アヘン戦争とアロー戦争 背景や原因、経緯や結果を簡単にわかりやすく解説

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てっちり

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単元解説 清の歴史

この記事からわかること

1840年 アヘン戦争と南京条約

1856年 アロー戦争と天津・北京条約

の背景・経緯・結果・その後の影響などをわかりやすく解説します

 

この記事からわかること

①アヘン戦争の背景

②アヘン戦争の経緯

③南京条約の内容解説

④アロー戦争の背景 なぜまた戦争?

⑤天津条約・北京条約の内容解説

⑥なぜ講和条約が2つある?

 

といった学習上の疑問に答えます

 

「しっかり理解度を深めていきたい」

という人に向けて記事を書きました

 

アヘン戦争の原因・背景

アヘン戦争の原因・背景を

段階的に解説するとしたら、

以下のようになります

アヘン戦争発生までの流れ

①イギリスの対清貿易赤字片貿易

 

②貿易交渉の失敗

口での交渉が通じないから、

裏技と暴力で解決しようってなった(笑)

 

③貿易赤字解消のため、イギリスがアヘンの輸出を開始(三角貿易

 

④清国内で薬物中毒者の多発銀の高騰などの問題が発生

 

清がアヘンの輸入を取り締まり、イギリスが激怒

→両国は戦争状態となった

 

 

という感じです

それぞれの項目を詳しく見ていきましょう

 

イギリスの対清貿易赤字

イギリスは当時、

清から茶や陶磁器を輸入し、

銀を輸出していました

 

当時のイギリスでは労働者の眠気覚ましとして、

茶が親しまれていました

ティーカップとして中国製の陶磁器が利用されていたので、

陶磁器にも需要がありました

 

しかし、イギリスが一方的にお金(銀)を払うばかりで、

他のイギリス製品が売れなかったので、

片側一方通行の貿易という意味をこめて、

片貿易と呼びました

イギリスには目玉商品の綿織物があるはず

なぜ売れなかったのですか?

いいポイントに気付きましたね

 

確かに18~19世紀のイギリスは産業革命を経て、

綿織物の大量生産が可能になりました

 

イギリスは綿織物の輸出市場として、

人口4億人の清に目をつけていました。

 

しかし、当時の清は海禁(いわゆる「鎖国」)を実施しており、

清の政府が認めた特権商人(公行)が貿易を管理し、

対外貿易が可能な港は広州に限定されていました

 

そのため、イギリスは綿織物を自由に売ることができなかったのです

 

他にも清国内にイギリスの綿織物が売れない原因がありました。

ニーズの違いです。

 

イギリスは薄手の綿織物を製造していたのですが、

清国内では厚手の丈夫な綿織物が好まれました

 

農作業は重労働です

農作業の際に破れてしまわないような頑丈な服を好んだのです

 

さらに清の農民たちは農閑期(冬)の仕事として、

綿織物を自作していたのです

 

こうして、清では輸入に頼らない

自給自足の生活が成り立っていたのです

 

だから、イギリスからの綿織物の輸入が自由化されたところで

イギリスの綿織物はどうせ売れないのです。

 

イギリスはこうした点に気付かないまま、

清に対して自由貿易を強要し、

挙句の果てに2度の戦争を繰り返すことになります

 

貿易交渉の失敗

イギリスは貿易赤字の原因を

清の海禁政策にあると考えました

 

先ほども述べましたが、

当時の清の貿易港は広州のみに限定されており、

広州の特権商人(公行)が貿易を管理していました

 

イギリスは清との貿易に関して

つけいる隙がありません。

 

そこで清の皇帝に交渉をしようと考えました

18世紀末から19世紀初めにかけて、

2度の交渉が行われました

 

まず1回目の交渉です

18世紀末 マカートニー乾隆帝との交渉に臨みました

「皇帝陛下、イギリスの綿織物をもっと自由に売らせてくれませんか」

とマカートニーが問いました

 

しかし乾隆帝は

「清は豊かな国であり、外国からの輸入はそもそも必要ない」

「もう満ち足りているのだから、わざわざ買う必要がないだろう?」

といって、マカートニーを一蹴しました

ごもっともですね(笑)

結局マカートニーは成果なく帰国しました

 

19世紀になると、2度目の交渉が行われました

清の皇帝は嘉慶帝にかわり、

アマースト嘉慶帝との交渉にのぞみました

 

アマーストが皇帝への謁見を求めたところ

皇帝の側近からこう言われます

三跪九叩頭をしなければ、皇帝陛下には会わせてやらない」

 

三跪九叩頭とは?

ひざまずいて3回土下座

これを3セット繰り返す儀礼です

清の皇帝への忠誠心を示す儀礼なんです

 

しかしアマーストはこれを断りました

私はイギリス国王に忠誠を誓っている

いかに清の皇帝と言えども、頭を下げることはできない

と言ってね

 

結果的に、

アマーストは嘉慶帝に会うことすらできずに帰国したのです

ひどいですね…

この事態を通じてイギリスは

清との外交や貿易についての課題と解決策を2つ見据えました

イギリスの課題

①交渉では清との自由貿易の実現は難しい

→狡猾な手段(アヘンを売ること)と暴力で解決するしかない

 

②清は外交文化が違い、異国を見下している

→力づくで対等外交を認めさせる必要がある

 

こうした課題を解決するための戦争が、

アヘン戦争とアロー戦争だったのです。

 

本題からはそれますが、

「②清は外交文化が違い、異国を見下している」について補足です

 

イギリスなどヨーロッパ諸国は

国際法で外交について定めており、

すべての主権国家は対等な関係

という原則で外交関係をとらえています

 

一方で清は、

外国使節に三跪九叩頭をさせるといったように

アジアの覇者としての「上から目線外交」をしていました

 

でもこれはアジア文化圏では

代々続いてきた当たり前の外交関係であって、

清に悪気はありません。

ヨーロッパとアジアでは外交文化が全く違ったのです。

 

そんなアジアに

イギリスはヨーロッパ式の「対等外交」を

持ち込もうとしたのでした。

 

イギリス アヘンの輸出を開始(三角貿易)

イギリスは狡猾な手段で貿易赤字の解消を試みました

「薬物(アヘン)を売ろう」

「そして清に流出した銀を回収しよう」

 

こうして行われたのが三角貿易でした

三角貿易のポイントを示します

三角貿易

①イギリスは清から茶や陶磁器を輸入

②イギリスはで代金を支払う

③イギリスはインド(植民地)産のアヘンを清に輸出

④清はアヘンの代金をで支払う

⑤イギリスは綿織物をインド(植民地)に輸出

⑥インド(植民地)は綿織物の代金をで支払う

 

このような銀の循環をつくることで、

銀をイギリスの手元に取り戻そうとしたのでした

 

いちいちインドが絡んでくるのは、

アヘンの原材料であるケシの実はイギリスでは栽培できず、

インドでつくってインドから売るしかなかったためです

 

しかし、このアヘンの売買が

清の社会を変えてしまうのです。

 

清の社会問題 薬物中毒の増加と銀の高騰

アヘンは違法薬物です

快楽成分があり、依存性も高い

清の人々はアヘンに侵されていきました

 

アヘンが危険なのはわかりました

でも公行がアヘンの輸入を止めればいいのでは?

 

公行もアヘンを吸って、中毒になったんです(笑)

アヘンを取り締まってしまうと、

アヘンを吸えなくて禁断症状が出てしまいますからね

いくら公行といえど、

欲には勝てませんでした

 

あと、八旗緑営(清の正規軍)もアヘン中毒者が続出

清の軍規も乱れていたのです

だから清の正規軍は弱体化し、

農民反乱を止めることすらできませんでした

末期ですね

 

さらに清の経済への打撃がありました

銀の高騰です

アヘンを輸入する前は、

イギリスから銀が大量に流入していたため

清の国内には銀があふれていました

 

銀はそれほどレアではなかったため、

銀の価格は低かったのです

 

でも、アヘンを輸入し始めてから状況が変わります

アヘンの購入のために銀が外国に流出してしまいます

 

清の国内では銀が足りなくなり、

銀がレアな存在になります

そして銀の価格が高くなったのです

銀が高くなったら、誰が困るんですか?

いちばん困るのは農民です

当時の清では「地丁銀制」が施行されていて

農民たちは税を銀でおさめていました

 

まず農作物を銀に交換して、

その銀を役所におさめる

 

といった手順で納税が完了します

 

しかし銀が高くなったらどうでしょうか?

納税に必要な銀を得るために

農作物をいっぱい

売らなきゃいけなくなりますね…

そういうことなんです

農民たちにとって

銀の高騰は事実上の納税に等しかったのです。

 

税を払えなくなった農民たちの間では

貢租不払い運動」が多発しました

 

中には宗教にすがり、

白蓮教団に入信し、

教団の主導で白蓮教徒の乱を起こす農民も現れました

 

この反乱を鎮めようにも、

清の正規軍(八旗・緑営)はアヘン中毒で役に立ちません(笑)

清の混乱はすさまじかったのです

 

こうした社会情勢ゆえに、

海外逃亡する農民や、

海外への出稼ぎにいく農民も増えました

※清では許可のない海外渡航は禁止されているので、違法出国ですが

 

清によるアヘンの取り締まり

アヘンの流入と銀の流出により、

社会が大混乱におちいっている中、

清の政府が動きます

 

清の皇帝 道光帝林則徐

アヘン取り締まりの欽差大臣に任命し、

広州でのアヘンの没収に乗り出しました

 

欽差大臣って何ですか?

皇帝の命令で臨機応変に設けられる、

臨時の大臣職です

今回はアヘンの流通防止が緊急課題とされ、

アヘンを取り締まる臨時の大臣職が設けられたのです

 

林則徐はその役に適していました

林則徐は弟をアヘン中毒で亡くしています

だから林則徐は精力的にとりくみました

 

そして林則徐は1840年

広州に渡来したイギリス船からアヘンを没収し、処分しました

 

アヘン戦争とその影響

アヘン戦争とは(簡潔に)

アヘン戦争のポイントとなる語句をまとめます

アヘン戦争

★背景

道光帝が派遣した欽差大臣 林則徐によるアヘン没収

→これを口実に1840年 イギリスが出兵した

 

★経緯

林則徐や「平英団」という義勇軍が活躍

→しかしイギリス軍の物量に破れ、清軍は敗退

 

★結果

清は敗戦し、1842年南京条約で講和した

 

戦いの経緯

林則徐によるアヘン没収を口実に

イギリスは清と戦争を開始しました

 

1840年 アヘン戦争の勃発です

 

緒戦は地の利を生かした戦術で

清の優勢で進みます

 

特にめざましい働きをしたのは林則徐でした

 

イギリス軍は野営地として、

水を入手しやすい川の近くに陣取りました

 

そんなイギリス軍に対し、

林則徐は川の上流に陣取ります

そして上流から毒物を流し、

下流のイギリス軍を混乱させました

 

ほかにも「平英団」という義勇軍も参戦し、

イギリスの進撃から国を守りました

 

しかし、正規軍(八旗・緑営)はアヘンに侵されて弱く

非戦闘員の市民たちは高みの見物というありさまでした

次第に清軍は負け始めます

 

戦いが劣勢となるやいなや、

清の政府上層部は保身に走ります

 

そして負け戦を挑んだ責任を林則徐に押し付けたのです

「林則徐がアヘンを没収したから、イギリスは怒ったのだ」と

 

林則徐は解任され、

屈辱の日々を送ります

 

すこし余談に入ります

 

しかし政治の舞台を退いてなお、

林則徐は欧米列強から国を守るために働きました

 

林則徐は

イギリス軍の捕虜から聞き出した情報や、

イギリス軍の弱点などをまとめ、

弟子の魏源に託しました。

 

魏源はのちにその情報を「海国図志」に記し

欧米の近代軍の仕組みと弱点を記しました。

 

この「海国図志」は日本語に翻訳され、

日本の幕末の志士たちに影響を与えます

 

そして日本は欧米列強の危機を察知し、

明治維新を通じて欧米に追い付け・追い越せと言わんばかりに努力をしたのです

 

本題に戻ります。

林則徐平英団の抵抗むなしく、

アヘン戦争の結果は清の敗戦に終わりました。

 

1842年 南京条約

まずはポイントから

南京条約

①清は香港(香港島)をイギリスに割譲する

②清はイギリスに上海・寧波(にんぽー)・福州

・厦門(あもい)・広州5港を開港する

③清は公行を廃止する

上海租界(イギリスの租借地)を設置する

 

まず、香港がイギリスに割譲され

イギリスは香港を中国進出の拠点としました

 

そして貿易港を5港に増やし、

今後の清との貿易を拡大させます

 

広州に置かれていた特権商人(公行)は廃止され、

イギリスは清の一般人と

自由に貿易をできるようになりました

 

最後に上海です

租界を設置した」というのが少しややこしいのですが、

上海の町中の一角をイギリスが借りた

というイメージを持ってもらえるといいです

 

上海の租界にはイギリス人が自由に出入りできて、

イギリス人が我が物面で歩くことになりました

 

そんな状況の上海に、

日本から留学生が訪れたことがあります

高杉晋作です

高杉は上海を我が物面で歩くイギリス人を見て

「放っておけば、日本もこうなる…」

と嘆いたと言います

 

そして高杉は帰国後、

日本の国力強化をめざして立ち上がるのです

 

1843年 五港通商章程・虎門寨追加条約

イギリスは南京条約締結後、

議会で話し合って

清に対する追加条項を設定しました

そして清がこれを認め、五港通商章程と虎門寨追加条約が締結されました

五港通商章程

①清は開港した5港で、イギリス人への領事裁判権(治外法権)を認める

②清はイギリスとの貿易の際の関税自主権を放棄する

 

虎門寨追加条約

清はイギリスに片務的最恵国待遇を与える

 

これはよくある不平等条約の流れですね。

 

領事裁判権を認めれば、

清国内にいるイギリス人が犯罪を犯しても

清の法律で逮捕して裁判を行うことができません

 

そして関税自主権を失えば、

イギリスとの貿易の際に、

イギリス製品に関税をかけることができません。

 

片務的最恵国待遇」は

どういう意味でしょうか?

片務的最恵国待遇とは、

イギリスをもっとも優遇しますよ

という意味なんですが、

具体例を示すとわかりやすいです

 

すごい極端な例ですが

たとえば清がアメリカと国交を結んだとします

そしてアメリカと条約を締結し、

「清はアメリカに対して、年間1億円の礼金を払う」

という約束をしたとしましょう

 

でも「清はイギリスを最も優遇する」と定めていますから、

アメリカに認めた待遇をイギリスにも与えなければいけなくなります

そして自動的に

「清はイギリスに対して、年間1億円の礼金を払う」

という約束を清と結ばなければならなくなります

 

なるほど

バレンタインデーにたとえると

イギリスは本命の男の子だから

男友達に義理チョコをあげたんだったら、

本命のイギリスにもチョコあるよね?

的な感じですね

バレンタインデーにたとえると

そんな感じですね(笑)

 

1844年 望厦条約・黄埔条約

「清がイギリスに屈した」というニュースは

ほかの国にも響き渡ります

 

そしてにおいを嗅ぎつけたハイエナのように

アメリカとフランスが清と不平等条約を締結しにきました

 

アメリカとは望厦条約

フランスとは黄埔条約を結びました

 

内容は5港の開港と、

関税自主権領事裁判権などを認めるといったものでした

 

用語解説はイギリスのところでしたので割愛します

 

アロー戦争

アロー戦争とは?(簡潔に)

アロー戦争

★背景

イギリスは貿易による利益拡大のため、開港場を増やそうとかんがえた

アロー号事件を口実に清に出兵した

→フランスもフランス人宣教師殺害事件を口実に、清に出兵した

 

★経緯

清軍政府との交渉で1858年 天津条約で講和

→清の軍人が敗戦を認めず、戦争は継続

→1860年に戦争は終結し、ロシアの仲介北京条約で講和

 

アロー戦争の背景

アロー戦争の背景は、

アヘン戦争によって5港を開港させてもなお、

イギリスの輸出利益が伸び悩んでいたことです

 

これではアヘン戦争に投入した軍事費を回収できません

 

焦ったイギリスは、

さらに多くの港を開かせようとしました

港を開いても売れないのはどうしてですか?

冒頭でも述べましたが、

清の民のニーズの違いです。

 

イギリスは薄手の綿織物を製造していたのですが、

清国内では厚手の丈夫な綿織物が好まれました

 

農作業は重労働です

清の農民たちは

農作業の際に破れてしまわないような頑丈な服を好んだのです

 

さらに清の農民たちは農閑期(冬)の仕事として、

綿織物を自作していたのです

 

こうして、清では輸入に頼らない

自給自足の生活が成り立っていたのです

 

だから、イギリスからの綿織物の輸入が自由化されたところで

イギリスの綿織物はどうせ売れないのです。

なるほど

イギリスは

イギリス製品が売れない原因の本質を理解しておらず、

力ずくでもっと多くの港を開かせれば

貿易による利益が増えると考えたのです

 

アロー号事件とフランス人宣教師殺害事件

アロー戦争はアロー号事件を口実として始まりました

 

まず清の海賊が警察に拿捕されました

 

その海賊は護身用にイギリス国旗を掲げていたのですが、

さすがに怪しい動きをしていたのを見抜かれ

清の警察は国旗を降ろさせて

海賊船を拿捕したのです

 

イギリス船のふりをした海賊ですから

拿捕して正解です

清の警察は正しい判断をしました

 

しかし、イギリスが因縁をつけます

「海賊船を拿捕する際に、清の警察はイギリス国旗をおとしめた」

チンピラの言いがかりみたいな感じですね(笑)

これで清とイギリスは戦争状態となります

 

この動きを嗅ぎつけたのがフランスです

フランスも清から利権をすするため、

戦争の口実を探して因縁をつけます

 

ちょうど中国南部でフランス人宣教師が殺害され、

晒し首にされる事件が発生しました

これを口実にフランスもアロー戦争に参戦したのでした

 

1858年 天津条約 と 1860年 北京条約

清は早急に敗北を悟り、

和平交渉を行います

 

そして1858年に天津条約を結び、

一時的に講和するのですが…

 

清の軍人が敗北を認めず、

イギリス船に発砲してしまったのです

 

そして戦闘は再開され、

2年後の1860年 ロシアの仲介北京条約が結ばれました

 

内容をまとめます

天津条約と北京条約は

開港する港の数が違うだけで、

それ以外はほとんど同じです!

 

天津条約・北京条約

★開港(天津条約と北京条約で異なる)

天津条約:清は新たに10港を開港する

北京条約:清は天津を開港する

→2つの条約で11港が開かれた

 

★その他(両条約共通)

①清は諸外国との対等外交を認め、外国公使を北京に駐在させる

②清は総理各国事務衙門(がもん)を設置し、外交官を接待する

③清はキリスト教布教の自由を認める

④清は九竜半島南部(香港島の対岸)をイギリスに割譲する

⑤清朝は海禁(鎖国)を撤廃する

→この流れで清は中国人の海外渡航を認めた

→中国人はアメリカ・オーストラリア・マレーシアなどに出稼ぎ労働に

 

この条約でイギリスは中国での勢力圏をさらに拡大しました

香港の対岸 九龍半島の北部を得たのです

 

ほかの条項については、ひとつずつ説明しますね

 

開港された港について

南京条約で開港した港とどう違うんですか?

南京条約でひらかれた港は

沿海部のみです

 

対して天津・北京条約で開かれた港は

長江流域の「河川につくられた港」も含まれます

 

大河川沿いの港にも貿易船が入れるということは

中国の内陸部にも輸出できるということです

 

そうした意味で、

イギリスとフランスは貿易による利益拡大を期待したのです

 

外交について

次に外交についてです

清は欧米諸国との対等外交を認めました

北京への外国公使の駐在も認め、

外交官を通じて

いつでも清の政府と欧米の政府が連絡できます

そして外交官を接待する場として、

総理各国事務衙門(がもん)が設けられました

 

対等外交」ですから、

清の皇帝に会う際にも

アマーストが求められたような三跪九叩頭は必要ありません

 

キリスト教布教について

キリスト教の宣教師が

中国の儒教的儀礼に従わないことが問題視され、(典礼問題

清ではキリスト教の布教が禁止されていました

 

このたび戦争に負けた清は

強気な外交姿勢をとることができず、

キリスト教布教の自由を欧米諸国に認めたのです

 

海禁の撤廃

清が行ってきた海禁政策とは

日本でいう鎖国のようなものです

内容は以下の通りです

 

海禁

①貿易港を広州に限定し、政府公認の商人(公行)のみが貿易を行う

→アヘン戦争後に廃止された

 

許可なき海外渡航の禁止

→アロー戦争後に撤廃

 

②の規定が消え去ったことで

海禁は完全に撤廃されました

中国人が海外渡航できると、

イギリスにとってメリットがあるんですか?

植民地での労働力が手に入ります

 

イギリスは当時

マレーシア・インド・オーストラリア・ニュージーランドなどに

植民地を展開していました

 

特にマレーシアでは錫鉱山やゴムのプランテーションが盛んでした

熱帯の暑い地域では過酷な労働が待っています

 

そこで働く安い労働力を雇いたいのですが、

イギリスでは奴隷制を禁止しているので、

黒人奴隷を連行して使うことはできません

 

そんなイギリスにとって、

中国からの出稼ぎ労働者がいたら

非常に助かるのでした

 

その結果、

マレー半島に多くの中国系の人々が住むようになり、

戦後には中国系の人々がシンガポールとして独立することになります

 

中国人の海外渡航が認められた影響はほかにもあります

中国系移民はアメリカで大陸横断鉄道の建設にかかわったり、

 

オーストラリアのゴールドラッシュに参戦したりもしました

オーストラリアには中国系住民が多く住むようになり、

現地の人々との文化的対立が生まれるようになります

 

こうした軋轢を避けるため、

オーストラリアでは1901年に白人以外の移民を禁止する

白豪主義」政策がとられました

 

アヘン戦争とアロー戦争の結末は

世界各地の政治や文化に影響を与えたのです

 

【質問】ロシアが北京条約の仲介をしたのはなぜ?

ロシアは仲介の報酬目当てで、

北京条約を仲介しました

「戦争を止めてやったんだから、ご褒美あるよね?」

と清に迫ったのです

 

そしてロシアは1860年に北京条約を結びました

条約名が同じなので注意してください

 

この条約でロシアは清から沿海州(ウスリー川以東)を得ました

そして沿海州に軍港ウラジオストクを建設するのです

 

このように、

ロシアは最初から報酬目当てで

アロー戦争の仲介をしたのです

 

 

 

 

 

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