第一帝政 ナポレオン戦争の流れ・ポイントをわかりやすく解説 後編【フランス革命をわかりやすく⑩】

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てっちり

元 高校世界史教師

教室での授業では、限られた人数に対してしか歴史を伝えられないことに物足りなさを覚える。
そしてもっと多くの人に歴史の面白さを伝えるために
教師を辞めてネットで世界史関連のコンテンツを配信するようになった。

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単元解説 フランス革命

こんな人におすすめ

フランス革命やナポレオンの時代を学んでいますが、

難しくてよくわかりません。

丁寧にわかりやすく説明してください。

とお考えの学生の方、受験生の方、世界史を学びなおしている社会人の方

 

フランス革命中やナポレオンが台頭した時期の出来事を細かく区切り、

ひとつひとつのできごとについて詳しくわかりやすく説明していこうと思います。

この記事の対象語句

ナポレオンの第一帝政期のできごとについて解説します。

前回は大陸封鎖令について述べたので、

今回はナポレオンの敗北と没落までを描こうと思います。

 

1808年 スペイン反乱

1809年 ジョセフィーヌと離婚 マリ=ルイーズとの再婚

1812年 ロシア遠征焦土作戦

1814年 ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)

1814~15年 ウィーン会議の開催(簡潔に)

1815年 エルバ島の脱出 ワーテルローの戦い

 

読者の皆さんへのメッセージ

こんにちは。

元々高校の教員をしていました。てっちりです。

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので

生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)

 

そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と

ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、

今回は記事としてしたためました!

 

本題 ナポレオン戦争 後編

スペイン反乱

スペイン反乱 ポイント

★背景

ナポレオンはスペイン=ブルボン朝の国王を廃位

→自身の兄 ジョセフをスペイン王につけようとした

→スペイン国民は自国がナポレオンの傀儡になることを嫌い、大反乱を決行

 

★結果

ナポレオンはスペイン反乱の鎮圧に苦戦

→これを好機と見たヨーロッパ諸国が、ナポレオンから離反しはじめる

 

★文化への影響

スペインの画家 ゴヤは「マドリード1808年5月3日」を描き…

フランス軍によるスペインの民衆の虐殺を批判した

 

ナポレオンは配下の国々への支配を強めていきました。

中でも国が衰退傾向に入っていたスペインは、ナポレオンの言いなりでした

スペインはスペイン=ブルボン家の王が統治していたのですが、

ナポレオンは国王を追放し、自身の兄のジョセフをスペイン国王につけようとしました

 

当然スペイン国民は許すはずもなく、ナポレオンに反抗しました

ナポレオンは懲罰のため、すぐさまフランス軍を派遣しましたが

「国を守ろう」という意気込みで立ち上がった市民たちは強かった…

 

フランス軍は苦戦を強いられました。

スペインの市民が武器を持って襲い掛かってくるので、

フランス兵は自分の身を守るのに必死です

 

フランス兵たちはところかまわずスペイン市民を殺害し、

ゲリラ化したスペイン市民から自分の命を守ったのです。

 

もちろんスペインの民衆はブチギレ

画家のゴヤは「マドリード1808年5月3日」という絵で

ナポレオンがもたらした惨劇を描きました

著作権の都合上載せれませんが、少し解説します。

 

マドリード1808年5月3日」の絵では、

左側に白い服を着た男性が立っています

彼は両手をあげて抗議しているのですが、

ここにはゴヤからのメッセージが込められています

 

白い服の男性はイエス=キリストを示しているのです

この男性ははりつけにされたイエス=キリストの姿をモチーフにして描かれました

それに対して銃を向けるフランス兵を描くことで、

 

「ナポレオンの軍は愚かである。キリストに銃を向けてしまうほどにおちぶれた。」

というメッセージを伝えたかったのです。

 

この反乱にフランス軍は苦戦しました

そして、「これはナポレオンに反旗をひるがえす好機」

と見て、ロシア・オーストリア・プロイセンなどの強国が

ナポレオンに牙をむく準備を始めたのです。

 

ジョセフィーヌとの離婚 マリ=ルイーズとの再婚 なぜ?

1809年 ナポレオンは7歳上の愛する妻 ジョセフィーヌと離婚

オーストリア=ハプスブルク家からマリ=ルイーズを妻に迎えました

 

ジョセフィーヌと仲が悪かったんですか?

いえ、ナポレオンはジョセフィーヌが大好きでした

 

でも別れを告げました

理由は以下にまとめます

マリ=ルイーズとの再婚 ポイント

★背景

ナポレオンはコルシカ島出身の中小貴族

→他のヨーロッパ諸国の王たちを従えるほどの権威(家柄補正)がなかった

 

★目的

由緒ある血統の女性と結婚することで、自身の権威を示したかった

→オーストリアの名門ハプスブルク家と血縁を持った

 

なるほど!

ナポレオンは自分の血統に自信がありませんでした。

 

平民ではなく貴族の家系ですが、めちゃくちゃ名門というわけでもない

ナポレオンはこう感じました

「私には権威がない…諸外国の王から見下されているかもしれない」

 

現にナポレオン家系による支配を望まないとして、

スペインの民衆たちが反乱を起こしたわけですからね。

 

ナポレオンは「正統な血統」を持つハプスブルク家との血縁を結び、

自分の「格」を上げようと試みました。

 

マリ=ルイーズはどんな女性だったのですか?

ツンツンした18歳の少女です。パパ活ではありません。

 

夫婦仲はあまりよくなかったらしく、

ナポレオンは再婚後も前妻 ジョセフィーヌを思い出していたとのことです

 

ロシア遠征と焦土作戦

ロシア遠征 ポイント

★背景

ロシアが大陸封鎖令を破り、イギリスに穀物を密輸していた

→ナポレオンはロシアへの懲罰のため、ロシアに出兵した

 

★結果

ロシアのクトゥーゾフ将軍率いる農兵らが焦土作戦を展開

→フランス軍は大敗し、多くの兵を失った

 

少し復習です

ナポレオンはイギリス以外のヨーロッパ諸国を屈服させ、大陸封鎖令を敷いていました

1807年 大陸封鎖令 ポイント

★目的:宿敵イギリスを孤立させ、資金難に陥らせる

 

★内容

①ヨーロッパ諸国にイギリス製品の輸入を禁止し、フランス製品を購入させる

②イギリスへの穀物輸出を禁止する

 

ロシアはなぜ大陸封鎖令を破ったのですか?

ロシアはもともとイギリスに穀物を輸出していたからです。

 

イギリスは工業国で、農業生産は少しおろそかになっていたので

穀物はロシアなどから輸入していました。

ロシアにとってイギリスは大事な商売相手

イギリスに穀物を輸出しないとそもそも儲かりません。

 

「これでは商売あがったりだ!」

ということで、ロシアはひそかにイギリスに穀物を輸出していたのです。

 

フランスはロシア産穀物を買ってくれなかったんですか?

フランスは現代でも食糧自給率400%の国です

 

食糧生産に関しては自国でつくる分で足りているので、

わざわざロシアから輸入する必要がありませんでした。

 

ロシア産穀物は、価格が安いです

労働力の安い農奴がつくっているからね。

安いから一定の需要はありましたけどね。

 

さて本題に戻ります。

ナポレオンはロシアに激怒し、ロシア遠征を決行します

ロシア軍にとっておきの作戦があるとも知らずに

ロシア軍の作戦を「焦土作戦」と言います

ナポレオン軍の弱点を突く、捨て身の作戦でした。

 

焦土作戦 内容

①ナポレオンの軍がロシア領に向けて進撃

②ロシア軍は負けたふりをして、北向きに逃亡

逃げた先の集落をすべて燃やし、食糧などを焼き払う

③フランス軍はロシア軍を追撃する

 

この①~③の流れをひたすら繰り返しました。

ナポレオンの軍は補給物資を現地調達しながら進んでいたのですが

ロシア軍が途中の集落を焼き払っていたので、物資を調達できませんでした

 

そして季節は進み、極寒の冬を迎えました

この年の冬は特別寒く、フランス兵にとっては耐えがたいものだったでしょう

疫病になる者・餓死するものが多数あらわれ

フランス軍は完全に敗北しました。

 

※補足

ナポレオン軍には強さの秘密がありました。

それがまたナポレオン軍の弱点でもあったのです。

 

ナポレオン軍の強さの秘密は「進軍速度」です

 

進軍速度が速い理由は、補給物資を現地調達させたからです

通常、戦場の兵士に武器や食料を届ける必要があるため

本国からの補給部隊の到着を待ちながら進みます。

でもナポレオンは補給物資をたいして送らず、現地調達を命じていました。

補給のことを考える必要がなかったため、兵士たちの進軍速度がはやかったのです。

 

ロシアのクトゥーゾフ将軍はこのカラクリを見抜き、フランス軍の弱点をつきました

途中経路の集落を焼き払い、食糧を現地調達できないようにしたのでした。

作戦は見事にはまり、フランス軍は総崩れになりました。

 

ライプツィヒの戦い

ライプツィヒの戦い ポイント

★背景

ロシアの勝利を機に、ヨーロッパ諸国がナポレオンに反撃を開始

→ヨーロッパ諸国は第4回対仏大同盟を結成し、ナポレオンと戦った

 

★結果

ロシア遠征の被害でフランス軍は弱体化していた

→フランス軍は大敗し、ナポレオンはエルバ島に流刑となった

 

あっけない結果でしたね。

死刑じゃなくて流刑なんですか?

普通に死ぬよりも、流刑の方が苦しみますからね

 

食糧がなくなり、水もなくなり

さみしく餓死していくため、死刑よりも苦しい刑罰ですね。

なるほど

こうしてナポレオンの栄光は終わりを告げた…

 

はずだった

 

 

ウィーン会議の開催(簡潔に)

1814年 ウィーン会議が開かれました。

議題は、フランスが起こした「ナポレオン戦争の後始末」をどうするか

 

この会議で、フランス外相タレーラン

正統主義」という考えを述べました

この概念が採用され、ウィーン会議はまとまりました。

正統主義とは?

「フランス革命前の不自由で不平等なヨーロッパの姿に戻そう」

「フランス革命前の社会の在り方が正しい(正統だ)」

という考え方です。

 

フランスはどうなったのですか?

正統主義の影響 @フランス

ブルボン家による王政が復活

国王はブルボン家の生き残りルイ18世(処刑されたルイ16世の弟)とする

 

王政に逆もどりじゃないですか…

フランス外相タレーランはなぜこんなことを言ったのですか?

本題からそれてしまうので、今回はウィーン会議の結果だけおさえておいてください

詳しい理由については、こちらの記事に書きましたのでご参照ください

 

今はとりあえず

フランスで王政が復活したよ

ってことをおさえておけばいいのですね!

 

ちなみにフランス国民の反応は?

もちろんブチギレです(笑)

おまけに国王ルイ18世は議会の言うことを聞かず、

独裁に走ります

しかもフランス革命中に亡命した貴族たちを呼び戻し

彼らに財産補償をあたえました

もちろん税金からね(笑)

 

フランス国民は耐えかねて…

「ナポレオンの時代の方がよかった」

と思い始めたのです。

 

そして、あの男が帰ってくる

 

エルバ島脱出とワーテルローの戦い

ワーテルローの戦い ポイント

★背景

フランスの惨状を知ったナポレオンはエルバ島を脱出し、皇帝に復位

→諸外国がこれに警戒し、ナポレオン討伐軍を派遣した

→中心となったのはイギリス 司令官はウェリントンであった

 

★結果

フランス軍が敗北

→ナポレオンはセントヘレナ島に流され、生涯を終える

 

 

ナポレオンはフランスの惨状を知り

なんとエルバ島から脱出し、フランスにもどったのであった

 

フランス国民はナポレオンの姿を見て、むしろ歓迎したようです

ナポレオンは国王ルイ18世を再び追放(笑)

そして多くの人々に担ぎあげられ、ナポレオンは皇帝の座に復帰しました。

 

この知らせを聞いて、他のヨーロッパ諸国は動揺します

ナポレオンが帰ってきた。早々につぶしておかねばならない

そして再び対仏大同盟を結成し、ナポレオン打倒の軍を送りました。

 

フランス軍とイギリスのウェリントン将軍が指揮する対仏大同盟の軍が戦います。

緒戦はフランス軍が優勢でした。

プロイセン軍が遅参して、対仏大同盟の軍は出遅れたからです。

プロイセン軍が来ないまま、決着がつくかと思われたその日

戦場に突然の大雨が降りました

これが恵みの雨となります。

 

大雨が降ると、火薬が濡れてしまうので、

大砲や銃をまともに使うことができません。

その結果、まる一日戦いに進展はありませんでした。

 

そして次の日、無傷のプロイセン軍が戦場に到着

フランス軍は動揺して総崩れとなり、フランス軍は対仏大同盟の軍に敗れました。

 

ナポレオンは、対峙したイギリスのウェリントン将軍からの嘆願で死刑は回避

再び島流しの刑にあいます。

 

今度はアフリカの沖合のセントヘレナ島に流され、

フランスに帰ることはありませんでした。

 

ナポレオンはこの地で最期を迎えます

 

最期の言葉は

「フランス… 軍… ジョセフィーヌ…」

自身が生涯大切にしていたものを言葉にして、人生を終えました。

 

マリ=ルイーズとの政略結婚のために、

ジョセフィーヌとは離婚していましたが

離婚後もジョセフィーヌを思い続けていました。

 

戦いから帰ったあとに、

いつも膝枕をして安心させてくれるジョセフィーヌ

 

ナポレオンは成功におごらずにどこかで立ち止まって、

ジョセフィーヌに包まれていれば、幸せに生涯を終えることができていたのかもしれません。

今回はここまで

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