文化大革命の背景・経緯・結果 世界史教師がわかりやすく解説

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てっちり

元 高校世界史教師

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この記事から得られること

・文化大革命とは?(簡潔に)

・文化大革命の背景

・文化大革命の経緯

・文化大革命の結末

 

具体的にこんな人におすすめです

中国の現代史について学んでいます

 

なかでも毛沢東が主導した文化大革命について、

できごとのポイント

できごとの背景や経緯

どのような結末でおわったのかを

詳しく知りたいです

とお悩みの学生・社会人の方

 

記事の信ぴょう性

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現在は誰でも世界史を楽しく、

わかりやすく学べるように、

ネットで歴史系コンテンツを配信しています。

 

教室で数人に向けて授業をするよりも、

ネットの方がはるかに多くの人に情報を発信でき、

役に立つことができると思い、この道を選びました

 

このサイトでは、

世界史を学ぶうえでの

「わからない。」「なぜ?」に

お答えできるよう、情報を掲載しています。

 

てっちりとともに、学習をがんばりましょう!

 

文化大革命とは?(簡潔に)

文化大革命とは、

1960年代後半ごろから1970年代中盤にかけて

毛沢東が主導した、

社会主義への回帰運動のことを指します

 

毛沢東は1960年代の国家主席 劉少奇

その参謀 鄧小平を「走資派(実権派)」として批判し、

社会主義に熱烈な想いを抱く学生(紅衛兵)を率いて、

劉少奇・鄧小平らを捕らえました

 

結果として毛沢東が政権に復帰し、

毛沢東周恩来・国防大臣の林彪

江青(毛沢東の妻)ら四人組などが実権を握りました

 

毛沢東の権力回復後、

毛沢東が組織した学生集団(紅衛兵)は暴走してしまいました。

 

紅衛兵は中国全土で暴れまわり、

紅衛兵は企業の経営者や教師、寺院などを襲撃しました

これによって2000万人もの人々が死亡したと言われます。

 

結果として、

紅衛兵の暴走は大きな社会混乱を招き、

中国の経済発展を大きく遅らせる原因となったのです

 

さすがにみかねた毛沢東は、

中国人民解放軍を動員し、

暴走した紅衛兵を逮捕・投獄しました

 

紅衛兵は毛沢東の政権奪還のために利用され、

利用価値がなくなったあとは捕らわれてしまったのでした。

 

 

最終的には

毛沢東らが全員死亡または失脚したことで、

文化大革命は終わりを告げます

 

1971年 毛沢東との意見対立が原因で、

国防大臣 林彪が消されました(林彪事件

 

1976年には毛沢東周恩来の両名が死去

 

毛沢東の死後、江青(毛沢東の妻)ら四人組

中国政府の実権を握ろうとしましたが、

江青ら四人組は反対派から逮捕されて失脚

 

こうして文化大革命の指導者が

死亡または失脚したことで、文化大革命は幕を閉じました

 

簡潔に述べるとこんな感じです。

キーワードのみを並べたので、

不明な点もあると思います

 

ここから先は、わかりやすく詳しく説明していきます。

 

文化大革命の背景は「毛沢東の嫉妬心」から

文化大革命の発端は、

毛沢東が後継の国家主席 劉少奇に抱いた嫉妬心です。

 

流れをざっくり示すとこんな感じです

毛沢東が嫉妬するまで

1950年代 毛沢東が2度の五カ年計画で失敗

中国経済が崩壊し、毛沢東は政界を退いた

 

1960年代 劉少奇・鄧小平による「調整政策

→部分的に市場経済(資本主義)の原理を導入し、経済復興に成功

毛沢東が劉少奇・鄧小平に嫉妬

→毛沢東は劉少奇を殺害・さらに鄧小平を失脚させた

 

嫉妬にかられた男の行動は恐ろしいのです(笑)

 

ここまでの流れを詳しく説明していきます!

 

1958年 毛沢東 第2次五カ年計画(大躍進)に失敗

1949年 共産党は国民党との内戦に勝利し、

中華人民共和国の建国宣言をおこないました

 

1950年代 国家主席として毛沢東が手腕をふるいます

そして1953年・1958年の2回にわたり、

五カ年計画を始動しました

 

特に第2次五カ年計画(大躍進政策)が大失敗に終わり、

中国では4000万人の餓死者が出たと言われます

 

毛沢東が実施した第2次五カ年計画のポイントは以下のとおり

第2次五カ年計画

人民公社を設置し、農業を集団化

鉄鋼生産の増大計画

→農村の民間人に小型鉄鋼炉をプレゼント

③スズメの打倒運動(笑)

 

何が失敗だったのか、

詳しく説明します

 

①人民公社による農業の集団化(失敗)

毛沢東は

「農業は一人でやるより集団でやる方が能率がいい」

といって、農村の農民を組織しました

そして農民の共同体「人民公社」をつくりました

 

農民は人民公社の一員となり、

国有の農地を耕し、収穫までの面倒を見ます

 

収穫された小麦や米などは政府が預かり、

全員に平等に分配される形になりました

みんなが平等ないいシステムですね。

確かに「平等」というのは聞こえがいいですが、

実際にはうまくいきませんでした。

 

農民たちの労働意欲が著しく低下したのです。

なぜですか?

がんばってもがんばらなくても、

もらえる食料の量が同じだったからです。

 

学校のテストを例にします

100点満点の試験をしたとします

Aくんは100点をとりました

Bくんは50点

Cくんは0点だったとします

 

ここで先生が言います

「このクラスは平等なの」

「3人で合計150点とったから、3人平等に分けあいましょう」

「AくんもBくんもCくんも、50点ずつあげます」

 

元々100点とっていたAくんはどう思いますか?

勉強をがんばったのに、

0点のCくんと一緒ってのは…

 

「がんばってもがんばらなくても一緒じゃん」

ってなりますね。

0点のCくんはどう思いますか?

ノー勉だったけど、

他のやつがどうせ点とってくれるし

俺は今後もがんばらなくていいや

ラッキー!

ってなりますね

そのとおりです

 

普通なら、

がんばれば頑張るほど評価された方が、

テンションが上がるのですが、

 

全員で得た成果を平等に分けてしまうと、

がんばった人もがんばらなかった人も、

評価が平等になってしまいます

これでは誰もがんばりたくなくなるのです

 

実際に中国の農民もそうでした

農作業をがんばってもがんばらなくても、

自分がもらえる食料の量は変わらない

だからみんな

「どうせ誰かががんばってくれるから、俺はやらなくてもいいや」

となってしまい、

農民の労働意欲が低下したのです

 

②鉄鋼生産の増大計画(大失敗)

毛沢東は言いました

「米英の鉄鋼生産に追いつき、追い越せ」

「中国の強みは豊富な人口だ」

「一人ひとりにマイ鉄鋼炉を持たせ、全員が鉄鋼生産に貢献せよ」

 

と言って

毛沢東は農村に小さな鉄鋼炉を大量に配備しました

 

ここで問題が発生します

材料の鉄鉱石がない

鉄を鋳るための薪(石炭)がない

鉄つくれないじゃないですか

 

あるんですよ。鉄が。

え、どこに?

すでに使用されているバケツや農具です。

 

バケツや農具に使われている鉄を無理やり溶かして、

それを別の製品につくりかえたのでした

 

それって…

意味ないんじゃないですか?(笑)

はい、無意味です(笑)

 

国から与えられた小規模な鉄鋼炉では、

温度が十分に上がらないため、

使い物にならない屑鉄を量産することになりました(笑)

 

バケツや農具は溶かされて使うことができなくなるうえに、

完成した鉄はただの粗悪品です。

救いようがありません。

 

ははは…

「薪がない」という問題は

どう解決したのですか?

石炭を使いたいところですが、

石炭がありません。

 

そこで中国の人々は森林を伐採し、

その木を燃料として薪をくべました

 

それで発生した熱で鉄を溶かし、

金属製品をつくったのでした。

 

これによって森林伐採が進み、

山々では土壌の流出や砂漠化の被害が発生しました

本当に救いようがありません…

 

③スズメの打倒運動(特大失敗)

毛沢東は言いました

「スズメたちが米や小麦をついばんでいる」

「スズメのせいで農作物に被害が出ている(だろう)」

「ただちにスズメを打倒せよ」

 

単純思考にもほどがありますね(笑)

効果は出たんですか?

結果として、中国の農業生産は壊滅しました

 

まず毛沢東の指令によって、

全国で何億羽にも及ぶスズメが駆除されました

 

でもスズメは益鳥です。

スズメはイナゴなどの昆虫を食べるため、

農作物をイナゴなどの被害から守ってくれるのです。

 

スズメがいなくなると、

イナゴにとっては天敵がいなくなるようなもの

 

たちまちイナゴが大繁殖し、

イナゴたちは農作物を食い荒らしていきました

 

これによって中国の農業生産は激減し、

農村では餓死者が続出したのです

 

毛沢東の失策は救いようがありませんでした。

4000万人以上の餓死者を出し、

さらに経済は崩壊。

毛沢東は責任をとる形で国家主席の座を退いたのです

 

1960年代 劉少奇・鄧小平の「調整政策」

毛沢東の退任後、

1959年に国家主席の座についたのが劉少奇でした

 

劉少奇の使命は「中国経済の立て直しでした

劉少奇は毛沢東の失策を持ち直すために、策を講じます。

 

劉少奇は「奇才」鄧小平に意見を求め

調整政策」を実行しました

 

調整政策の第一目的は「労働意欲の回復」です

 

劉少奇と鄧小平は

資本主義(市場経済)の原理を部分的に導入し、

経済復興を図りました

 

具体的にどういうことかというと、

政府が課したノルマを超える量の農作物を作った人には、

余った分を自由に売ることを認めたのでした

 

こうすれば、

がんばったらがんばった分だけ

農作物を誰かに売って稼ぐことができます。

 

そして農民の労働意欲は少しずつ回復していったのでした。

 

てっちり先生
てっちり先生
これを良く思わなかったのが、毛沢東です…(恐怖)

「私の政策は失敗だったというのか」

「劉少奇め、図に乗りおって」

「劉少奇のつくり上げた経済は、もはや資本主義ではないか」

 

ネガティブな感情が毛沢東を支配しました(笑)

嫉妬心にかられた男は怖いのです

 

そして毛沢東の抵抗(パワハラ)が始まります

 

文化大革命 始まる

文化大革命の目的

文化大革命の目的を簡単に言うと、

以下のとおりになります

文化大革命の目的

①資本主義の否定と、社会主義の復権

②資本主義に走る劉少奇・鄧小平らの打倒

※毛沢東の嫉妬が本音

③毛沢東の名誉・権力の回復(笑)

 

先生のおっしゃるとおり、

嫉妬にかられた男の行動は怖いですね

 

毛沢東は「社会主義の復興」

という大義名分を振りかざし、

劉少奇国家主席と鄧小平の政策の誤りを指摘し、

彼らを「走資派(実権派)」として批判しました

 

そして政策が成功しつつある劉少奇らを失脚させ、

毛沢東の名誉と地位を回復させようとしたのでした。

 

紅衛兵の組織

毛沢東は劉少奇を失脚させるため、

手ごまをつくっていきました

 

まず毛沢東は天安門広場で演説し、

劉少奇らを徹底的に批判

「資本主義に走る豚を倒し、社会主義に立ち返れ」

と一喝しました

 

そして「毛主席語録」が配布され、

ある種の洗脳教育が行われたのでした

 

毛沢東にもっとも心酔したのが、

社会主義に熱心な学生たちでした。

 

学生たちは毛沢東のもと、

紅衛兵」として組織され、

毛沢東の文化大革命の先兵となりました。

 

走資派(実権派)劉少奇と鄧小平の失脚

毛沢東は紅衛兵を率いて、

劉少奇国家主席を捕らえました。

 

獄中で劉少奇に激しい拷問を加え、

その傷がもとになって

劉少奇は病死しました。

 

更に劉少奇の参謀として活躍した

鄧小平を捕らえました

 

毛沢東は「鄧小平は賢くて使える男だ」

と評価しており、

鄧小平は殺害されることはありませんでした

 

とは言っても鄧小平は政界から追放され、

僻地で冷暖房なしの環境で過酷な工場労働を強いられ、

屈辱的な日々を送ることになりました

※のちに鄧小平は復権しますが。

 

毛沢東の政権復帰

劉少奇と鄧小平の失脚後、

毛沢東は政権に復帰しました

 

毛沢東陣営による政府では、

毛沢東周恩来・国防大臣の林彪

江青(毛沢東の妻)ら四人組などが実権を握りました

 

文化大革命の終結

毛沢東とその仲間たちが死亡

または失脚したことによって、

文化大革命は終焉を迎えます

 

文化大革命によって復権した

毛沢東政権が崩壊していく様を詳しく説明していきます。

 

紅衛兵の取り締まり

毛沢東の権力回復後、

毛沢東が組織した学生集団(紅衛兵)は暴走してしまいます。

 

 

紅衛兵は中国全土で暴れまわり、

企業の経営者や教師、寺院などを

破壊のターゲットにしました

 

経営者層や教師、寺院などが

ターゲットになったのはなぜですか?

社会主義は「平等」を願う思想です。

社会主義を熱烈に信奉していた紅衛兵は

「人の上に立つ人間を殺して、みんなを平等にしよう」

という意味をこめて、

 

人の上に立つ役職

社長や教師などを真っ先にターゲットにしたのでしょう

 

ちなみに寺院は「人の上に立つ神」を祭る場所

ということで徹底的に破壊されました。

 

社会主義(マルクス主義)では無神論が唱えられており、

寺院などの宗教施設は破壊されてしまうのです。

 

結果として、

紅衛兵の暴走によって

2000万人もの人々が死亡したと言われます。

 

紅衛兵の運動は大きな社会混乱を招き、

中国の経済発展を大きく遅らせる原因となったのです

 

さすがにみかねた毛沢東は、

中国人民解放軍を動員し、

暴走した紅衛兵を逮捕・投獄しました

 

紅衛兵は毛沢東の政権奪還のために利用され、

利用価値がなくなったあとは捕らわれてしまったのでした。

 

1971年 林彪事件

林彪は毛沢東時代の国防大臣で、

中国人民解放軍の指揮を担当していました

 

序列としては毛沢東に次ぐNo.2のポジションでした

 

林彪には野望がありました

「国家主席になりたい」

 

林彪は毛沢東の政権中枢を、

林彪と親しい軍部の人間で固めていき、

毛沢東の死後の政権を狙っていました。

 

毛沢東は林彪の急激な成長を警戒し、

林彪が就任したいと願っていた

国家主席の役職を廃止します

 

国家主席への道を絶たれた林彪は、

強硬手段に出ようとします

「毛沢東を暗殺して、自分が権力を握ろう」

つまり軍事クーデタを起こそうとしていたのです

 

毛沢東はこれを事前に察知して、

林彪のクーデタ計画は失敗

 

「やばい、捕まる…」

林彪は命の危険性を感じ、ソ連への亡命計画を立てました

 

そして林彪は飛行機に乗って飛び立ちます。

しかしその飛行機が爆発(おそらく毛沢東の罠)

林彪は消されてしまいました。

 

毛沢東・周恩来の死と「四人組」の逮捕

1976年 周恩来が病死しました

それを追うように、毛沢東も病死

 

中華人民共和国を築き上げた

2人の英傑が亡くなりました。

 

毛沢東の死後の実権を狙っていたのが、

江青(毛沢東の妻)ら四人組でした

彼女らは文化大革命路線を続けようとしていたのです

 

しかしそれにはストップがかかります。

 

毛沢東亡き政界の実力者たちは、

次期指導者に華国鋒を指名しました

 

華国鋒は文化大革命を否定し、

文化大革命継続派の江青ら四人組と対立しました

 

そして華国鋒は江青らの逮捕を決定し、

四人組は失脚しました。

 

こうして文化大革命の指導者が

死亡または失脚したことで、

文化大革命は幕を閉じました。

 

 

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