こんな人におすすめ
フランス革命を学んでいますが、
難しくてよくわかりません。
丁寧にわかりやすく説明してください。
とお考えの学生の方、受験生の方、世界史を学びなおしている社会人の方
フランス革命中の出来事を細かく区切り、
ひとつひとつのできごとについて詳しくわかりやすく説明していこうと思います。
主に国民議会の時代に起こったできごとを詳しく説明します。
1789年 バスティーユ牢獄襲撃事件
1789~90年 封建的特権の廃止・教会財産の没収
1789年 フランス人権宣言
1789年 ヴェルサイユ行進(十月事件)
1791年 ヴァレンヌ逃亡事件 →逃げようとした国王の扱いをどうする?
→フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派の派閥形成
1791年憲法の制定(国民議会の役割が終了)
前回の記事では、
フランス革命の背景・旧体制(アンシャンレジーム)の概要
テュルゴーとネッケルの改革・三部会の開催・国民議会の成立をテーマに解説しました
国民議会について少し振り返っておきます
復習 国民議会の発足と球戯場(テニスコート)の誓い
1789年6月 国民議会の発足が宣言されます。
中心となったのは、三部会の議決方法に不満を持った平民たちでした。
彼らはヴェルサイユ宮殿内の球戯場(テニスコート)に集まり、
フランスを「自由」で「平等」な国にすることを目標として決起しました。
そしてメンバーたちは
「いかなる弾圧を受けようと、
自由・平等を定めた『憲法』を制定するまで、我々はぜったいに解散しない」
と誓いあったのでした。
これを「球戯場(テニスコート)の誓い」と言います。
この誓いを交わしたあと、国民議会は別名「憲法制定議会」と呼ばれるようになりました
つまり、国民議会のゴールは「憲法を制定すること」です
有名なメンバーを紹介します。
★自由主義貴族
読み書きや政治学などの教養がない平民が集まっても、政治はうまくいきません。
そこで国民議会は良識のある貴族の力を借りました。
①ラ=ファイエット
アメリカ独立戦争でフランス義勇軍を率いて参戦した人物
独立をめざす市民たちが熱狂する姿を見て、市民のエネルギーの強さを知った。
フランスを強い国にするには、市民のパワーを使うことが不可欠と考え、
国民議会による革命に賛同した。
②ミラボー
同じく国民議会の理念に賛同する貴族
王室との親交があり、国民議会と国王サイドのパイプ役をつとめる。
★平民
①ロベスピエール:のちに過激派組織 ジャコバン派のリーダーとなる
②ダントン:ロベスピエールと同じく、ジャコバン派の幹部となる人物
→プレゼンがうまく、革命に賛同する民衆を巻き込むのがお上手。
復習はここまで!
フランス革命の始まり
バスティーユ牢獄襲撃事件 背景と結果
1789年7月14日
パリの市民がついに武装蜂起します。
市民の怒りに火をつけたのは財務総監ネッケルの罷免でした。
ネッケルはどちらかというと平民の立場を尊重し、
特権身分への課税を主張したため、市民から人気がありました
※ネッケルの改革についてはコチラ
三部会で特権身分への課税が否決されたあと、
政界でのネッケルの立場は急激に悪化しました。
そして国王はついにネッケルにクビを言い渡しました。
このできごとがパリ市民を怒らせ、武装蜂起が発生
怒った市民は、パリ市のバスティーユ牢獄を襲撃しました。
A.理由は2つあります。
①牢獄の武器庫を襲撃し、武器を奪うため
②政治犯として捕まっている人々を救出するためです。
特に①の理由が大きく、バスティーユ牢獄には
看守の武器が保管された武器庫がありました。
革命を起こすためには武器が重要ですから、それを手に入れたかったのでしょう。
牢獄の襲撃は見事に成功
このニュースはフランス各地に伝わり、各地の第三身分(平民)を勇気づけました。
そして、革命騒ぎに便乗した第三身分(平民)たちが
・政治への怒り
・地代を搾取してくる貴族への怒り
・十分の一税を搾取してくる教会への怒りをぶつけます。
そしてフランス各地で教会や貴族の館が襲撃され、
フランス国内はパニック状態になりました。
バスティーユ牢獄襲撃事件の成功が、フランス全土での革命騒ぎに発展したのでした。
封建的特権の廃止と教会財産の没収 背景・結果・その影響
国内がパニック状態になっている中
革命軍のまとめ役 国民議会が動きました
同じく1789年、国民議会は封建的特権の廃止を
1790年には教会財産の没収を宣言しました。
目的は「暴徒化しすぎた民衆をなだめるため」です(笑)
バスティーユ牢獄襲撃事件以降、全国で毎日のように平民による武装蜂起が起きています。
このままではさすがに国がまとまらないので、国民議会は事態の鎮静化に動きました。
そこで、「こんなことを言ったら民衆は落ち着いてくれるかな?」と考え、
「全国の平民たちよ」と呼びかけて、
平民にとって有利な政策をいくつか発表したのです。
②について、細かい話になりますが「条件付きで」とはどういうことでしょうか?
小作人は貴族(領主)から土地を借りています。
貴族の土地を力づくで没収して、
小作人に無償で与えるのはもう少しあとの話になります。(重要)
封建的特権の廃止の段階では…
「向こう40年分の地代をおさめた小作人は、貴族(領主)の土地を自分のものにすることができ、
以後 貴族に地代を支払わなくてよい」
というルールが定められました。
つまりこういうこと
「土地を自分のものにして、地代の搾取から解放されるためには、
貴族(領主)にお金を払って、土地を買わなければならない」
Q.襲われている側の貴族に対して、やけに甘い条件ですね。
なぜですか?
A.国民議会のメンバーに貴族がいるからです。
※ラ=ファイエットやミラボーなどのこと
彼らも自分の土地を持っていて、小作人に貸しています。
彼らも自分がかわいいものですから、自分の財産を没収されたくなかったのです(笑)
そして国民議会は翌年には教会財産の没収を発表
裕福だった国内のカトリック教会から財産を没収し、市民に分け与えました。
フランス国内のカトリック教会の財産が没収されたことに対して、
カトリック教会の総本山 ローマ教皇(@イタリア)は激怒しました。
そして、国民議会をかつぐフランス人を根こそぎ破門処分にしました。
※のちにナポレオンが台頭して和解するまで、
フランス革命政府とローマ教皇は断交状態でした。
フランス人権宣言の発表
国民議会は全国民からの支持を集めるため、新政府の方針を発表しました。
その方針を「人権宣言」としてまとめました。
人権宣言の起草者は自由主義貴族 ラ=ファイエット
教養に富む人物だったので、流ちょうな文章でまとめることができました。
①「自由権・平等権」の思想を明記している
【1条】人間は、生まれながらにして自由かつ平等な権利を持っている。
②ロックの「抵抗権(革命権)」の思想を明記している
【2条】あらゆる政治的結合の目的は…権利の保全である。
それらの権利とは自由・所有権・安全および圧政への抵抗である
③「国民主権(主権在民)」の思想を明記している
【3条】あらゆる主権は、本来、国民のうちにある。
④「財産権の不可侵」を明記している
【17条】財産所有は不可侵にして神聖な権利であるゆえに、
合法的と認定される公共的必要が明らかにこれを要求する場合のほかは(中略)
なんぴともそれを奪われることがありえない。
Q.財産権の不可侵…
といっても、平民たちは財産を持っていないのでは?
A.これはラ=ファイエットのための条文です(笑)
バスティーユ襲撃以来、全国で貴族が襲われ、身ぐるみをはがされています。
ラ=ファイエットも革命勢力の一員とはいえ、財産を持っている貴族なので
彼は平民から襲われる側です(笑)
暴徒化した平民から自分の財産を守るために、
ラ=ファイエットは「財産を奪ってはいけませんよー」って書きました(笑)
政治家とはずる賢くないと成功しないのです(笑)
ヴェルサイユ行進(十月事件) 背景と結果
人権宣言が発表されてから1カ月半が過ぎたころでした。
パリの婦人たちが、国王夫妻の住むヴェルサイユ宮殿付近に集まります
そして「パンが高くて買えない!」「パンをくれ!」と言って抗議しました。
以前の記事でも述べましたが、
当時のフランスでは冷害の影響で穀物価格が高騰していました。
原材料の穀物(小麦など)が高ければ、パンも高くなります。
パンの価格が高ければ、貧しい人々の生活は苦しくなります。
家計を切り盛りしている婦人たちは、家を守るために必死で戦いました。
そしてパンをたくさん持っていそうな国王夫妻に、「パンをよこせ」と求めたのでした。
これに対して、国王の妻 マリ=アントワネットが有名な失言をしていまいます。
「パンがないならケーキを食べればいいじゃないの」
この言葉にパリの婦人たちは怒り心頭
ヴェルサイユ宮殿に押し入り、国王夫妻を取り押さえてしまいました(笑)
そして、国王夫妻を※テュイルリー宮に幽閉してしまいました。
※ヴェルサイユ宮殿が建造される以前に使われていた旧宮殿のこと
「パンがないならケーキを食べればいい」
この言葉を本当に発したのかどうかは、当時の人々にしかわかりません。
ただひとつだけ言えることがあります。
「マリ=アントワネットの発言は正論です」(笑)
というのも、当時は小麦の価格が高すぎて
ケーキの原材料や砂糖などの方が安く済んだからです。
「安い食糧がほしいなら、パンよりケーキの方が安いよ?」
と言いたかったマリ=アントワネットでしたが、
庶民にそんな小難しいことはわかるはずもなく、パリの婦人たちに粉砕されました。
1791年 ヴァレンヌ逃亡事件 背景・結果・その影響
1791年に入って、事態が大きく動き出します。
国王ルイ16世夫妻がオーストリアへの逃亡を図ったのです。
オーストリアといえば、王妃マリ=アントワネットの故郷です。
国王夫妻は、王妃の生家 ハプスブルク家になんとか連絡をとりあい、
フランスからの脱出計画を立てたのです。
Q.なぜこのタイミングだったのですか?
国民議会と国王をつなぐパイプ役 ミラボーが死んだからです。
のちに述べますが、革命軍を指揮する国民議会の中には、
「すぐさま国王を殺せ!」とする過激派がいました。
その過激派をうまくおさえ、敵方の国王夫妻ともうまく連絡をとりあっていたのが
貴族出身のミラボーでした
彼が死んだということは…
「まさか、過激派のおさえが効かなくなるのでは!?」
「私たちは殺されてしまうのではないか!?」
と国王夫妻は考えたのです。
夜な夜な、国王夫妻は幽閉先のテュイルリー宮から脱出します。
しかし、逃亡計画は失敗に終わります。
余談ですが、逃亡計画が失敗した原因は、もはやコントです(笑)
★逃亡が失敗した理由
①国王の肖像画が描かれたコインのせいで顔バレ
→途中で農民に見つかって、国王であることがバレる(笑)
②移動中も酒を飲みたいからといって、大荷物を抱えて逃亡
→荷物が重すぎて素早く動けないし、何より目立つ(笑)
以上、超しょーもない理由でした(笑)
国王の逃亡失敗のニュースはすぐに国民議会に伝わります。
そして、捕まえた国王の扱いをめぐって
国民議会の内部で意見がわかれます。(次の章へ)
★背景:国民議会と国王夫妻のパイプ役 ミラボーが死去
→不安に思った国王夫妻は、王妃の故郷オーストリア(ハプスブルク家)に逃亡を計画
★結果:逃亡は失敗
★影響:国民議会の内部で、国王の扱いをめぐって意見が対立
フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派の対立
革命を主張する国民議会ですが、その内部は一枚岩ではありません。
メンバーによって、革命後の社会に対する理想像が違い、
大まかに3つの派閥に分かれていました。
フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派です。
彼らの意見対立が最も激しくなったのが、ヴァレンヌ逃亡事件のあとでした。
「フランスからの逃亡を図った国王夫妻の扱いをどうするか?」
国民議会の内部では、揉めにもめたのでした。
方針:立憲君主制を主張
①国王は必ず生かしておき、国の元首にすえる
②国王の権限を憲法でガチガチに縛り、国王には独裁政治をさせない
支持層:ラ=ファイエットら貴族出身のメンバー
Q.貴族たちが国王を生かしておきたいのはなぜですか?
A.貴族は国王にお金を貸しているからです。
国王は革命前から貴族たちに借金をしています。
貴族たちには免税特権があったので、
貴族たちからは「税をとる」のではなく、「お金を借りる」という形をとっていました
そのときの名残で、国王は貴族たちに借金をしています。
そんな国王一家を皆殺しにしてしまうとどうなるでしょうか?
国王に貸したお金は返ってこなくなります。
よって、貴族たちは国王の殺害を望まなかったのです。
※覚え方「王を殺したらイヤン」(フイヤンだけに)
方針:穏健共和制を主張
①王政を廃止し、共和制(王がいない政治)をする。
②国王は無理して殺す必要はない。国外追放などが妥当では?
→「穏健」と言われるゆえんはコレ
支持層:都市の富裕な平民 ※商工業者(ブルジョワジー)ら
Q.支持層は平民なのに、国王には少し優しいんですね。
A.これまでの歴史上、ブルジョワジーは国王から恩恵を得ていましたからね。
時代をさかのぼり、ルイ14世の財務総監コルベールのお話をします。
コルベールは重商主義を主張していました。
重商主義とは「輸出を増やし、外国から富を得れば、国は豊かになる」
という考えです。
そのためには、①輸出品を大量つくること ②それを外国に売ること
の2点が必要になります。
だからコルベールは国内の商工業を保護し、
兵器産業・ガラス産業などを盛り上げました。
もちろん商工業に携わる人たちは、注文が増えて生活が潤います。
国王サイドの政策によって、なんやかんやで自分たちの暮らしは潤っていた。
だからブルジョワジーたちは国内の不平等には不満を持ちながらも
国王に対してかなり強い恨みを抱いているわけではありません。
方針:急進共和制を主張
①国王は絶対に処刑し(「急進」と言われるゆえんはコレ)
②王がいない政治(共和制)を敷く
支持層:貧民(サンキュロット)
リーダー格はロベスピエール ダントンら
貧民たちは国王から搾取されてましたからね!
処刑したくなるのも当然か…!
派閥 | 主張 | 支持層 |
フイヤン派 | 立憲君主制 | 自由主義貴族(ラ=ファイエットら) |
ジロンド派 | 穏健共和制 | ブルジョワジーが中心 |
ジャコバン派 | 急進共和制 | 貧民(サンキュロット)ら |
1791年 憲法の制定
国民議会内部で対立がありながらも、
同時進行で憲法の制定に関する話し合いが進んでいました。
あくまで国民議会の目的は「憲法を制定すること」ですからね
そして1791年に憲法が公布され、国民議会は目的を達成しました。
役目を終えた国民議会はこれにて解散
新たに立法議会を立ち上げ、国民議会の権力を立法議会に引き継ぎました
・フランス人権宣言を前文として掲げ、人権宣言の考え方をベースとした
・国民議会の権限を立法議会に引き継ぐ
・立法議会の議員は「男子による制限選挙によって決定する」
Q.ちょっと待ってください!
みんなが平等に参加できる「普通選挙」ではなく、
お金持ちしか参加できない「制限選挙」なんですか?
それじゃ「平等」な国にならないですよね?
A.当時の社会情勢を考慮して、過激派のジャコバン派を政界から省きたかったんでしょうね。
普通選挙を実施したら、いちばん票が集まりそうなのはどの派閥でしょうか?
投票者の数としては、貧しい人がいちばん人数が多いので、
貧民(サンキュロット)からの人気が高い、ジャコバン派が選挙に勝利しそうですね。
ジャコバン派と言えば、「国王夫妻を処刑せよ」と主張しています。
じゃあ、ジャコバン派が台頭して、
本当に国王夫妻を処刑してしまったら、他の国はどんな反応をするでしょうか?
マリ=アントワネットの生家
オーストリアのハプスブルク家が黙っちゃいませんね。
そういうことです。
次回の記事で詳しく述べますが、
当時、オーストリアからは「マリ=アントワネットを解放せよ」
「さもなくばフランスに攻め入る」
という脅迫状が届いていました(ピルニッツ宣言という)
みすみす国王夫妻を解放すれば、これまでの革命の過程を否定することになり、
かといってジャコバン派が台頭して国王夫妻を殺してしまえば
オーストリアを刺激してしまい、すぐに攻め込まれてしまうかもしれない
1791年のフランスは少し慎重に動かなければならない時期でした。
よって、ジャコバン派の台頭を恐れ
このたびは制限選挙が実施されることになりました。
「平等な国」への道は少し遠かったのです。
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