化的影響】福沢諭吉 脱亜論を提唱

金玉均が日本に留学していたころ、

金玉均と親交のあった福沢諭吉

彼の死にショックを受けます

 

そして彼の死体が切り刻まれる蛮行を見て、

「清や閔氏政権などの悪友とは手を切るべきだ」

と考えるようになりました

これを「脱亜論」といいます

愚かな政権に支配されている

アジアから抜け出そう

 

ってことですね。

はい。

 

もはや清や朝鮮の閔氏政権に欧米列強を止める力はありません

 

欧米列強の脅威から日本を守るには、

日本がアジアの価値観から抜け出し、

アジア最強国家である清よりも

強い国を目指さなければなりません。

そんな覚悟のあらわれでした。

 

1885年 天津条約

天津条約 背景と内容

★背景

甲申政変の際、清軍は朝鮮駐在の日本兵を殺害

→これを理由に日本と清が全面戦争の危機に

 

★内容

①清・日本両国は朝鮮に派遣した兵を撤退する

②今後、朝鮮に派兵する際は、相手国に事前通告をすること

→両国の妥協案が合意され、全面戦争を回避した

 

【質問】日本と清が全面戦争にならなかったのはなぜ?

どうして戦争にならなかったのですか?

清も日本も、戦争できるような状況になかったからです

 

まず清から説明します

清はベトナムの宗主権をめぐって、

フランスと争っていました清仏戦争

 

ベトナムの阮朝は

清の子分のような存在でした。

 

しかし当時のベトナムは

植民地拡大を進めるフランスの的になっていたのです

フランス軍がベトナム領を次々に占拠し、

清は怒りをつのらせていました。

 

そして清とフランスが戦争状態に陥っていたのです

 

そんな状況で同時に

日本と全面戦争をする余裕はありませんでした

 

次に日本です

日本では自由民権運動が過熱

急進的な民権主義者が、

日本各地で暴動を起こしていました(激化事件

 

日本も国内事情がよろしくなかったので

外国と戦争している場合ではありませんでした

 

【重要】朝鮮への派兵の際の事前通告義務

天津条約で特に大事なのが、

事前通告義務」という条項です

 

意味を説明しておきます

事前通告義務って?

壬午軍乱や甲申政変のときのように、

朝鮮に清軍または日本軍を派兵する際には、

日本は清に、清は日本に事前に通告すること

 

朝鮮は日本と清の抗争の火種です

朝鮮をめぐって日本と清がトラブルにならないように、

「今から出兵しますけどいいですか?」

と相手国に伺いを立てることが義務づけられました

 

どうしてこの条項が大事なんですか?

清がこの条項を破り、

日清戦争が始まるからです

 

日清戦争開戦から講和まで

甲午農民戦争(東学党の乱)

甲午農民戦争 背景

★背景

閔氏政権や官僚の暴政への不満

東学党幹部の全琫準が閔氏政権打倒をめざし…

→大勢の農民を巻き込んで反乱を起こした

 

★経緯

鎮圧に追われた閔妃は、清に救援を要請

→清は日本への事前通告なしに朝鮮に派兵し、農民反乱を鎮圧

 

背景

甲午農民戦争の背景は、

閔氏政権の腐敗への怒りです

 

閔妃は占い師に心酔していて

毎日2回の礼拝をしていました

礼拝にかける費用が尋常ではなく、

しかも占い師が所属する教団を首都に住まわせ、

生活費を国家予算から工面する始末でした

 

当然、朝鮮の財政は崩壊し

そのツケは一般市民にまわってきました

 

閔氏政権は農民に重税をかけます

このとき、税を集めるのが地方官僚の役割なんですが

地方官僚も腐敗しています

 

地方官僚たちはわざと多めに徴税します

そして決められた額を閔氏政権に届け、

余った分を自分のポケットに入れていたのです

 

当時の朝鮮王国の政治は上から下まで腐っていたのです

 

そんな清に反旗を翻したのが東学党でした

 

東学党とは?

崔済愚が組織した儒教・仏教・道教の混合思想です

西学(キリスト教)に対抗し、

東学(古くからアジアで培われた宗教)を守ろうと考え、

発足されました。

 

社会が混乱しているとき、

人は宗教にすがります

東学党も2万人の信者を集めており、

貧しい信者に施しを与えていたのです

 

東学党はあまりに人数が多く、

閔氏政権から目をつけられ、

取り締まりの対象になります。

「このまま教団を解体されるくらいなら…」と考え、

東学党は閔氏政権に大反乱を挑むのでした。

 

中心となったのは、幹部の全琫準

閔氏政権や地方官僚に対する怒りを募らせていた人物です

 

東学党についてですが、少し詳しく解説します

西学(キリスト教)に対抗するってどういうことですか?

当時の東アジアではキリスト教が広まっていました

 

とくに貧しい人たちは、

施しを受けなければ生きられません

そんな貧しい人たちにキリスト教の教会が

布教目的で施しを与えていました

「施しを受けていたら、いつの間にか入信していた」

という感じで、民衆の間にキリスト教が広まっていたのです。

 

中国や朝鮮古来の宗教団体は

信者をキリスト教にとられてしまうので、

これをよく思いません。

そして西学(キリスト教)に対抗する姿勢を示したのでした。

なるほど!

清の介入と天津条約への違反

甲午農民戦争は、

閔氏政権に不満を持っていた農民たちを巻き込み

大規模な反乱となっていきました

 

閔妃にこれを止める力はなく

閔妃はいつもどおり清にすがります

 

そして清が朝鮮に鎮圧軍を派遣しました

このとき、清は日本をナメていたので

出兵に関して日本に事前通告しませんでした

 

1885年に定めた天津条約に明らかに違反しているのです

「国の威信にかけて、条約違反は見過ごせない」

日本政府は清を批判しました

 

日清戦争 開戦

まずはポイントから

日清戦争 ポイント

★対立勢力

朝鮮 閔氏政権&清 VS 日本

 

★背景

甲午農民戦争鎮圧の際、閔氏政権が清に救援を要請

清が事前通告義務を果たさず、朝鮮に出兵した

→日本は清の天津条約違反を批判し、清と対立した

 

★経緯

日本は朝鮮に上陸し、朝鮮王宮を占領

→清国領 遼東半島でも清軍を撃退した

 

★結果

日本が清軍に勝利し、下関条約で講和した

 

開戦

清が甲午農民戦争の鎮圧のため、

朝鮮にかけつけましたが、

清は朝鮮に派兵する際、

天津条約で定められた「事前通告」を

日本に行いませんでした。

 

清が天津条約に違反したことを口実に、

日本は清を批判

そして日清戦争が起こりました。

 

さっそく日本は朝鮮半島に派兵します

清軍はそれを妨げようと、艦隊を派遣します

 

日本軍と清軍は朝鮮半島周辺の制海権をかけて戦います

最初の戦いが豊島(プンド)沖海戦

 

臆病な清軍の司令官が

「皇帝陛下 勝ちました」

という偽の報告をして、敵前逃亡(笑)

 

日本海軍が自動的に勝利し、制海権をとります

 

朝鮮王宮の占領

日本は朝鮮半島に上陸し、

朝鮮の首都漢城に迫ります

清にすがる閔氏政権の打倒が目的です

 

しかし、

朝鮮の首都を攻め落とすとなれば、

かなりの労力が必要

 

そして朝鮮首都を不当に支配すれば、

欧米諸国が「日本は他国の主権を奪った」

「国際法違反だ」と騒いでくる可能性もあります。

こうしたリスクをかわす必要があります。

 

そこで日本はあの男を利用します

あの男とは?

大院君です

大院君はもともと攘夷派で、

日本の介入を嫌いましたが

憎き閔妃を引きずり落とすチャンスだと考え、

日本に協力しました

 

日本は閔氏政権の打倒

大院君政権の擁立

日清戦争終結後の朝鮮の独立を保証し、

大院君を味方につけました

 

そして日本軍は大院君らとともに、

朝鮮王宮を奪うことに成功しました。

これにより、閔氏政権が崩壊しました

あとは清を倒すのみです

 

遼東半島への進撃 旅順の戦い

朝鮮王宮を占拠した日本軍は、さらに北上します

そして清の領土である遼東半島に進撃しました

 

遼東半島には旅順要塞がありましたが、

清の守備隊の士気が低く、わずか1日で陥落

旅順要塞は日本軍の手に落ちました

 

敗北を悟った清は、講和に踏み切ります

 

下関条約

下関条約 内容

★参加者

日本全権:伊藤博文(首相) 陸奥宗光(外相)

清国全権:李鴻章

 

★内容

①清は台湾・遼東半島澎湖諸島を日本に割譲する

②清は朝鮮の独立を承認する

③清は日本に対して賠償金2億両(テール)を支払う

 

講和会議は伊藤博文の地元

山口県の下関にある ふぐ料亭で行われました

 

清の全権 李鴻章は、

日本からあまりにも不利な条件を押し付けられました

 

台湾・遼東半島・澎湖諸島を失い、

朝鮮の宗主権も放棄したうえで

賠償金も支払うとは…

清は失うものばかりではないか

「これを認めて帰っては、私の地位が危うい…」

そう思いながら、

李鴻章は条約にサインしたのでした

 

しかし李鴻章には奥の手がありました。

李鴻章はその足でロシアに向かったのです。

つづく

 

【質問】「朝鮮は独立」なぜ?

よくこんな質問を受けます

朝鮮に防衛線をはりたいのに

朝鮮を直接統治しないんですか?

日本が日清戦争後に朝鮮を

独立国にするにとどまった理由は

 

①日本の首相 伊藤博文が朝鮮併合反対派だったから

②大院君との約束

この2点です

 

①日本の首相 伊藤博文が朝鮮併合反対派だったから

日清戦争後にも議論になるのですが、

日本の政界は朝鮮併合の賛否がわかれていました

 

無理に外国に支配地を広げたところで、

防衛費もかかるし

反乱でも起こされたら、

鎮圧に手間がかかります

 

当時の伊藤博文首相は、

朝鮮併合に最後まで反対した人物でした。

これも一つの要因と言えるでしょう。

 

②大院君との約束

日清戦争中の日本軍は

朝鮮王宮を奪うために大院君の力を借りました

 

そのさいに、大院君に

「日清戦争後の朝鮮の主権と独立を保証する」

という約束をしています

 

大院君との約束を反故にはできません。

これも朝鮮を併合しなかった理由です。

 

【質問】日本が遼東半島・台湾・澎湖諸島を欲しがったのはなぜですか?

朝鮮を得なかったのはわかりました

でも、遼東半島・台湾・澎湖諸島を

日本が得たのには

どんな目的があったんですか?

ロシア・フランスを仮想敵国として

ロシア・フランスの2国からの防衛線を築くためです。

 

フランスがここで初めて登場しました

なぜフランスが敵なんですか?

フランスは1891年に露仏同盟を結んでいます

つまりフランスはロシアの同盟国です

 

何らかの理由で日本とロシアが戦争になった場合、

フランスが同盟国として参加してくるかもしれません。

日本はフランスからの侵攻も防ぐ必要があったのです。

 

日本が得た地の重要性について

それぞれ解説します

 

遼東半島

ロシアからの防衛線を築くために重要です

遼東半島は朝鮮の北側に位置するため、

ロシアの南下を阻止するための拠点として重要でした

 

台湾・澎湖諸島

台湾と澎湖諸島(台湾に隣接する島々)は

フランスからの防衛のために重要でした

 

当時のフランスは、

ベトナム・ラオス・カンボジアを手中におさめ、

フランス領インドシナ連邦を形成していました

フランスが日本に攻め入るとすれば、

フランス領インドシナを拠点とするはずです

フランス軍からの侵攻を防ぐためには、

台湾周辺の海域に日本海軍を配置し、

日本本土を守る必要性がありました。

 

そういった意味で、

台湾と澎湖諸島(台湾に隣接する島々)を獲得したのでした

なるほど!

 

三国干渉

まずはポイントから

三国干渉

ロシア・フランス・ドイツの3国が下関条約の内容に干渉

→日本は遼東半島の返還を命じられた

 

清の政治家 李鴻章は下関条約の内容に驚愕しながらも、

これを認めてしまいました。

 

しかし李鴻章には奥の手がありました

李鴻章はロシアに向かいます

「ロシア帝国皇帝陛下、日本がアジアの平和を乱しております」

「どうか日本にお灸をすえてやってください」

 

ロシアはニヤリと笑い、

李鴻章の要求を呑むのでした。

 

そしてロシアは同盟国フランスと

※黄禍論を唱えていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とともに

日本に干渉したのでした

「遼東半島を返してやりなさい」

「無理な条約を結び、アジアの平和を乱すな」

とね

 

※黄禍論

黄色人種(当時の日本)の台頭が、

ヨーロッパ諸国に不利益をもたらすだろうという考え

 

【質問】なぜドイツ・フランス・ロシアの3国なんですか?

国別で説明しますね。

 

①ロシア

ロシアは南下政策をしており、

遼東半島はロシアのターゲットだったからです

その地を日本にとられると、

ロシアの南下政策に障害が出ますからね

 

現にロシアは三国干渉のあと、

三国干渉で清を救った見返りとして、

ロシアは遼東半島南部の租借権を清に求めています

ロシアは遼東半島が欲しくて仕方がなかったのです。

 

②フランス

1891年~ フランスとロシアは露仏同盟を結んでいます。

露仏同盟は、強大化したドイツを警戒して結成されました

ドイツを挟み撃ちにするために、ロシアとフランスは同盟を組んだのです

そんなロシアの同盟国として、

フランスは三国干渉に参加しました

となると、

ドイツが敵国ロシアとフランスとともに

行動する理由が気になりますね。

 

③ドイツ

ドイツは当時、

露仏同盟に挟み撃ちにされている状況でした

そんな露仏同盟の敵意が日本に向いてくれた方が、

ドイツにとっては安心です

そこでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、

しきりに黄禍論を唱えました

「黄色人種の台頭はヨーロッパ諸国に不利益をもたらす」

と言ってね。

そうして露仏同盟の矛先を

ドイツではなく日本に向けようとしたのです。

 

そして、

「ドイツはロシアとフランスの味方だよアピール」をすること

これも三国干渉に参加した目的のひとつでしょう。

いつまでも挟み撃ちにされてたら、分が悪いですからね。

 

今回はここまで

 

 

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