こんな人におすすめ
フランス革命を学んでいますが、
難しくてよくわかりません。
丁寧にわかりやすく説明してください。
とお考えの学生の方、受験生の方、世界史を学びなおしている社会人の方
この記事からわかること
・フランス革命によって、フランス社会がどう変わったのか?
・フランス革命(革命前夜・国民議会・立法議会・国民公会・総裁政府・統領政府まで)の
できごと・流れ・ポイントなどがよくわかります。
読者の皆さんへのメッセージ
こんにちは。
元々高校の教員をしていました。てっちりです。
このサイトでは、
世界史を学ぶうえでの「わからない。」「なぜ?」に
お答えできるよう、情報を掲載しています。
特に近現代史になると、学ぶ概念も難しくなってくるので
生徒からの質問もわんさか飛んできました(笑)
そんな、学んで苦戦してきた教え子たちの苦悩と
ひとつひとつの質問に丁寧に答えてきた私の苦悩を無駄にしたくなかったので、
今回は記事としてしたためました!
フランス革命の歴史的意義
1789年にフランスで発生した市民革命のことを言います。
この革命による成果は主に4つあります。
①フランスが自由で平等な国となったこと
②フランス王家 ブルボン家による絶対王政が終わったこと
③国王や貴族ではなく、市民が政治の主役となったこと
④国民意識(ナショナリズム)が高揚したこと
①フランスが自由で平等な国となったこと
革命前のフランス社会は超不平等な社会でした
その名も「旧体制(アンシャン=レジーム)」
フランス革命によって、あらゆる不平等が解消されていきました
不平等の例としては以下が挙げられます
第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の人口は全国民の1%にも満たないのにも関わらず
国土の40%以上の土地を独占していました。
第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は免税特権を持ち、国王から税を課されない
でも第三身分(市民・農民など)は容赦なく重税を課されます。
いちばん金を持っている連中が税を払わなくてよくて
いちばん貧しい人たちが税を取り立てられる
まさに弱肉強食の社会でした。
フランスのキリスト教会(カトリック教会)は聖書の教えに従い、
農民に神の御加護を与える見返りに
農民から「収穫の10分の1」を徴収することができました。
この税を通称「十分の一税」と呼びました。
農民たちは「神の教え」と言わんばかりに、税を支払うしかありません。
この徴税も、農民たちの生活を圧迫していました。
さっきから農民への取り立てえぐくないですか?(泣)
貴族は大規模な土地を持ち、その土地を農民(小作人)に貸し出していました。
小作人は土地を借りている以上、土地のレンタル料、
つまり「封建地代」を領主である貴族に支払わなければなりません。
土地を借りている側の小作人は貴族よりも下の身分におかれ
まんいち貴族に逆らう場合があった場合は、
怒った領主が小作人に対し、私的な裁判を行うことができます。
この権限を「領主裁判権」と言いました。
特に不平等な扱いを受けていた農民(小作人)たちはブチギレ
彼らは革命の際に、貴族や聖職者が持つ特権を廃止していきました。
ほかにも経済格差を解消するため、カトリック教会がもつ財産は没収され
1793年の「封建地代の無償廃止」で、貴族が持つ広大な土地は没収され、小作人に分配されました
②フランス王家 ブルボン家による絶対王政が終わったこと
革命のさなか
フランス国王ルイ16世と妻マリ=アントワネットは民衆の怒りを買い、
革命派によって逮捕
1792年 革命派内部の過激派集団 ジャコバン派によって処刑されました。
これによって、1589年より続いた強力な王家 ブルボン王朝は滅亡
フランスの絶対王政は終わりを告げました。
③国王や貴族ではなく、市民が政治の主役となったこと
国王の処刑後、紆余曲折ありましたが
フランス政府の代表は市民からの選挙でえらばれるようになり、
フランスは急激に民主化していきました。
これによって政治の主役は国王から市民へと移り、
絶対王政が終焉を迎えました。
④国民意識(ナショナリズム)が高揚したこと
ナショナリズム?なんだそりゃ?
けっこう抽象的な概念なので、そう思う人も多いはず
できるだけわかりやすく解説します。
ナショナリズムとは簡単に言うと
「何としてもこの国を守りてぇ」
「何としてもこの国を盛り上げてぇ」という、強い意識のこと
フランス国民がなぜこんな意識を持つようになったのか?
革命によって得たものを、外敵から守りたかったからです。
フランスの市民が革命によって得たものはたくさんあります。
・自由で平等な社会
・国王から重税を課されることのない日々
・貴族や聖職者から搾取されることのない日々
・投票にいくと、自分の意見が国に反映される制度
・貴族や教会から財産を没収し、皆に分け与えることで得た「自分の土地と財産」
しかし近隣諸国の国王たちはフランス革命を妨害し
フランスの市民たちが得た自由を奪い取ろうとしました。
それもそのはず。
近隣諸国の王たちは、革命の余波が自国に及ぶことを恐れたのです
「フランスで国王が市民に殺されたらしい」
「フランス人が自由になれたらしい」
そんな噂が国内で広まってしまうと、
それぞれの国の市民階級の人々が思い始めます
「俺たちも自由になりたい」
「俺たちも自国の国王を打倒しよう」
とね
「朕(国王の一人称)はもしかしたら殺されてしまうかもしれない…」
諸外国の国王たちはおびえて震えあがり
フランス革命を妨害するために「対仏大同盟」を結成
そしてたびたびフランス領に侵攻しました
しかしフランス国民は諸外国の侵攻におびえるどころか、逆に燃え上がりました
「外国に屈すると、せっかく得た自由が、平等が、自分の土地や財産が、守るべき家族が奪われてしまう」
そう思って、フランス国民は一致団結して必死に戦いました。
こうした経緯があって、フランス人の国民意識(ナショナリズム)が高揚していったのです。
Q.フランス革命によってナショナリズムが高揚する前は、
みんな国のために必死に戦わなかったんですか?
A.はい、そうです。
フランス革命前のヨーロッパの国々では、傭兵制が実施されていました。
つまり兵士はお金で雇われていたってことです。
雇われた兵士の心理状況はこうです
「死にたくねえ」「絶対に生きて帰って給料もらうぞ」
傭兵たちは死んだら給料をもらえませんから、死なない程度にゆるく戦いました(笑)
中には敵前逃亡を繰り返し、戦場にある農村から略奪をしまくる者まで現れ
まじめに戦おうとする兵士はなかなかいません。
そんなならず者傭兵集団と、
国民意識(ナショナリズム)が高揚した、意識の高い軍が戦ったら、
もちろん勝負は見えていますよね。
フランス革命の背景
フランスの社会に矛盾を感じていた市民たちの怒りの感情が吹き出し、
フランス革命が起こりました
市民の怒りが頂点に達した原因は多々あります。
代表的なものを挙げるとすれば…
①火山の噴火による食糧危機と物価高騰
②イギリスとの植民地抗争での財政赤字
→赤字解消のために、市民にかけられた重税
③旧体制(アンシャン=レジーム)への不満
第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)が優遇されている不平等な社会や
「特権身分」とされた、教会や貴族からの搾取
といったところになります。
ひとつひとつひも解いていきましょう。
①火山の噴火による食糧危機と物価高騰
1783年、アイスランドのラキ山が噴火しました。
遠く離れたアイスランドでの噴火ですが、
大量の火山灰がヨーロッパの空を覆いました。
空を舞う火山灰は太陽の光をさえぎり、ヨーロッパでは深刻な冷害が発生…
結果として穀物が実らず、フランスを含めたヨーロッパの広範囲で食糧危機が起こりました。
穀物が足りなくなると、穀物の価格は上がります
コロナ禍でマスク不足になったときに、マスクの価格が上がったのと同じ原理です
フランスの貧民しい市民たちは焦りました
「穀物が高すぎて買えない…」
「このままでは家計が成り立たない…」
こうした社会不安が、市民たちを革命へと突き動かしていきます。
※穀物価格が高騰していることをおさえておけば、
フランス革命政府がおこなった政治への理解度が深まります。
ぜひとも覚えておいてほしい。
②イギリスとの植民地抗争での財政赤字
18世紀以来、イギリスとフランスは
インドとアメリカ大陸で植民地抗争を繰り広げていました。
もちろん戦争には莫大なお金が使われます。
何度も戦争を繰り返せば、たちまち国家予算は赤字になっていきました。
そんなフランスの財政にとどめを刺したのが、1770年代のアメリカ独立戦争への介入です。
アメリカ合衆国はイギリスからの植民地支配から逃れるために、独立戦争を展開
ライバル国のイギリスを弱らせる好機とみて、フランスはアメリカ合衆国を支援しました。
※アメリカの独立成功後、フランスがアメリカに自由の女神像を贈ったのは、
このときに築かれた友好関係があったからです。
結果としてアメリカは独立して、宗主国イギリスの国力はダウンします
ライバル国が弱体化して、フランスにとってはうれしいシナリオですが…
ここに至るまでにフランスはお金を使いすぎた…
フランス政府は市民から税をとりたて、財政赤字をしのごうとしました。
さて、このときの課税方法をめぐって、フランス国内で不満の声がわき上がることになります…!
③④超不平等社会 旧体制(アンシャン=レジーム)への不満
革命前のフランス社会では身分制度があり、実に不平等な世の中でした。
①国王
②第一身分(聖職者)
③第二身分(貴族)
④第三身分(平民)←全人口の98%が該当
※第三身分(平民)は大きく2つにわかれる
都市の富裕な平民を「ブルジョワジー」・貧農を「サンキュロット」と呼んだ
革命の中心となったのは④の平民でした。
それぞれの身分を解説しながら、平民が抱いていた怒りの原因をひも解いていきましょう
①国王 ルイ16世
国王はブルボン家のルイ16世
悪い言い方をすると「優柔不断な王様」
良い言い方をすると、「周囲の声にちゃんと耳を貸す王様」といったところでしょうか
ブルボン家の国王は、代々「絶対王政」を敷いていました
周囲の意見に耳を貸さない国王も多く、その証拠として
フランスの議会「三部会」は1614年のルイ13世の治世以来
いちども開かれていませんでした。
ルイ16世は周囲の声に耳を傾ける国王だったので、
1789年、175年ぶりに三部会を開催しました。 詳しい内容はのちほど
妻はマリー=アントワネット(オーストリアのハプスブルク家からブルボン家に嫁いだ)
植民地抗争への出費
ヴェルサイユ宮殿での貴族への接待に多額の予算が必要で、
国家予算はもはやピンチ
→結果として、平民に課税したり、貴族や教会からの借金でまかなうこととなりました。
②第一身分(聖職者)
フランス社会における特権身分
大まかにフランス国内のカトリック教会の職員を「聖職者」と呼ぶ
・聖職者は免税特権を持ち、国王から税を課されない
・農民から(※)十分の一税を徴収する権利を持っている
※農民が得た収穫の10%を、教会へ支払う税として徴収できる
③第二身分(貴族)
莫大な財産を持つ世襲の貴族
大規模な土地を持つ領主でもあり、
少人数でフランス国内の40%の土地を独占していた
・貴族は免税特権を持ち、国王から税を課されない
・小作人(=自分の土地を持たない農民)に農地を貸し出し
→小作人から封建地代(土地のレンタル料金)をとっていた
・領主裁判権を持ち、領民(土地を貸し出している農民ら)に私的な裁判をすることができる
→つまり、農民は立場の強い貴族の言いなりとなってしまうのです。
①免税特権は中世の頃は「不輸不入権」と呼ばれていました
※不輸不入権とは?
国王が派遣する徴税官を、自分の所領に寄せ付けない権利
大規模な土地を持つ貴族や教会は強大な権限を持っていて
国王とあれど、彼らの所領に土足で踏み込むことができなかったのです。
②一応、国王は貴族や聖職者からお金を集めることはできます
ただし免税特権があるため、税としてお金を集めることはできません
だから、貴族や聖職者からは「借金をする」ことでお金を集めるという対応をとりました
もちろん税とは違い、国王は借りたお金は返さなければいけません!
④第三身分(平民)
特権を持たない一般人。全国民の98%を占めています。
第三身分(平民)は大きく2つにわかれます。
都市の富裕な平民を「ブルジョワジー」・小作人などの貧農を「サンキュロット」と呼びました
特にひどい生活をおくっていたのがサンキュロットです
これまでの各身分の解説にもありましたが、
農民たちは
・国王から重税を取り立てられ
・領主である貴族からは封建地代(土地のレンタル料)を取り立てられ
・教会からは十分の一税をとりたてられる。
つまり3つの方向からお金をとられます。
しかもいちばんお金を持っている貴族や教会は国に税金をおさめなくてもよい
そんな不公平な社会に対し、サンキュロットたちは怒りを覚えるようになります。
この怒りが革命の原動力となっていきました。
フランス革命の発生
フランス革命の背景は説明しました。
ここからが本題です。
市民の怒りが爆発し、フランス革命がついに起こります。
革命が始まるまでの流れを次の順に説明していきます。
1770年代~80年代 テュルゴー・ネッケルの財政改革
1789年5月 三部会の開催
1789年6月 国民議会の発足と球戯場(テニスコート)の誓い
1789年7月 フランス革命 ついに勃発 バスティーユ牢獄襲撃事件
テュルゴー・ネッケルの財政改革
財政赤字から回復するため、国王ルイ16世は
1770年代に重農主義者 テュルゴーを
テュルゴーの失脚後は、スイス出身の銀行家 ネッケルを財務総監の地位につけました。
テュルゴーは王室の支出を軽減するための政策をいくつか行いましたが、
保守派からの反対を受けて失脚します。
後任のネッケルは財政赤字解消のためには致し方なしとして、こう言いました。
「国王陛下、特権身分(貴族・聖職者)から税を取りましょう。」
国王ルイ16世もこれを受け入れ、特権身分からの課税を実施する方向で動きました。
しかし税をとられたくない貴族・聖職者たちは課税に反発
ある貴族が国王ルイ16世にこう進言しました。
「このような重大な議題は、三部会で議論いたしましょう。」
優柔不断な国王ルイ16世はその貴族の意見を聞き入れ、
特権身分への課税を行ってもよいかどうか、三部会ではかることにしました
三部会の開催
フランスのヴェルサイユ宮殿で開かれる身分制議会
「部」とは身分のことで、
それぞれ第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(平民)の
3つの「部(身分)」の代表議員が集まることから、「三部会」と呼ばれていた。
この三部会ですが、以下のポイントを押さえておいてください。
①17世紀の国王ルイ13世の治世以来、175年ぶりに開催された
②貴族・聖職者のゴリ押しで、採決の方法は「1身分につき1票」の多数決制とされた
三部会の結末
会議が始まります。
議題はもちろん
「特権身分(貴族・聖職者)から税をとる?」
各身分の代表者たちの意見はこうなりました。
・第一身分(聖職者)代表:反対!特権身分から税をとるな!
・第二身分(貴族)代表:反対!特権身分から税をとるな!
・第三身分(平民)代表:大賛成!平民からだけ税をとるのは不公平だ!
さて、議長が結果を言い渡します。
「特権身分への課税に反対2票・賛成1票」
「多数決の結果、特権身分には課税しないこととします」
議場がざわつきます
してやったり顔の貴族代表と聖職者代表
明らかに不公平な議決結果に不満を隠せない平民代表…
それもそのはず
平民は全人口の98%を占めています。
それに対して、貴族と聖職者は合わせて全人口の2%
人数で言うと明らかに平民の方が多いはずなのに、平民からは1票しか出せない…
平民の怒りは爆発します。
「こんな不公平な会議に参加してもらちが明かない。」
「言論(政治の力)で不平等を解消することはできない。ならば、力づくで戦うしかない」
そう考えた平民たちは革命に向けて動き出したのでした。
第三身分出身の聖職者 シェイエスという男がいました。
シェイエスはもともと第三身分なので、平民に対して理解がある人物です。
シェイエスは第三身分が不当に扱われている社会を嘆き、
パンフレット『第三身分とは何か』を発刊
第三身分の権力の向上を宣伝しました。
そこにはこう書いてあります。
「第三身分とは何か?それはすべてである。」
どういうことか簡単に説明します。
「全人口の98%を占める第三身分の人々ががんばって仕事をしているから
皆が飯を食える・服を着れる・ほしいものが不自由なく手に入る」
「フランス人の生活が成り立っているのは、すべて第三身分のおかげなのである」
市民たちはこの言葉に共感し、シェイエスの言葉に熱狂します。
そしてフランス革命は大いに盛り上がっていきました。
国民議会の発足と球戯場(テニスコート)の誓い
1789年6月 国民議会の発足が宣言されます。
中心となったのは、三部会の議決方法に不満を持った平民たちでした。
彼らはヴェルサイユ宮殿内の球戯場(テニスコート)に集まり、
フランスを「自由」で「平等」な国にすることを目標として決起しました。
そしてメンバーたちは
「いかなる弾圧を受けようと、
自由・平等を定めた『憲法』を制定するまで、我々はぜったいに解散しない」
と誓いあったのでした。
これを「球戯場(テニスコート)の誓い」と言います。
この誓いを交わしたあと、国民議会は別名「憲法制定議会」と呼ばれるようになりました
有名なメンバーを紹介します。
・自由主義貴族
読み書きや政治学などの教養がない平民が集まっても、政治はうまくいきません。
そこで国民議会は良識のある貴族の力を借りました。
①ラ=ファイエット
アメリカ独立戦争でフランス義勇軍を率いて参戦した人物
独立をめざす市民たちが熱狂する姿を見て、市民のエネルギーの強さを知った。
フランスを強い国にするには、市民のパワーを使うことが不可欠と考え、
国民議会による革命に賛同した。
②ミラボー
同じく国民議会の理念に賛同する貴族
王室との親交があり、国民議会と国王サイドのパイプ役をつとめる。
・平民
①ロベスピエール:のちに過激派組織 ジャコバン派のリーダーとなる
②ダントン:ロベスピエールと同じく、ジャコバン派の幹部となる人物
→プレゼンがうまく、革命に賛同する民衆を巻き込むのがお上手。
A.理由は様々ありますが、貴族の中にはこんな人々がいます。
①私は中小貴族です。
大貴族が要職を独占していて出世が叶いません。
なので革命に紛れて大貴族を倒したいと思っています。
②私は貴族です。祖国フランスを強い国にしようと思っています。
フランスを強い国にするためには、
全人口の98%を占める市民の協力が不可欠だと思います。
こうした意見もあって、貴族の一部が国民議会に参加し、
フランス革命に賛同していきました。
フランス革命の始まり
バスティーユ牢獄襲撃事件 背景と結果
1789年7月14日
パリの市民がついに武装蜂起します。
市民の怒りに火をつけたのは財務総監ネッケルの罷免でした。
ネッケルはどちらかというと平民の立場を尊重し、
特権身分への課税を主張したため、市民から人気がありました
※ネッケルの改革についてはコチラ
三部会で特権身分への課税が否決されたあと、
政界でのネッケルの立場は急激に悪化しました。
そして国王はついにネッケルにクビを言い渡しました。
このできごとがパリ市民を怒らせ、武装蜂起が発生
怒った市民は、パリ市のバスティーユ牢獄を襲撃しました。
A.理由は2つあります。
①牢獄の武器庫を襲撃し、武器を奪うため
②政治犯として捕まっている人々を救出するためです。
特に①の理由が大きく、バスティーユ牢獄には
看守の武器が保管された武器庫がありました。
革命を起こすためには武器が重要ですから、それを手に入れたかったのでしょう。
牢獄の襲撃は見事に成功
このニュースはフランス各地に伝わり、各地の第三身分(平民)を勇気づけました。
そして、革命騒ぎに便乗した第三身分(平民)たちが
・政治への怒り
・地代を搾取してくる貴族への怒り
・十分の一税を搾取してくる教会への怒りをぶつけます。
そしてフランス各地で教会や貴族の館が襲撃され、
フランス国内はパニック状態になりました。
バスティーユ牢獄襲撃事件の成功が、フランス全土での革命騒ぎに発展したのでした。
封建的特権の廃止と教会財産の没収 背景・結果・その影響
国内がパニック状態になっている中
革命軍のまとめ役 国民議会が動きました
同じく1789年、国民議会は封建的特権の廃止を
1790年には教会財産の没収を宣言しました。
目的は「暴徒化しすぎた民衆をなだめるため」です(笑)
バスティーユ牢獄襲撃事件以降、全国で毎日のように平民による武装蜂起が起きています。
このままではさすがに国がまとまらないので、国民議会は事態の鎮静化に動きました。
そこで、「こんなことを言ったら民衆は落ち着いてくれるかな?」と考え、
「全国の平民たちよ」と呼びかけて、
平民にとって有利な政策をいくつか発表したのです。
②について、細かい話になりますが「条件付きで」とはどういうことでしょうか?
小作人は貴族(領主)から土地を借りています。
貴族の土地を力づくで没収して、
小作人に無償で与えるのはもう少しあとの話になります。(重要)
封建的特権の廃止の段階では…
「向こう40年分の地代をおさめた小作人は、貴族(領主)の土地を自分のものにすることができ、
以後 貴族に地代を支払わなくてよい」
というルールが定められました。
つまりこういうこと
「土地を自分のものにして、地代の搾取から解放されるためには、
貴族(領主)にお金を払って、土地を買わなければならない」
Q.襲われている側の貴族に対して、やけに甘い条件ですね。
なぜですか?
A.国民議会のメンバーに貴族がいるからです。
※ラ=ファイエットやミラボーなどのこと
彼らも自分の土地を持っていて、小作人に貸しています。
彼らも自分がかわいいものですから、自分の財産を没収されたくなかったのです(笑)
そして国民議会は翌年には教会財産の没収を発表
裕福だった国内のカトリック教会から財産を没収し、市民に分け与えました。
フランス国内のカトリック教会の財産が没収されたことに対して、
カトリック教会の総本山 ローマ教皇(@イタリア)は激怒しました。
そして、国民議会をかつぐフランス人を根こそぎ破門処分にしました。
※のちにナポレオンが台頭して和解するまで、
フランス革命政府とローマ教皇は断交状態でした。
フランス人権宣言の発表
国民議会は全国民からの支持を集めるため、新政府の方針を発表しました。
その方針を「人権宣言」としてまとめました。
人権宣言の起草者は自由主義貴族 ラ=ファイエット
教養に富む人物だったので、流ちょうな文章でまとめることができました。
①「自由権・平等権」の思想を明記している
【1条】人間は、生まれながらにして自由かつ平等な権利を持っている。
②ロックの「抵抗権(革命権)」の思想を明記している
【2条】あらゆる政治的結合の目的は…権利の保全である。
それらの権利とは自由・所有権・安全および圧政への抵抗である
③「国民主権(主権在民)」の思想を明記している
【3条】あらゆる主権は、本来、国民のうちにある。
④「財産権の不可侵」を明記している
【17条】財産所有は不可侵にして神聖な権利であるゆえに、
合法的と認定される公共的必要が明らかにこれを要求する場合のほかは(中略)
なんぴともそれを奪われることがありえない。
Q.財産権の不可侵…
といっても、平民たちは財産を持っていないのでは?
A.これはラ=ファイエットのための条文です(笑)
バスティーユ襲撃以来、全国で貴族が襲われ、身ぐるみをはがされています。
ラ=ファイエットも革命勢力の一員とはいえ、財産を持っている貴族なので
彼は平民から襲われる側です(笑)
暴徒化した平民から自分の財産を守るために、
ラ=ファイエットは「財産を奪ってはいけませんよー」って書きました(笑)
政治家とはずる賢くないと成功しないのです(笑)
ヴェルサイユ行進(十月事件) 背景と結果
人権宣言が発表されてから1カ月半が過ぎたころでした。
パリの婦人たちが、国王夫妻の住むヴェルサイユ宮殿付近に集まります
そして「パンが高くて買えない!」「パンをくれ!」と言って抗議しました。
以前の記事でも述べましたが、
当時のフランスでは冷害の影響で穀物価格が高騰していました。
原材料の穀物(小麦など)が高ければ、パンも高くなります。
パンの価格が高ければ、貧しい人々の生活は苦しくなります。
家計を切り盛りしている婦人たちは、家を守るために必死で戦いました。
そしてパンをたくさん持っていそうな国王夫妻に、「パンをよこせ」と求めたのでした。
これに対して、国王の妻 マリ=アントワネットが有名な失言をしていまいます。
「パンがないならケーキを食べればいいじゃないの」
この言葉にパリの婦人たちは怒り心頭
ヴェルサイユ宮殿に押し入り、国王夫妻を取り押さえてしまいました(笑)
そして、国王夫妻を※テュイルリー宮に幽閉してしまいました。
※ヴェルサイユ宮殿が建造される以前に使われていた旧宮殿のこと
「パンがないならケーキを食べればいい」
この言葉を本当に発したのかどうかは、当時の人々にしかわかりません。
ただひとつだけ言えることがあります。
「マリ=アントワネットの発言は正論です」(笑)
というのも、当時は小麦の価格が高すぎて
ケーキの原材料や砂糖などの方が安く済んだからです。
「安い食糧がほしいなら、パンよりケーキの方が安いよ?」
と言いたかったマリ=アントワネットでしたが、
庶民にそんな小難しいことはわかるはずもなく、パリの婦人たちに粉砕されました。
1791年 ヴァレンヌ逃亡事件 背景・結果・その影響
1791年に入って、事態が大きく動き出します。
国王ルイ16世夫妻がオーストリアへの逃亡を図ったのです。
オーストリアといえば、王妃マリ=アントワネットの故郷です。
国王夫妻は、王妃の生家 ハプスブルク家になんとか連絡をとりあい、
フランスからの脱出計画を立てたのです。
Q.なぜこのタイミングだったのですか?
国民議会と国王をつなぐパイプ役 ミラボーが死んだからです。
のちに述べますが、革命軍を指揮する国民議会の中には、
「すぐさま国王を殺せ!」とする過激派がいました。
その過激派をうまくおさえ、敵方の国王夫妻ともうまく連絡をとりあっていたのが
貴族出身のミラボーでした
彼が死んだということは…
「まさか、過激派のおさえが効かなくなるのでは!?」
「私たちは殺されてしまうのではないか!?」
と国王夫妻は考えたのです。
夜な夜な、国王夫妻は幽閉先のテュイルリー宮から脱出します。
しかし、逃亡計画は失敗に終わります。
余談ですが、逃亡計画が失敗した原因は、もはやコントです(笑)
★逃亡が失敗した理由
①国王の肖像画が描かれたコインのせいで顔バレ
→途中で農民に見つかって、国王であることがバレる(笑)
②移動中も酒を飲みたいからといって、大荷物を抱えて逃亡
→荷物が重すぎて素早く動けないし、何より目立つ(笑)
以上、超しょーもない理由でした(笑)
国王の逃亡失敗のニュースはすぐに国民議会に伝わります。
そして、捕まえた国王の扱いをめぐって
国民議会の内部で意見がわかれます。(次の章へ)
★背景:国民議会と国王夫妻のパイプ役 ミラボーが死去
→不安に思った国王夫妻は、王妃の故郷オーストリア(ハプスブルク家)に逃亡を計画
★結果:逃亡は失敗
★影響:国民議会の内部で、国王の扱いをめぐって意見が対立
フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派の対立
革命を主張する国民議会ですが、その内部は一枚岩ではありません。
メンバーによって、革命後の社会に対する理想像が違い、
大まかに3つの派閥に分かれていました。
フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派です。
彼らの意見対立が最も激しくなったのが、ヴァレンヌ逃亡事件のあとでした。
「フランスからの逃亡を図った国王夫妻の扱いをどうするか?」
国民議会の内部では、揉めにもめたのでした。
方針:立憲君主制を主張
①国王は必ず生かしておき、国の元首にすえる
②国王の権限を憲法でガチガチに縛り、国王には独裁政治をさせない
支持層:ラ=ファイエットら貴族出身のメンバー
Q.貴族たちが国王を生かしておきたいのはなぜですか?
A.貴族は国王にお金を貸しているからです。
国王は革命前から貴族たちに借金をしています。
貴族たちには免税特権があったので、
貴族たちからは「税をとる」のではなく、「お金を借りる」という形をとっていました
そのときの名残で、国王は貴族たちに借金をしています。
そんな国王一家を皆殺しにしてしまうとどうなるでしょうか?
国王に貸したお金は返ってこなくなります。
よって、貴族たちは国王の殺害を望まなかったのです。
※覚え方「王を殺したらイヤン」(フイヤンだけに)
方針:穏健共和制を主張
①王政を廃止し、共和制(王がいない政治)をする。
②国王は無理して殺す必要はない。国外追放などが妥当では?
→「穏健」と言われるゆえんはコレ
支持層:都市の富裕な平民 ※商工業者(ブルジョワジー)ら
Q.支持層は平民なのに、国王には少し優しいんですね。
A.これまでの歴史上、ブルジョワジーは国王から恩恵を得ていましたからね。
時代をさかのぼり、ルイ14世の財務総監コルベールのお話をします。
コルベールは重商主義を主張していました。
重商主義とは「輸出を増やし、外国から富を得れば、国は豊かになる」
という考えです。
そのためには、①輸出品を大量つくること ②それを外国に売ること
の2点が必要になります。
だからコルベールは国内の商工業を保護し、
兵器産業・ガラス産業などを盛り上げました。
もちろん商工業に携わる人たちは、注文が増えて生活が潤います。
国王サイドの政策によって、なんやかんやで自分たちの暮らしは潤っていた。
だからブルジョワジーたちは国内の不平等には不満を持ちながらも
国王に対してかなり強い恨みを抱いているわけではありません。
方針:急進共和制を主張
①国王は絶対に処刑し(「急進」と言われるゆえんはコレ)
②王がいない政治(共和制)を敷く
支持層:貧民(サンキュロット)
リーダー格はロベスピエール ダントンら
貧民たちは国王から搾取されてましたからね!
処刑したくなるのも当然か…!
派閥 | 主張 | 支持層 |
フイヤン派 | 立憲君主制 | 自由主義貴族(ラ=ファイエットら) |
ジロンド派 | 穏健共和制 | ブルジョワジーが中心 |
ジャコバン派 | 急進共和制 | 貧民(サンキュロット)ら |
1791年 憲法の制定
国民議会内部で対立がありながらも、
同時進行で憲法の制定に関する話し合いが進んでいました。
あくまで国民議会の目的は「憲法を制定すること」ですからね
そして1791年に憲法が公布され、国民議会は目的を達成しました。
役目を終えた国民議会はこれにて解散
新たに立法議会を立ち上げ、国民議会の権力を立法議会に引き継ぎました
・フランス人権宣言を前文として掲げ、人権宣言の考え方をベースとした
・国民議会の権限を立法議会に引き継ぐ
・立法議会の議員は「男子による制限選挙によって決定する」
Q.ちょっと待ってください!
みんなが平等に参加できる「普通選挙」ではなく、
お金持ちしか参加できない「制限選挙」なんですか?
それじゃ「平等」な国にならないですよね?
A.当時の社会情勢を考慮して、過激派のジャコバン派を政界から省きたかったんでしょうね。
普通選挙を実施したら、いちばん票が集まりそうなのはどの派閥でしょうか?
投票者の数としては、貧しい人がいちばん人数が多いので、
貧民(サンキュロット)からの人気が高い、ジャコバン派が選挙に勝利しそうですね。
ジャコバン派と言えば、「国王夫妻を処刑せよ」と主張しています。
じゃあ、ジャコバン派が台頭して、
本当に国王夫妻を処刑してしまったら、他の国はどんな反応をするでしょうか?
マリ=アントワネットの生家
オーストリアのハプスブルク家が黙っちゃいませんね。
そういうことです。
次回の記事で詳しく述べますが、
当時、オーストリアからは「マリ=アントワネットを解放せよ」
「さもなくばフランスに攻め入る」
という脅迫状が届いていました(ピルニッツ宣言という)
みすみす国王夫妻を解放すれば、これまでの革命の過程を否定することになり、
かといってジャコバン派が台頭して国王夫妻を殺してしまえば
オーストリアを刺激してしまい、すぐに攻め込まれてしまうかもしれない
1791年のフランスは少し慎重に動かなければならない時期でした。
よって、ジャコバン派の台頭を恐れ
このたびは制限選挙が実施されることになりました。
「平等な国」への道は少し遠かったのです。
立法議会の時代
立法議会の成立とジロンド派の台頭
1791年 国民議会は憲法を制定
目的を達した国民議会は立法議会に権力を移行しました
そして1791年10月 立法議会が成立しました
立法議会の選挙は制限選挙で、
一定の財産額以上を持つ人のみが参加できました。
財産額規定により貧民(サンキュロット)は投票できず、
貧民を支持層にしていたジャコバン派は選挙に敗北します。
ちなみに貴族から支持を得たフイヤン派は、
支持層の貴族からの票を得ることができる立場なのですが、
立憲君主制に反対する市民に対して、発砲する事件を起こしてしまい、
スキャンダルによって力を失いました。
消去法よって、ジロンド派立法議会の中で最も有力となり、実権を得ました。
※フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派についての詳細は前回の記事へ
ピルニッツ宣言とオーストリアへの宣戦布告
1791年 ピルニッツ宣言
1791年 フランス国民議会に、ある脅迫文が届きました。
ピルニッツ宣言というもので、オーストリア・プロイセンの連名で発布されました。
(これは一応、国民議会の時代のできごとです)
革命騒ぎをすぐさま切り上げ、革命による変化をすべて元に戻せ
そして国王ルイ16世と妻マリ=アントワネットを解放せよ
さもなくば、フランスに攻め入る
すごい脅しですね。
Q.両国はなぜフランス革命政府を脅迫したのですか?
1792年 オーストリアに宣戦布告
ヴァルミーの戦いとオーストリア戦争の決着
この戦いでフランス市民が見せた反応を「ナショナリズムの高揚」と言います。
ナショナリズム(国民意識)とは、
「何としてもこの国を守りたい」
「何としてもこの国を盛り上げたい」という、強い意識のことを指します。
外国から苛烈に攻められたことによって、
フランス市民は
「自分の国・町・家・家族・革命によって得た自由を失いたくない」
と思って覚醒
そして非常に戦意の高い集団に化けたのでした。
8月10日事件と王権の停止
各地で義勇軍が結成されて戦っている頃、パリ近辺では別の事件が起きていました。
フランスの市民たちがテュイルリー宮(国王夫妻と王党派が捕らわれている場所)を襲撃したのです。
オーストリア軍はルイ16世とマリ=アントワネットの救出を企ています。
ルイ16世夫妻は何としても助かりたいので、
オーストリア軍を領内に招き入れようとしました。
そしてひそかにフランス軍の戦略・配置などの情報をオーストリア軍に流していたのです。
もちろん市民たちはそれを許さずに激怒しました。
そして国王夫妻とその側近たち(王党派という)を逮捕
国王夫妻が裏切り者であるとして
「今日この日をもって王権を停止する」と宣言しました。
対オーストリア戦争のフランス
オーストリアとの戦いで活躍したのは、
間違いなくジャコバン派と市民たちでした
無計画に戦争を挑んで敗戦を繰り返したジロンド派は力が衰え、
代わりにジャコバン派が台頭していきました。
そして立法議会は解散され、新たに国民公会が開かれるようになりました。
Q.フイヤン派や中心人物のラ=ファイエットはどうなったのでしょうか?
A.多くが外国に亡命しました。ラ=ファイエットも同様です。
国民公会の時代
国民公会の成立
1792年 立法議会が解散し、新たな議会が開かれました。
その名も国民公会 メンバーは男子普通選挙で決定されました
国民公会ではオーストリアとの戦争で名を上げたジャコバン派が政権を獲得しました。
ジャコバン派についておさらいしておきます
急進共和制を主張
国王に対して厳正な処分を下し、共和制(王がいない政治)を実施しようとした
支持層は貧民(サンキュロット)
リーダー格はロベスピエール
ほかに幹部として、ダントン・エベールなどがいた
国王ルイ16世夫妻の処刑
1793年1月 パリの民衆たちが歴史的なシーンを目の当たりにします
「国家に対する裏切り」を働いたとして、国王が処刑されます。
民意は「国王を殺せ」「フランス共和国万歳」という方向に動いていました。
国王ルイ16世が断頭台に連行され、ギロチンの刃が降りました。
そしてフランス国王ルイ16世は死んだ。
こうしてブルボン朝による王政は終わりを告げました。
少し時間をおいて、マリ=アントワネットも処刑されました。
余談ですが、ギロチンのお話をします
死刑囚に余計な苦痛を味わわせないため、
ルイ16世が技師ギヨタンに開発を命令した処刑具です。
技師のギヨタンの名から「ギロチン」と名付けられました。
「人権に配慮し、死刑囚に余計な苦痛を与えない」
近代的な発想が生まれた瞬間でした。
ギロチンの登場には、もうひとつの歴史的意義があります。
これまで、死刑の方法は地域によってバラバラだったり
裁判権を持つ領主によって決められたりしていました。
同じ死刑囚でも、課せられる刑罰はバラバラだったのです。
でもフランス革命にともない、革命政府は処刑方法をギロチンに統一しました
これは、すべての死刑囚を「平等」に同じ方法で裁くためです。
フランス革命のテーマは「自由と平等」
ギロチンは死刑囚にとって平等の象徴だったのです。
第1回対仏大同盟の結成
ルイ16世の処刑はヨーロッパ各国を震撼させました。
各国の王たちはこう考えます。
「このニュースが各国の市民たちに伝わればまずい…」
「私の政治に不満を持つ市民たちが、私を殺しにくるかもしれない」
そんなフランス革命政府に危機感を抱き、
ヨーロッパ諸国がフランス革命の妨害を図りました。
提唱者はイギリスの首相 ピット
オーストリア・プロイセン・ロシアなどの王国を巻き込み、第1回対仏大同盟を結成
フランスへの対抗姿勢を示しました。
同盟とは言っても一枚岩ではなく、
フランスを滅ぼすほどの破壊力は発揮できませんでしたけどね。
ヴァンデーの農民反乱
対仏大同盟の脅威に対し、国民公会は応戦します。
全国に徴兵令を出し、可能な限り兵士を集めました。
しかし、ヴァンデー県という農村で徴兵制反対一揆が起こりました。
それに便乗して、各地で同様の反乱がおこるようになったのです。
この反乱には黒幕がいました。
革命によって失脚していた貴族たちです
彼らは潜伏先で「王党派」を結成し、国民公会の転覆と王政の復活をめざしました。
そして徴兵に反対する農民たちをそそのかし、国民公会に反乱を挑みました。
最終的にこの反乱は鎮圧されましたが、のちの国民公会の政治に大きな影響を与えました。
ロベスピエールの恐怖政治
「敵が攻めてきているのに、国内が一枚岩にならない」
焦りながら政治をおこなっていたのが、
ジャコバン派のリーダー ロベスピエールです
ロベスピエールのプロフィールを紹介します。
弁護士(裕福だが平民)の息子として生まれ、
生まれたころは裕福な暮らしを送る。
しかし6歳で母が死に、病んだ父親は失踪
ロベスピエールは貧しい祖父母に引き取られ、貧しい生活を送った
ロベスピエールは父と同じ弁護士を志し、大学に進学
学費を払えるような家庭ではなかったのだが、
学費の安い国立の大学へなんとか進学した
成績優秀者のみに与えられる奨学金があったので、
トップ成績を維持しながら、しっかりと奨学金をもらっていた!
とても勤勉で賢い若者であった。
周りの生徒は、親からの期待が熱い貴族のおぼっちゃまばかり
「自分の成績を親に認められるためには、あの男が邪魔だ」
と言って、成績優秀なロベスピエールを目の敵にしました。
「貧乏人がいい成績をとりやがって」と言われ
ロベスピエールは貴族の子からいじめられてしまうのでした。
このときからロベスピエールは
「金持ちは薄汚い連中ばかりだ」と思うようになり、
貴族を嫌い始めたのかもしれません。
保安委員会の設置
ロベスピエールは国内の統制を図るため、警察組織をつくりました
その名も「保安委員会」
徴兵に反対する人々は反革命分子として即逮捕されました。
革命裁判所の設置
保安委員会にとらわれた「反革命分子」は、裁判所に連行されます。
そしてロベスピエールの処断で、多くの人々がギロチンにかけられました。
その過程で、ジャコバン派の幹部 ダントンも処刑されてしまいます。
富裕層との間にワイロをやりとりしていたとの疑惑が浮上し、ダントンは捕まります。
先の項目でも述べましたが、ロベスピエールは金持ち連中が大嫌いですからね。
ダントンはギロチンにかけられ、処刑されます。
最後の言葉が印象的です。
「ロベスピエール、次はお前だ!」
「これほどの首はめったにないぞ!民衆にしっかりと見せてやれ!」
と言い残し、ギロチンの刃がダントンを切り裂きました。
名演説で民衆の心を動かした男のあっけない最期でした。
公安委員会の設置
「敵が攻めてきているというのに、足並みがそろわない」
そんな政界に嫌気がさし、
ロベスピエールは自身の独裁権の強化を図りました。
「自分がすべての指揮をとれば、ドリームチームだ」
そう考えたのです。
そしてロベスピエールは国民公会の内部に「公安委員会」を設置しました。
そして国民公会の持つ政治権力をほとんど、公安委員会に集中させました。
委員長はロベスピエール
93年の6月には、政界のライバル勢力 ジロンド派を追放し、
ロベスピエールの独裁は完成しました。
ここから先は選挙など関係なく、ロベスピエールの意のままに政治が運ばれるようになったのです。
ロベスピエールに反対意見を言ったらどうなるんですか?
A.もちろんギロチンです
この政治を「ロベスピエールの恐怖政治」と言います。
テルミドール9日のクーデタ
恐怖による支配は長く続きません。
ロベスピエールの独裁ぶりにブレーキをかけるため、
ロベスピエールの暗殺計画が進められていました。
計画の実行日は、「革命暦」という国民公会が定めたカレンダーで
「テルミドール(熱月) 9日」という夏の日でした。
国民公会の議場でロベスピエールが演説します。
「この中にひとり、裏切り者がいる。今日はそいつを処刑しようと思う。」
聴衆はざわめきます。
「まさか、消されるのは俺か?」
でも同時に聴衆たちはこう考えました
「ここで死ぬのは俺かもしれない。」
「でも、ここで奴(ロベスピエール)を殺せば、生き残れるかもしれない」
聴衆のひとりが叫びます
「ロベスピエールを倒せ!」
その言葉を合図に、聴衆たちが一斉にロベスピエールを襲います。
一人の男が撃った銃が、ロベスピエールのアゴに命中し、彼は気絶しました。
捕らわれたロベスピエールはギロチンにかけられます。
断頭台の前で「ロベスピエールくん、最後の言葉はあるかね?」
と尋ねられたが
アゴを撃たれていたので、うまく話せずに終わった。
こうしてジャコバン派率いる国民公会は完全に崩壊しました。
国民公会の内政
最高価格令 意味は? 出された背景は?
★背景:冷害や革命戦争によって田畑が踏み荒らされ、穀物生産が低迷
→物価(とくに穀物価格)が高騰し、庶民は食糧を買えなかった…
★対策:生活必需品の最高価格(上限価格)を定め、
市民が生活必需品を買い求めやすいようにした
つまり、「パンは100円以上で売ってはいけませんよー
必ず100円未満で売ってくださいねー」
という命令を出すってことです!
高くてモノが買えない市民の困りごとに答える形をとったってことですね。
封建地代の無償廃止
貴族の持つ土地を没収して、平民に無償で分配する政策
復習となりますが、貴族は大規模な土地を持っていました
その土地を小作人に貸し、地代収入(家賃・土地のレンタル料のこと)を得ていました
この地代のことを世界史では「封建地代」といいます。
「地代を無償で廃止する」ということはすなわち
「小作人たちを」「無料で」「地代の支払いから解放する」
という意味です。
「地代の支払いから解放する」というのはすなわち
「農民にマイホームとマイ農地を与えて、レンタルではないようにする」
ということを示しています。
封建地代の無償廃止 影響は?
結論から言うと、農民たちにマイホームを与えたことで、
「農民の保守化」を招きました
農民の保守化とは?
「農民たちが現状に満足してしまい、革命の進行が止まってしまった」
と言えば正しいでしょうか…
農民たちの気持ちはこうです
「もう俺たちは念願のマイホーム・マイ農地を手に入れた」
「これさえあれば、安心して暮らしを送れる」
「でもせっかく安心した暮らしを手に入れたんだから、死にたくないよね」
そういって、対仏大同盟との戦争に対して
農民たちは消極的な態度を示すようになったのです…
たとえば徴兵を拒否する人も出てきました。
さすがに自分の村が襲われたら戦いますが、
徴兵されて「遠く離れた国境地域を守れ」って言われても
「死にたくない」って気持ちが勝ってしまったのです。
こうして革命の足並みがそろわなくなっていった結果
ロベスピエールは恐怖で人を動かすしかなくなってしまうのです。
封建的特権の廃止との違いは?
国民議会の時代の「封建的特権の廃止」との違いは何ですか?
この質問も多く寄せられますので、お答えします。
★封建的特権の廃止
①貴族の特権 領主裁判権などを廃止する
②条件つきで、小作人は地代の支払いから解放される
→40年分の地代を支払い、領主から土地を買い取った場合(つまり有償)
★封建地代の無償廃止
条件なしで、農民たちに無償で土地を分配する
こうした違いがあります。
★国民議会の時代(封建的特権の廃止)
革命政府の権力の中枢に、ラ=ファイエットら貴族がいた
ラ=ファイエットたち貴族は、自分たちが不利になるような政策を行わなかった
→土地を無償で分配せず、買い取り方式にした
★国民公会の時代(封建地代の無償廃止)
貴族の多くは外国に亡命していた
権力の中枢も、貧民から支持を得たジャコバン派だった
→貴族に忖度せず、容赦なく土地を取り上げて、貧民に無償で分け与えた
こんな感じになります。
革命暦の制定と理性崇拝 なぜ? 意味は?
国民公会の時代には
ジャコバン派の※エベールを中心に※理性崇拝という考え方が流行しました
そして、従来のグレゴリウス暦が一時的に廃止され、新たに革命暦が制定されました。
※エベールと理性崇拝は超絶難関大を受けたい人だけ覚えておいてくれたらいいです(笑)
意味がよくわかりません。
ひとつひとつわかりやすく説明すると…
ざっくり言うと…
「霊的なものではなく、現実に存在するものだけを信じよう」
って考えのことです。
つまり、神様のような見えない存在を信じない!
キリスト教などの霊的な思想は信じない!
ってことでしょうか?
イメージでいうとそんなところです。
ジャコバン派のエベールたちはこう思っていました。
「あれだけ教会にお金をおさめたけど、神からの恩寵(救い)などあったか?」
「神など存在しないのではないか? だとしたら教会の権威は嘘だ!」
「奴らに十分の一税などおさめなくても、何も変わらない!」
「神などの見えないものにすがるのではなく、
ちゃんと理性をはたらかせて、目に見えるもの、肌で感じれるものを大切にしよう」
イメージだけで説明するとこんな感じです。
グレゴリウス暦ってたしか、教会が定めたカレンダーですよね。
ご名答
霊的なものを信じないようにしようという風潮の中で、
カトリック教会(霊的なものを信じる団体)が定めたカレンダーは邪魔でした。
そこで、教会が定めたものではない暦(カレンダー)を使用することにしたのです。
具体的に何がどう変わったのですか?
少し比較しますね。
★グレゴリウス暦
1月:January(扉の神 ヤヌスの月)
4月:March (戦と農耕の神 マルスの月)
7月:July (神格化された政治家 ユリウス=カエサルの月)
8月:August (神格化された政治家 アウグストゥスの月)
といったように、各月に古代ローマの神の名や
神格化された人物の名があてられています
★革命暦
7~8月:テルミドール(熱月) / 10~11月:ブリュメール(霧月)
など、肌で感じることができる、実在する気象現象などをもとに
月の名がつけられています。
他にも革命暦は1週間が10日制だったり、
1時間=100分だったりと、細かい違いがありました。
難しかったので軽くまとめます
理性崇拝という風潮の中で、
神や宗教などの霊的なものが否定された。
カトリック教会も霊的なものと見なされ、
教会が定めたグレゴリウス暦を廃止した。
そして、国民公会が定めた「革命暦」を新たに制定した
となります。お悩みは解決されたかな?
メートル法の制定 目的は?
メートル法は、地域によってバラバラだった度量衡の単位を統一するために制定されました。
提唱したのはウィーン会議のときに代表として出席するタレーランです。
彼は外交官だったので、グローバルな考えを持っていました。
「フランスだけでなく、ほかの国でも使えるような万国共通の単位をつくろう」
と言い出しっぺを切っていったのです。
総裁政府の時代
総裁政府の成立 政権の仕組みと「欠陥」
1795年 「1795年憲法」が制定されます。
新憲法によって、政治の意思決定の仕組みが一新されました。
あらたに総裁政府が設立され、議員は制限選挙で選ばれました。
政治的教養のない一般庶民に政治を任せると、
ジャコバン派のようなえげつない政権が支持される可能性がありましたから
今回は良識のある人々のみで選挙を行いました。
最終的に政権をとったのはジロンド派です。
立法議会以来なりをひそめていましたが、ここで復活しました。
・議員は制限選挙で決定
・政権の中枢となったのはジロンド派(ブルジョワジーが支持)
・二院制と5人の総裁による合議制をとる
(ロベスピエールのような独裁を防ぐため)
・意思決定がとにかく遅い
まず、5人の総裁が全員賛成しないと前に進まない
そして、それを二院制の議会で議論して、両院で可決されなければ前に進まない
「そんなにみんなの意見合います?」
「ほんとに政治が前に進みます?」
って感じで、のちにナポレオンから批判されて、粉砕されます(笑)
バブーフの陰謀
1796年 バブーフという人物が総裁政府の転覆を企てます
彼が唱えたのは、「平等社会をめざそう」という考え方でした
そのために、「私有財産制の撤廃」と「ブルジョワジーによる政府の転覆」を唱えました。
「私有財産制の撤廃」 めちゃくちゃ単純に説明すると…
①すべての財産や土地を個人から没収し、国のものとする
②国が全国民に、「均等に」財産を分け与える
という形をとると、みんな平等な社会がつくれます。
のちのマルクスが唱える「共産主義」に影響を与えました
もともと財産をたくさん持ってる人はどうなるんですか?
もちろん猛反対します。自分の財産を国から奪われるのはイヤですからね。
つまり、裕福なブルジョワジーは
バブーフの考えに反対するってわけですか!
ご名答。
総裁政府は富裕な市民(ブルジョワジー)からの選挙で議員が選ばれるため
政権もブルジョワジー寄りです
バブーフはブルジョワジーたちが築いた総裁政府を
「平等社会を邪魔する悪魔」ととらえ、政権の転覆を図りました
しかしこの動きは総裁政府に察知されていて、バブーフは潜伏先を突き止められて逮捕
政権転覆計画は失敗に終わりました。
このできごとを「バブーフの陰謀」と言います。
ナポレオンの台頭
ナポレオンとは?
コルシカ島出身の中小貴族(めっちゃ権威のある家柄ではない)
妻は7歳上のジョセフィーヌ
ナポレオンは甘えん坊で、
戦争からの帰還後にすぐさまジョセフィーヌに膝枕をしてもらうのでした。
余談ですが、彼の生い立ちについて述べます。
急いでいる人は飛ばしてください。
学生時代は軍の指揮官をめざして、士官学校に通っていました
得意科目は数学と歴史学
この得意科目があったからこそ
ナポレオンは良き軍人・良きリーダーとして君臨することができました
(最後は野望に溺れて失敗しますが)
★数学は「大砲の照準合わせ」に重要
大砲を標的に当てるためには、
標的までの距離・大砲の最適な角度・風の強さ
などを計算して撃つ必要があります。
ナポレオンはその計算速度が抜群に速く、そして正確でした。
さっそく砲兵として頭角を現し、トゥーロン港攻囲戦での勝利で名を上げました。
★歴史の知識は「カリスマ性を得るため」に重要
ナポレオンは古代の権力者の歴史を学び、
人を惹きつける振る舞い・言葉使いなどの技術を徹底的に学びました。
その結果、ナポレオンは最終的に政治家としてのカリスマ性を手に入れていきました。
イタリア遠征 標的はオーストリア なぜ?
司令官として名を上げていたナポレオンは、
対仏大同盟との戦闘に駆り出されました。
第1回対仏大同盟との戦闘は、1793年以来ずっと続いています。
フランス軍は同盟国の一角であるオーストリアを倒すため、
イタリア遠征を実行しました。
敵はオーストリアなのに、
イタリアに軍を進めたのはなぜですか?
フランス軍はオーストリアの首都ウィーンを
南北から挟み撃ちにする作戦に出ました
※白地図の出展 https://www.freemap.jp/
ナポレオンはそのうち、南軍の指揮を任されます
南軍の使命は、イタリアを通ってオーストリア首都ウィーンに攻め込むこと。
オーストリア軍は途中経路の北イタリアでナポレオン軍に応戦したため
イタリアを戦場にして、フランス軍とオーストリア軍が戦いました。
そのため、オーストリア遠征とは言わずに「イタリア遠征」と言います
結果はナポレオン軍の圧勝でした。
カンポフォルミオの和約と第1回対仏大同盟の解散
イタリア遠征ではフランス軍が圧勝しました。
ナポレオンの軍はイタリアを突き抜け、オーストリア首都ウィーンに迫ります
「このままでは首都を落とされてしまう…」
焦ったオーストリアはフランスに降伏
フランスとオーストリアの間では、講和条約としてカンポフォルミオの和約が結ばれました。
・オーストリアはフランスに降伏し、フランス革命を妨害しないこと
・オーストリアは対仏大同盟から離脱すること
約束どおりにオーストリアは対仏大同盟から離脱しました。
そして第1回対仏大同盟は崩壊しました。
オーストリアが抜けただけで、対仏大同盟は崩壊するんですか?
対仏大同盟がフランス革命政府と戦う大義名分がなくなります。
国際社会では、戦争をする際に「他国と戦う正当性」が問われます。
ちなみにオーストリアにはフランス革命政府を攻撃する正当性がありました。
オーストリアのハプスブルク家はルイ16世に嫁いだマリ=アントワネットの生家です。
フランス革命政府によって、マリ=アントワネットが殺されました。
そのかたき討ちとして、
オーストリアのハプスブルク家には、フランス政府と戦う理由があるのです。
それをお手伝いしようってことで、イギリスなどの他の国がサポートしているわけです。
でも、被害者のオーストリアが抜けてしまっては、もう戦う理由がありません。
対仏大同盟はこうして崩れ去っていきました。
なるほど!
エジプト遠征
フランス軍は1798年から長期間にわたり、エジプト遠征をおこないました。
目的は対仏大同盟を主導していたイギリスへの報復です
元はというと、イギリスのピット首相が言い出しっぺでしたからね。
そんなイギリスの経済に打撃を与えることがエジプト遠征の目的です。
エジプトはイギリスにとって
どんなポジションなんですか?
※白地図の出展 https://www.freemap.jp/
当時のイギリスは産業革命の時期で、国内で綿織物を大量生産していました。
それを輸出して、イギリス経済が潤っていました。
でも原材料の綿花は高温多雨な地域でしか栽培できず、
インド・エジプト・カリブ海の西インド諸島からの輸入に頼っていました。
中でも当時のイギリスは、インド産綿花の輸入がメインでした。
インドから綿花を最短ルートで輸入するためには、エジプトを通ります。
インドからエジプトに綿花を運び、陸路でエジプトの地中海側の海岸まで運びます。
そして地中海を通って、船でイギリスまで運ぶ という輸送ルートをとっていました。
※当時はスエズ運河がまだ開通していません。
そうすると、アフリカ大陸をグルッと回らずに済み、
インドからイギリスまで最短ルートで綿花を運べます
さて、そんなエジプトをフランスが占領すればどうなりますか?
イギリスは綿花を輸入できなくなります!
もちろん綿織物工場もストップしますね!
そういうことです。
イギリス経済を崩壊させれば、
フランスとの戦いにお金をかけられなくなります。
フランス軍の狙いはそこでした。
もちろんイギリスは困りますから、本気で抵抗します。
そしてイギリス軍の凄腕海軍提督 ネルソンを派遣しました。
ネルソンはアブギール湾の戦いで捨て身の特攻に成功
フランス海軍は大敗し、イギリス軍が優勢に進みました。
ナポレオンは必至で応戦しましたが、
ナポレオンがエジプトで戦っている途中に…
フランス本国を激震させる事件が発生しました。
第2回対仏大同盟の結成
イギリス首相ピットが、ヨーロッパ諸国に第2回対仏大同盟の結成を呼びかけたのです。
なぜこのタイミングなんですか?
フランス本国が手薄だからです。
ピットはこれを、フランス革命政府を打倒するチャンスととらえました。
確かに、天才司令官ナポレオンはエジプトにくぎづけ状態
フランス本国を落とすなら今がチャンスですね!
対仏大同盟の軍は一挙してフランスに押し寄せ、首都パリをめざしていきました。
フランス本国の総裁政府はあわてふためきました。
ブリュメール18日のクーデタ
総裁政府で会議が開かれます。
「敵が攻めてきた。さすがに和平交渉に入るか?」
「それとも全国民を挙げて戦うか?」
しかしここで総裁政府の悪い部分がはたらきます。
覚えていますか?
意思決定が壊滅的に遅い(笑)
総裁政府で意思決定をするには、
5人の総裁による賛成と、二院制議会の両院での賛成が必要です。
この緊急事態に対してすべての政治家の意見がまとまるはずはなく、意思決定が遅れました。
その間にも対仏大同盟の軍は容赦なく迫ってきます。(ピンチ!)
窮地に立つフランス
エジプトにいて何もできないナポレオンは、
もどかしい気持ちでこう言います
「フランスに帰るぞ」
ナポレオンはエジプトでの作戦を放棄し、フランス本国に戻りました。
帰国後、ナポレオンは総裁政府のメンバーを一喝します。
「貴様らが何も決められないのであれば、私が全責任をもってフランスを守る!」
ナポレオンは頼りない総裁政府にクーデタを起こし、政権を自分の手におさめようとしました。
ナポレオンの強い言葉に、周囲の政治家たちは感激しました。
「フランスを守るには、この男に頼るしかない」
結果的にナポレオンのクーデタは成功し、総裁政府からナポレオンに実権がうつりました。
ナポレオンのこの一世一代のクーデタを、
「ブリュメール18日のクーデタ」と言います。
結果として総裁政府は崩壊し、ナポレオンによって統領政府が新設されました。
名前が似ているのでお間違いなく。
統領政府の時代
統領政府の成立
★成立の背景:ブリュメール18日のクーデタでナポレオンが総裁政府を打倒
→あらたに統領政府を成立させた
★特徴:3人の統領が権力を握る(とはいえ、第一統領のナポレオンに権力が集中)
第2回対仏大同盟の脅威に対して、総裁政府は無策であった。
そんな総裁政府に対して不満が募る中、あの男が動きます。
ナポレオンがブリュメール18日のクーデタで総裁政府を打倒
1799年にナポレオンを第一統領とする「統領政府」を樹立しました。
※総裁政府のグダグダ具合については、前回記事を参照
第一ってことは第二もあるんですか?
第三統領までありますが、あまり覚えなくても大丈夫です。
緊急時に意思決定が遅くなるのをふせぐため、実権の多くは第一統領に集中しています。
表舞台に出てくるのは、第一統領のナポレオンだけです!
※ちなみに第二統領はシェイエスです
『第三身分とは何か?』というパンフレットを発刊したことでおなじみですね。
ナポレオンの政策目標
「フランス国民に安心感を与えること」
「フランスを繁栄させること」
ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート)を締結
★背景:フランス革命発生以降、ローマ教皇と断交状態が続いていた
★目的:ローマ教皇と和解し、熱心なカトリック信者が多いフランス国民を安心させたい
★結果:ローマ教皇との和解に成功
→ただし、フランス政府は革命時に奪った教会財産は返還しない
フランス革命中には特権階級の聖職者への怒りが爆発
革命政府は「教会財産の没収」を宣言し、
フランス国内のカトリック教会から、財産を没収しました。
これに対抗する形で、
カトリック教会の総本山 ローマ教皇庁はブチギレ
フランス国民を破門しました。
※補足:中世の時代ほど深刻にはとらえられてはいませんが、
破門処分を受けた人は「人の形をした豚」と言われて蔑まれた時代もあったので
熱心なキリスト教徒からすると、破門処分は不安です。
そこでナポレオンはローマ教皇庁と和解し、フランス国民を安心させようとしました。
結果として和解に成功しました。
革命中に没収した教会財産はどこにいったかわからないので、
返還のしようがありません。
ですから、革命中に奪った教会財産は、カトリック教会には返還されませんでした。
上位の私大になるとここまで聞いてくるケースもあるので、
いちおう頭の片隅にはおいておいてください。
フランス銀行の樹立
フランスで産業革命を成功させるために、金融システムの構築を行おうとした
こちらはフランスの繁栄を願った政策です。
当時のヨーロッパで最強の国はイギリスでした。
イギリスの強さの秘密は「産業革命」でした。
イギリスは綿織物の製造を機械で行い、質の高い綿織物を大量生産できます。
つくった綿織物を輸出してボロ儲け そりゃ強いわ。
ナポレオンはフランスでも産業革命を起こし、
イギリスに追いつくことに必死になりました。
そのために必要だったのが、「金融システム」です
産業革命を起こすために必要な要素は何ですか?
工場を建てる
機械をつくる(買う)
原材料の綿花を調達する
従業員を雇う
いろいろですね…
お金ですね!
でも大金がかかりそう…
そういうことです。
新しく工場を建てて、製造機械などを用意するためには
お金が必要です。
「工場を建てたいけど、お金がない」
という人もたくさんいて、その場合はお金を借りなければなりません。
お金を借りるときには銀行を頼ります。
銀行はお金が足りない人にお「金」を「融」通するという意味で、
銀行は「金融」と呼ばれます。
でも、銀行の持っているお金の量にも限りがあります。
たとえば100人の社長に1億円ずつ貸そうと思ったら、
手元に100億円がいりますよね?
「社長たちにめっちゃお金を貸したいけど、手元にお金がないんだよね…」
って悩んでいる銀行が多かったのです。
そこでナポレオンが動きます。
「銀行の銀行をつくるぞ!」
そして、通貨発行権を持つ中央銀行として「フランス銀行」をつくりました。
銀行の銀行って何でしょうか…
銀行もお金が足りないときは、お金を誰かから借りることができます。
銀行にお金を貸すことができる「特大銀行」みたいなポジションとして、
フランス銀行をつくりました。
図式化するとこんな感じです。
※写真提供 いらすとや イラストAC
フランス銀行は通貨発行権を持っていますから、
「インフレを引き起こさない程度に」という条件つきですが
まんいち紙幣が足りないときには、印刷することができます。
そして、一般の銀行に対してお金を貸し出す役割を担いました!
長くなりましたがこんな感じです
なるほど!
イギリスとアミアンの和約を締結(第2回対仏大同盟と和解)
★背景:1792年以降10年間、フランスは戦争状態が続いていた
→フランス国民は疲弊し、戦争の終結を望んでいた
★目的:対仏大同盟との戦争を終わらせ、フランスを平和にする
★結果:イギリスとの和解に成功 イギリスは第2回対仏大同盟を解散した
ざっとまとめるとこんな感じです。
1789年のフランス革命
そのあと国内がカオスな状態になり、オーストリアと戦争
ルイ16世の処刑後は対仏大同盟との戦争がずっと続いている…
フランス国民からすると、どこにも心の平穏がありません。
ナポレオンは内政の安定を求め、対仏大同盟との停戦交渉に入りました。
イギリスはこの停戦交渉に応じ、フランスとの戦争を終結させました。
フランス国民は大喜びし、平和の実現の功績から、
ナポレオンは「終身統領」に就任しました
ナポレオンさん!
死ぬまで統領をやってくれ!
ってことですね!
そうです。なんか見たことありませんか?
古代ローマのユリウス=カエサルです
彼も国民にエサをばらまき、絶大な人気を得たあと、
終身独裁官(ディクタトル)に就任しましたね。
ナポレオンは歴史が得意科目でしたから、歴史上の偉人について学び
権力を掌握する方法も心得ていたということです。
ナポレオン法典(フランス民法典)の編纂
1804年になると、ナポレオンがナポレオン法典を編纂し、発令
フランス国民の権利について明記しました。
★背景:終身統領への就任にともない、ナポレオンの独裁が懸念されていた
★目的:ナポレオンが市民に寄り添った政治家であることをアピールしたい
★内容
①革命を通じて得た「自由」「法の下の平等」を保証した
※ただし、男女平等は認められていない。
②財産権の不可侵を明記し、フランス人権宣言の内容を再確認した
フランス国民の反応はいかに?
フランス国民は権利を保証してくれたナポレオンの寛大さに感激し、
ナポレオンを大いに信頼しました。
ナポレオンは国民の心をつかむのがお上手でした。
1805年 ナポレオンの皇帝即位
★背景:諸政策で国民に安心を与え、ナポレオンは絶大な人気を獲得
★結果:国民投票を実施し、ナポレオンの皇帝即位に賛成多数
→ナポレオンは皇帝即位に成功した
ナポレオンはある日、言いました
「もし国民が望むのであれば、終身の皇帝になってもよいが」
「皆が望まないのであれば、私は統領のままでいる」
言い方がうまいですね(笑)
そして国民投票を行いました。
結果はドキドキでしたが、賛成が過半数を占めました。
なぜフランスには皇帝が必要だったのでしょうか?
革命によるカオスな社会と、対外戦争の危機に面して
国民は不安だったからでしょうね。
不安なときこそ、強いリーダーがいてくれた方が安心できます。
そんな群集心理が働いたのでしょう。
ナポレオンの皇帝即位によって、フランスの政治制度は変化
「統領政府」は意味をなさなくなり、解散
ここからナポレオンによる帝政期「第一帝政」が始まります!
今回はここまで!
この続き、ナポレオンの第一帝政期に関しては別記事に記しました
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